自死遺族になった日


 

なんかすごく暗いタイトルでメンヘラ感があるのだが、確かにメンヘラなのかもしれないけど、「自死遺族」と検索をかけると「弟が自殺しました」など見た目が暗い文字情報がたくさん出てくる。

少し前に、友達から打ち明けられた話がまさにこの身近な人が自殺をしたという話で、聞いて「まじですか‥」「なんて返したら良いんだろう‥」「こういう時は聞くに徹するだよな」と思い、ずっと「うん、うん」と聞いていた。

その友達はあまりに辛いから自分と同じようなことが起こった人の声を一先ず聞こうと考えたみたいで、「自死遺族」と検索をかけて検索結果にあがってきた記事をたくさん読んだみたい。そして安心に似たものを感じていたようだ。

僕はその気持ちはわからなかった。

かくいう僕も自死遺族である。
父を自死、自殺で喪った。

ブログとか、諸々やってるけどこの話は何となく暗くなるし周りの人も気を使う感じになってしまうから、話す必要はないと思いながらも、誰かと話していて家族の話になり、父が亡くなっていることを告げると「え、病気で?」みたいな深堀質問に「そんな感じで」と返すと「自殺?」と更に深堀されて「そう」と返すと「ごめん」が戻ってくる、が何回かあった。別に「ごめん」と言われるほどでもなく、そんなに気にしていないのだけど、その都度、やっぱり思い出す、父、あの日。
自死遺族になった人が検索して自分と同じ境遇になった人の声を聞いて一先ず安心するのなら、少しだけ、その安心に貢献できたらと思い、あの自死遺族になった日の話を振り返ろう。
僕が確か21歳だった5月11日だ。父が一週間くらい帰ってこず、連絡しても返ってこず、そんな状況の中で日曜日の22時過ぎに家の電話がなり、その電話を母がとり、電話をかけてきたのは警察で、一方的に「あなたの家の車が燃えている」と伝えられ、母はその場に崩れた。そんなことを知らない僕はお風呂に入っていて、外から妹の声「早く風呂をあがれ、お父さんが大変だ」で「は?」と思い、急いであがって台所にいって、母も妹も泣きながら電話の話をしてくれた。冷静さはもううちにはなかった。なので、近所に住む叔母に連絡して一緒に警察署までいってもらうようにした。「車は僕が運転する」と言ったのだが、身体に力が入らない。特に足に力が入らない。母が心配してくれ、結局僕は助手席になり母が運転した。

23時過ぎに警察署に到着した。こんな時間に警察署に行ったことがないし、そもそも警察署なんかほぼ行ったことがなかった。免許の更新もその頃はなかった。警察署の中に入り、苗字をいうとすぐに警察官2人がついて部屋に案内された。

事細かな状況が伝えられた。現場の住所、現場の状況、時間。「車の中には一人確認された」と伝えられた時はもう既に電話をもらった後に覚悟をしていたことではあったが、改めて落ち込んだ。しかしその死体がまだ父のものかはわからず、父でない方がまずい状況ではありながらも、何かの間違えであってくれ、他人であれ、と祈った。だとすると父は今どこにいるのか、そればかり妄想した。母が警察の質問に答えている。警察はタイピングが下手だと思った。ぎこちない手の動き、不器用そのものだと思った。少しだけ余裕を持てた時には既に2時頃で、ただその少しあとにその警察署に父の燃えた車が到着したと聞いて再び落ち込んだ。そこから何をしたかよく覚えていないが家に到着したら、既に朝の6時を過ぎて外は明るくなっていた。家を出るとき、一緒に住んでいる祖父母に何も連絡をしなかった。帰ってすぐに伝えると「大変だ」と朝にも関わらず大きな声を上げた。親戚が続々とうちに集まってきた。「何があったんだ」「朝刊にはこの話は載ってなかった」親戚はノイズだと思った。僕ら家族を心配しているのか、自分のメンツを気にしているのか、もはやどっちでもよく、ただ帰って欲しかった。そんなことを思いながら父の兄弟がうちに到着した。父の話をしだした。父の昔の話だ。今は聞きたくなった。何のつもりで言っているのだ。もうこの頃には父に対して悲しいというより、ふざけるなという気持ちが大きくなっていた。自殺というのは「?」を残して死ぬということで、そこに明確な答えがなく、ただ厄介なのは遺された人それぞれがその自殺に対して勝手に解釈を加えることであると思った。家族が壊される。もう壊れていたから1人死んだのか、どうか。振り返る。しばらく前から父とは会話はなかった。とにかく帰りは遅かった。何をしていたんだ、そんな質問もしないほど冷め切っていた感がある。父が1人台所でご飯を食べる。台所には父1人である。どんな気持ちだったんだろう。わからない、想像もしなかった、それが毎日だったから。僕が家に着くのは深夜0時頃。父はそれより遅かったくらい。空気みたいな存在。ただ帰ってくるときは車のライトが玄関の曇ったガラスから見えた、あの光が父の存在のような、そんな存在感。いつから父と話していなかったんだろう。家の二階には僕が昔描いた父の似顔絵が貼られている。すごく似ていると褒められたその顔は笑っているのにしばらく笑ったところは見ていなかった。他人以上に他人な関係というのか何というのか、家族というのは難しい。父の兄弟の話を無視して僕は自分の部屋のパソコンを開いた。その頃僕は研究室に配属されたばかりで、研究室のスケジュールが少し先まで決まっていた。普通の死に方ではないから色々と解決するまで時間がかかると思い研究室の先生に正直に状況をメールで伝えた。そのメールには今週一度直接お話ししたく時間を頂きたいと添えた。そうしないと大学に再び行くことがなくなりそうだったからだ。

