2016-06-26

パチスロを打つことについて、自分自身への手紙

1 まず最初に断言しておこうか。

 パチスロを(習慣的に)「打つ「ことと「打たない」ことを比較したら、

 「打たない」方がより良い。

 そんなことはわかっている?

 うん、そうだろう。

 わかっててやめられてないか問題なんよね。

2 パチスロを打ってはいけないなどとは言わない。

 そんな義務はない。

 道徳的にも、法律的にもパチスロを打ってはいけない義務があるとは思えない。

 普通パチ屋普通にスロ打って逮捕されたりなんかしない。

 誰も決して打つなと俺に強制していない。

 打つか打たないかは完全に「選択」の問題なんよ。

3 パチンコパチスロを打たない人が打つ人に対して言うセリフ代表的もの

 「パチンコパチスロは必ず客が負けるようになっている。わざわざ金を失いにいくようなものだ。

 打ちに行っているやつはバカだ。」

 これ自体は確かに正しい主張ではある。

 だが、これをスロ打ちの人間への批判の論拠にする奴は救いようの無いバカだ(俺もお前も思ってるよな?)。

 「必ず客が負ける」というのはあくまでも最終的な収支の話だ。

 一回一回の勝負では当然勝つこともある。

 でかい金額が短時間で手に入ることがある。

 たとえ設定が1であったとしてもだ。

 「負けるから打つな」なんてのは、的外れなのだ

 一度ずつの勝負で見れば、常に勝つ可能性はある。

 そして俺自身を含めスロを打つやつのほとんどは直前の勝負勝敗しか頭に無い。

 パチスロを打つかどうかは、「打ってはいけない」という決まりを守るかどうかと言う問題じゃない。

 勝つ可能性も負ける可能性もあるが、「打つ」と「打たない」どちらを選ぶかの「選択」の問題だ。

 曲がり角を左に行くか、右に行くかという選択と同じだ。

 どちらも同じ地位にある選択肢って言えばニュアンス通じるか。

4 パチスロを打たない方が良い理由は勝ち負けの先にある。

 打たない方が良い理由は、「どんなに勝っても意味がない」こと。

 スロで勝ちまくって、あぶく銭が増えまくっても俺自身を取り巻く現実ほとんど変わらない。

 パチスロでどんなに勝ちまくったとしても、結局手に入るのは金だけ。

 それも「あぶく銭」、重みを感じられない金だ。

 スロで万枚を出しまくって、100万以上買ったとする。

 だが、それが何だろう。

 出来ることは物を買うことだけだ。

 自分自身人格、周囲の人間人格、嫌な社会自分過去未来職業を直接変えられない。

 銀行口座の残高が増えるくらいか

 クソみたいな現実を変える力は、自分自身の行動にはあるが、スロで得るあぶく銭にはない。

 あぶく銭は現実を変えない。変えてくれない。

5 お前はスロット打ちの習慣を断ち切ることができるはずだ。

 お前は過去スロットを打ってはやめる、また打つを繰り返してきた。

 年単位で打たなかったこともあれば、数ヶ月だけのこともあった。

 やめるために重要なことは今日一日、その日一日だけに着目することだ。

 明日、あさって、来月、来年、スロを打つかどうかはその時期が来た時に自分しか選択」できない。

 とりあえず今日だけは打たないを積み重ねれば良い、というかそれしか出来んやろ。

 パチスロという博打に対する自分自身感情、考え方をもっともっと理解すれば、

 より楽にやめられるだろう。

6 パチスロを打ちたがっている自分へするべき問いかけは「負けたらどうするの?」もしくは「負けるかもしれないぞ?」

 ではない。

 「勝ったとしてメリットがあるか?」、「あぶく銭を得る必要があるか?」だ。

 あぶく銭を得て、それを買いたいと思っているもの価値を見極めることだ。

 俺自身を含め博打をする人間は往々にして、本当は必要ないものを得ることを博打をすることの言い訳にする。

 理由があるからパチスロを打つのではなく、パチスロを打ちたいから無理やりあぶく銭を得なければならない理由でっち上げ

 自分を納得させようとする。

 自分で思ってるよりも巧妙に自分を騙せるのだ。

7 「勝ったとして、このクソみたいな現実が少しでも直接変わるだろうか?」でも良い。

 今現在自分はもう既に必要ものを十分に持っていることを思い出せるはずだ。

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