死刑に対する驚きや迷い、ためらいが、世の中全体で薄くなってはいないか。

 宮城県石巻市で6年前におきた殺傷事件で、当時18歳7カ月だった被告に死刑を科すことを認めた最高裁の判決から1週間余。国内外で大きなニュースが相次ぎ、その山のなかに早くも埋もれてしまった感がある。

 被告は同居していた女性に暴力をふるったうえ、女性をかくまった親族ら2人を殺害、1人にけがを負わせ、一審の裁判員裁判で死刑を宣告された。厳しい量刑との受けとめが専門家の間では多かったが、二審も、更生の可能性などを一審より広く認めつつ結論を維持した。

 新たに命を奪うことを意味する死刑判決に接すると、粛然とする。人として成長する途上の犯行であればなおさらだ。

 少年凶悪事件の刑罰を考えるうえでエポックになったのは、山口県光市の母子殺害事件だ。当時18歳1カ月の被告は、面識のない女性を強姦(ごうかん)目的で襲い、赤ちゃんまで手にかけ、2012年に死刑が確定した。

 亡くなった人の数など双方の事件には重なる点があり、判決は均衡がとれているようにみえる。しかし、こうして死刑に慣れてしまうのを憂う。

 光事件の一、二審判決は無期懲役刑だった。最高裁が06年に高裁に差し戻し、2度目の最高裁の審理で死刑判決が支持された。そのときも、4人の裁判官のうち1人が反対意見を表明する異例の経過をたどった。

 石巻事件では、そのような対立や葛藤は少なくとも表面にはあらわれず、議論が広範にまきおこることもなかった。

 光事件の影響が裁判員らに及び、市民も加わって出した重い判断を、こんどは高裁や最高裁が尊重し追認する。そんな連環のなか、判断が定型・画一的に流れることのないよう、裁判にかかわる法律家は事件の個別事情をふまえた丁寧な審理を、いっそう心がけてほしい。

 中でも弁護人の使命は重い。

 短い期間内で更生の可能性を見極めねばならない少年事件の裁判員裁判は、かねて難しさが指摘されていた。その壁をこえて裁判員と裁判官に届く弁護活動を展開するには、経験や知見を共有し、力量をさらに高めていくことが求められる。

 判決の後も痛ましい事件がいくつも起きている。被害者や遺族の胸中に思いをいたしつつ、しかし死刑の是非をめぐる議論の火は消さないようにしたい。前例にならい、現状を受け入れ、考えるのをやめてしまっては、社会の深化は望めない。