一睡もしていない朝は長くそのまま次の日に続いた。とにかく妹と弟には学校に行って欲しかった。どんな気持ちかは知らないがとにかく学校に行って気持ちを紛らわして欲しかった。そして母が心配だった。僕は諸々の手続きを母と分担しながら全ての作業にお互い同行した。

少しだけ寝て、また警察署にいった。昨日というより数時間前より詳しい情報を教えてくれた。実際に燃えた車を見せてくれた。ここまで燃えた車を見たことがなかった。その車を見ながら色々と警察は教えてくれた。車内にポリタンクがあった。運転席から燃え広がっていた。実際に燃えた車を見ると説明をもらわなくてもよくわかる。聞きたい話でも、聞きたくない話でもなかった。あの死体が本当に父のものかを北里大学に判断してもらうために父のものと思われる歯ブラシをたくさん警察に渡した。自分の家にあった歯ブラシの本数に驚いた。司法解剖。テレビの中のものかと思ったらそれが父に向いた。警察が燃えた靴を持ってきた。片方だった。もう片方は完全に燃えてしまったらしい。その片方の靴を見た時に父のものかわからなかった。だから何も言葉がでなかった。僕らはいつから家族ではなくなったのだろう。

父を振り返る。絵や工作を小さい頃に教えてくれた。父は手が器用であった。絵も上手かった。小学生だった頃ミニ四駆に僕がハマると父も一緒に作った。父は工学的にミニ四駆を語るが他の家族のマシンの方が速かった。父は車の仕事で、車がすごく好きだった。よく僕の友達のお父さんがうちに来てその友達のお父さんの車をいじっていた。何をしてるのかわからなかったが父が友達のお父さんの車に何かをしながら、その友達のお父さんと笑いながら話していた。僕が高校生になると、物理が難しくなって父に教わっていた。よく覚えているなと感心した。そして教育の本質に触れた気がした。僕がしているのは教育というより大学受験だ、けど割り切ってそのまま大学受験に向かった。御殿場のアウトレットでショッピングをして、河口湖でバス釣りした。楽しかった。思い返すと父にはお世話になりっぱなしである。あまり思い返すのはやめようと思った。面倒くさい手続きのことばかり考えようとした。呆気なく「自殺」と判断された。しかしその死体は誰のものかわからない。その自殺の決定は何を意味するのかわからなかった。

少し休んだか、別日か忘れたが父の車が燃えた現場と近い消防署に母と向かった。父の車が燃えているのを発見したのは若い男女二人らしい。見晴らしの良い田んぼが広がるエリアの広い道に車を止めて燃えたらしい。夜だったからすごく目立っただろう。僕がその時消防署員と話している部屋からその現場が見えた。その現場の前の大通りを僕ら家族は遊びに行くたびに通っていた。不思議だったのは父の車が燃えたと聞いた時に、パッと想像した場所だった。というのは僕が1人で車で遠出した後、その場所に車を置いて休んでいたからである。何となく血の繋がりを感じ、歯ブラシなんかで本人確認をしなくても本人であることを僕は確信した。

燃えた車をなぜか車の整備会社みたいなところに預けた。「お金にならないですね」と言われた。この工程はよくわからなかった。別にお金はいらなかった。

父が勤めた会社に父の荷物を取りに行った。その時は母と妹と。別に荷物を取りに行くことが目的で父の会社での様子を聞く予定はなかった。が、僕らを色々と案内してくれたのはその会社の労働組合の方で父との思い出を話し出した。「一緒に出張に行った時にお兄さんの大学が決まったことをすごく喜んでいた。」「お嬢さんが音大に入ったことをすごく喜んでいた。」僕は「おめでとう」と父から言われたことはない、記憶していない。ピアノをやってる時も次々に課題を言い渡すようにCDを渡してきた。そんな父は実は僕らの成長を喜んでいたという側面を知って僕はその場にいられなくなってトイレに閉じこもってしまった。もう少し話したかったと思ったけどもう遅かった。ただ荷物を取りに行っただけなのに、泣くはずじゃなかったのに。妹が僕を呼びに男子トイレに侵入した。僕は何事もなかったかのように出た。父はそんなに遅くまで働いていなかったようだ。つまり、いつも僕が玄関でみた父のライトまでの時間にはすごくラグがあり、どこかに寄っていたのだろう。誰かと会っていたのであろう。でもそこはもうそっとしておこうと思った。父の荷物の中に僕が生まれる少し前に書かれた父の履歴書があった。転職を考えたのだろう。でも転職せずにいた。

家に帰り家に届いた封筒を探した。ETCカードの履歴を調べたかった。父は車を燃やすまで何をしていたのか知りたくなった。調べてみると富士吉田市に行っていたことがわかった。樹海で死のうとしたのか、それとも僕らと遊んだことを思い出そうとしたのかわからない。けど、富士吉田市にいた事実があった。あと燃やす燃料もしっかり買っている履歴があった。最後の食事はロイヤルホストであることもカードからわかった。なんでロイホなのかわからなかったけど。

北里大学があの死体は父であると判断したと警察から伝えられた。2週間以上時間がかかった記憶がある。父の遺体はこの間どこかの斎場で保存されていた。本人であるとわかってすぐにその管理費の請求がきた。一泊三つ星ホテルくらいの値段か、それくらい。

葬儀ができたのは父が亡くなってから3週間ほど経ってからである。密葬にする話も出たが祖父と母と話し合った上で普通に葬儀をすることにした。ただ普通でないところは遺体の損傷がひどいため遺体を見ることはしないというところである。僕も見なかった。ただ今見なかったことを後悔している。本当に父が亡くなったのか納得できない気持ちが少しある。これは亡くなった父を見ていないからと僕は決め付けている。そんな邪魔な決め付けをしないために見ておけばよかった。

父の遺体がうちに運ばれた。僕と弟と親戚のおじさんが家に棺を運んだ。きちんと重かった。この中に父がいると何となく思った。

釘打ちが始まった。弟の番がきた。弟は部屋から出て行ってしまった。その弟を追って親戚のおじさんが部屋を出て行った。「きちんとやらなきゃダメだろ」おじさんが弟を怒った。「できるかよ」弟が泣きながら言った。弟が泣いているのを見たのはいつぶりだろうか。弟の気持ちがすごくわかった。弟はすごく素直で心優しい。しばらく弟を1人にしてあげようと思った。しばらくして弟は出てきて釘打ちをした。

葬式では、喪主の母に代わって僕が挨拶することになっていた。亡くなってから3週間も経ってからの葬式はとても普通ではない。祖父らが諸々呼びかけの作業をしたようだが、誰がくるのか、来た人はどこまでの情報を知って来てくれたのかそれはわからないけど、その葬式が始まろうとしている。お神輿みたいな霊柩車よりも黒の霊柩車の方が高い。何となくで選ばれた黒の霊柩車に父の遺体を乗せて、遺族みんなでその霊柩車についていった。しばらくして葬儀場に到着。何の写真にしようか、家族で選んだ遺影の写真はすごく遺影ぽく大きくなって元気か元気じゃないかわからない表情の父がいた。このどこかに父がいるのかなと思ったけど、まだ亡くなったと言われた父を見ていない。棺桶にはしっかり重さはあったけど見ていないということで亡くなったことを認められない。今更そんなことを思っていた。挨拶で何を言うか。何となくは決めていた。ネットで葬儀での挨拶で言ってはいけない言葉を調べて組み立てた言葉は無難だったと思う。一応文にして家族にこういう挨拶にしようと思うと共有した。「良いと思う」と返ってきたけど、何となく無難過ぎて嫌で白紙にした。そして葬儀場に人が入ってきた。僕の友達もたくさんいた。友達だけじゃなくその友達の親もいた。すごくお世話になったサッカーのコーチもピアノの先生もいた。普段僕を見る目とは違う目で僕を見ているのがよくわかった。僕はメガネを外して来た人を意識しないようにした。可哀想、と多分みんな思っている、そんな風に思っていたし、客観的にも明らかに可哀想な状況であった。大学4年、3年、高校3年の子どもが遺されて父が自殺する、そんな状況を聞いたら、「これから平気なの?」と僕だってなる。

みんなと話したくなかった気持ちがあったのは、何を話しても「本当に大丈夫?」と心配されそうだからで。ただ僕はだいぶ休んだし兄弟だっておじいちゃんおばあちゃんだっているし、母もいる。もう大丈夫だと思って遺族の前の席に座っていた。何となく公開処刑の気分である。可哀想と思われる、ただそれは〝気がする〟なのだけど。

葬式が始まった。葬式には参加し慣れていたのに前の席に座ったことがなかったから何となく初めてのような気持ちで緊張していた。焼香をあげる時に友達が僕を見てお辞儀をする。なんか気持ちが悪かった。誰がこんな光景を予期していたか、こんなことを考えたことがなかった。それを何度か繰り返した。誰かの子供が泣き出して誰かが外に出た。そうだよな、知らないおじさんが死んで緊迫した雰囲気の場は赤ちゃんにとっては気分は悪いよな、ごめんな、と思った。

僕の名前が呼ばれた。挨拶の時間である。

人前で話すのは好きじゃないし、可哀想と思われた状態で注目されるのは嫌だった。僕は長男だし頼まれたから、そこにいた。そこにいるのは当たり前だと思った。けど、何も話したくないわけではなかった。何を話したか具体的には覚えていないけど、定型文にあるような来てくださったことへの感謝と告別式の予定と別室の食事について説明はした。ただそこに加えて、父が亡くなった日から大分時間が経ってしまったオブラートに包んだ理由(もちろん死に方とかは言わない)と僕のその時の気持ちとか色々な人に協力してもらったとか色々やや長く話したと思う。ピアノの先生とか友達が泣いているのが見えた。なんでみんな泣いているんだろうと思うくらいに父が死んだことに慣れていてそれはそれで不思議だったけど、遺影の方を向くと辛くはなったけど来てくれた人たちを向いていれば大丈夫だった。父がいない世界なんか想像できなかったけど、夢にも見なかった父の葬式を今迎えて何も考えられないというか考えたくないというか、そんな状態を腑抜けと言うんですね、とただただ恥ずかしく思っていた。

葬儀が終わって葬儀場で食事をした。親戚から「よく頑張った」と肩、背中に手を当てられながら言われた。勇気付けてくれてる感なのかわからなかったけど、その言葉は僕には響かなかった。励ましてくれていたとしたら申し訳ないけど。いとこがふざけて笑いをとってくれた。僕は普通に笑ったし、僕はそのいとこに救われた気がした。励ましを直接的に表現されても素直に寄っかかれない。笑いという共感のコミュニケーションの素晴らしさ、力を強く強く感じた。とりあえずマグロのお寿司ばかり食べた。

翌日の告別式。お通夜とは比べものにならないくらい淡々と進んだ。棺桶の中に本当に父がいるのかわからないまま進んだ。だからお坊さんの発する事には全く集中できないし記憶にない。葬儀場の職員は毎日こういう遺族を前にして何を思うんだろう。別の階では僕と同い年くらい、20歳くらいの男性の葬儀のようだった。僕が職員だったら、何で亡くなったのか想像するだろう、そして軽く調べるだろう。職員として失格なのだろうけど、そもそもそんなことすら慣れてしまうものなのかもしれないけど、遺族を見て少なくとも何か思うだろう。職員は丁寧に接してくださった。僕ら遺族と葬儀の件でやり取りしていたのはいつもお世話になっていたJAの職員だった。JAには葬儀関係の事業もあると知って最初は驚いたけど開かれるまですごく時間がかかった葬儀の準備で長くその職員と話していたこともあってもうJAとかそんな属性は関係なくなっていた。このJAの職員は僕らのことをどう思っていたのだろう。そしてそのJAの職員からこの葬儀場の方々にはどういうレベルの話まで通っていてどんな会話がされたのだろう。考えてもしょうがない、いや掘ってもガッカリするようなことしか考えられない状況だったというより、父が亡くなってから本当に色々な人が真剣に僕らを悲しんで気をつかって接してくるので、いやそれは僕の意識、被害妄想なのかもしれないけど、色々と本音が知りたくなっていた。自殺だからなんだよ、と、別に病死と何が変わるんだよ、と。完全に被害妄想の気。

火葬場に向かう。やっぱりいとこが話してくれる。母も笑う、本当にありがとう。妹も母も親戚のおばさんたちも丁寧に働く。弟は親戚のおじさんから話しかけられてうざったくしてる、弟らしい。

父の棺桶が燃やされる場所に入ってボタンが押された。燃えた遺体をまた改めて燃やす。この燃やすのは必要な作業というより儀式であると思った。さっき運んだ棺桶のなかには父の何が入っているのか肉は残っているのか、そんなのもわからないまま棺桶が燃やされる。棺桶の父が完全に燃え切るまで待つ。僕らは別室に移る。家族親戚の大移動。周りは少し僕に気をつかう。いつも元気なのに少し元気のない感じになっていてごめんよ。ただ改めて今の状況がわからない。亡くなった父を見ていないから。本当はまだ生きているかもしれないと何度も思った。警察に「見ない方がいい」と言われそれに従った3週間前の自分を悔やんだ。あの時に「それでも父に会いたい」と言えば今のもやもやした気持ちはなかったかもしれない。それでももう遅い。見ても大丈夫なような生々しくないカラッとした骨の状態に変化している途中である。まだ僕と話していた頃の父の姿で止まっていて「これがあなたのお父さんだ」と言われた骨を見ても器用に都合良く「そうですね」と言えないことはわかっていた。火葬場の僕らの部屋は賑やかだった。本来の親族の雰囲気に戻りつつあった。このうちの賑やかな雰囲気に父は平均値以下でポジティブに貢献しているとは言えなかったけど、明るいだけでは全体として面白くなくて部分的に暗さがあるから明るいところが引き立ち、また明るいところがより明るくなろうと努力するような、そういう効果的な機能が父にはあったように思う。誰もいなくなった父が燃え切ろうとしているボックスの前に1人で移動した。何も変わらない眺め。隣の隣のボックスが開き別の人の骨が出てきて別の遺族が迎えていた。もうそこには悲しみのようなものはなく、人って強いと思ったし、多分僕らもそう映るだろう。

僕らの番がきた。みんなで整列とは言えない列で父が公式に燃え切ったボックスの前に行く。係りの人がボタンを押し取り出すのをガラス越しに眺める。父が寝ていた台に注目する。比較的、残っているものが少ないように思った。一回目に燃えた車の中で既に骨の状態になっていたのかなと思った。

別室の移り、父が燃え切った台が目の前にきた。「これが喉仏で‥」と骨の説明をされたけどそれが「あなたの父なのですよ」と強く闇雲に説得されているようで何か嫌であった。父と言われた骨を見てて「すごく少ない」と思った。多分車と一緒に燃えた時に相当の熱で溶かされたのだと思った。そして何となく「小さい」と思ってしまった。残った骨を2つの壺に入れる。僕は弟と。一人一本の棒を二人で箸のように使い骨を壺に入れる。何回かやったことがあったけど今までより骨が軽いように思えた。骨は2つの壺に入りきってしまった。「そんなに父は小さかったのか」と思ってしまった。その壺を擦ってもアラジンのあのランプのように何も出てこない。ただ墓の下に埋めるだけである。

お寺に向かう。到着。墓石の手前に厚い石の板がありそれを退かした。今まで葬儀には何度も参加していたものの基本的には後ろの方にいて、その厚い石の板の存在を注意深く見たことはなかった。厚い石の板の下にはスペースがありそこに父の骨が入った壺を入れた。みんなで線香をあげた。夏のような青空。父の車が燃えてると連絡をもらい警察に行き、早朝帰った時の朝焼けを思い出した。「これからどうなるんだろう」そんな漠然とした不安をもった日から1ヶ月近く経って父がいないからというより、家族会議というようなものを一回もしてないけど、父が亡くなったことより家族を大切にしないといけないと家族それぞれが思ったような気がして、自分自身それぞれに優しさを持てるようになった気がした。亡くなる前にできていたら‥そんなことを思ったってしょうがないのだけど後悔はいつまでもついてくると思うし今も時々思うけど、「死んだら終わり」ということを父の死を体験して強く思った、何もできない、バッドエンド。死んだら終わり、だから死なせないし、死なない。

うちの墓は新しくしたばかりだった。新しくなった亡くなった人の名前が彫られる石のボードには一番最初に婿入りの父の名前がのった。違和感でしかなかった。婿入か否かに依存するのかもしれないが右側に父の名前が載る。年齢を見て「こんな歳だったんだ」と思った。家族の年齢をよく知らない、みっともない。

永六輔か誰の本に、明治時代では自殺した家族の遺体を遺族みんなで殴るか蹴るか甚振り、家族のお墓ではない場所に入れるという情報があった。これはすごくポジティブな習わしだと思った。生きている人のための行為だと想像する。生きてる人が自殺を選択しないようにするための刷り込み作業。多分家族みんな、涙しながら執行うのだろう。

クレジットカードなどで自殺するまでの父の行動をポイントでおさえていくと確実に自殺まで直線的に繋がる。けど車のなかで燃料を自分に振りかけ、僕らにメッセージを送った瞬間、もう自殺するゾーンから戻れなくなってしまったことはわかるけど、火をつけ確実に自分が燃え、「熱い」を通り越し「痛い」を通り越し、摩り切れそうになる意識の中で、「やっぱり生きたい」と最期に父は思ったと想像する。家族だから何となくそこはわかる。もう戻れなくなった、ただそれだけなんだけど、本当は戻りたい、戻れるプライドの低さがなかったというのであればそんなプライドだけが燃えてしまえばよかったのに。

 

 


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1 Response

  1. より:

    こんばんは、はじめまして。
    なんのご縁かわからないんですが、なぜかTwitterをフォローしており、タイトルが気になったもので初めてブログを読ませていただきました。たぶん大学が一緒なのかと思います。私は建築学科です。
    私は2週間ほど前に首を吊りました。医者から家族にはいつ死んでもおかしくないと伝えられていたようです。
    私は、死ぬことよりも生きることの方が怖くなり、死ぬことにしました。学校の汚い階段室の最上階の扉に携帯の充電器を引っ掛けて、丁寧に靴を脱ぎ、靴に簡単な遺書を残して首を吊りました。気を失う直前に思ったのは家族や恋人、大切な人たちのことでした。そんな深く考えることもなく気を失いました。気を失って間もなく、恋人が私を発見したようで、今も生きてます。意識が戻ったときは生きてるのか死んでるのかわからず、混乱しました。そのあと生きてることがわかり、何で助けたんだと恋人を罵りました。家族も恋人もみんな泣いていました。
    今思えば、助けられたことは幸運だと思います。私が何も言わずに消え、それを不審に思って探し、汚い階段室で発見した恋人の勘は凄いと思います。今は助けてくれてありがとうと素直に言えます。しかし、その当時は、お腹が空いた、眠いという当たり前の感覚のように、死にたいという感覚が湧いてきました。空腹が我慢できないように、私は死にたい欲求を満たそうとしました。未だにその欲求が湧いてきます。
    でも、今この記事を読んで、少し死にたいという欲求から遠ざかれるような気がしました。
    もうちょっと頑張って生きようと思います。

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