安倍政権になってから評価が下がり続けている指標がある。

 国際NGO・国境なき記者団が毎年発表している「報道の自由度ランキング」だ。前の野田政権のころは22位だったが、ことしは180の国・地域の中で72位と過去最低になった。

 数字が妥当かどうかはともかく、自由にものが言いにくくなり、息苦しい空気が世の中をおおっている感覚は、多くの人が共有するのではないか。

 あらためてこの3年半の出来事を思い起こしてみる。

 多くの疑問を残したまま特定秘密保護法が制定された。首相はニュース番組が偏っていると文句を言い、総務相は放送局に電波停止を命じることもあると答弁した。首相に近い自民党議員らの勉強会では「マスコミを懲らしめるため広告料収入を断て」との発言が飛び出した。

 揺れているのは報道の自由だけではない。

 憲法を守ろうという訴えは政治的だとして、自治体が集会の後援を断ったり、会場使用を認めなかったりする動きが各地に広がる。教科書に政府見解を書くことが求められ、文科相は国立大の式典では日の丸をあげ、君が代を歌うよう要請した。

 これが、表現、集会、思想・良心、学問の自由を保障した憲法をもつ国の姿である。

 こんなふうに思う人もいるかもしれない。仕事やお金がないと明日からの生活に困る。しかし精神的自由が危ういと言われても、目に見える損害があるわけではないし、騒ぎ立てるほどの話ではないのでは、と。

 だが、自由な考えと自由な口が封じられた社会においては、仕事、お金、平和なくらしを政府に求めることも、そして、それにこたえない政府を批判することもできなくなる。旧憲法下の日本がまさにそうだった。

 この問題について、参院選にのぞむ各党はどんな考えをもっているのか。

 自民党は、表現活動の自由に制約を課す改憲案を公表している。公明党は、支持母体の創価学会が戦前に弾圧をうけた経験をもつが、公約に精神的自由の現状や将来への言及はない。

 民進党は、表現の自由を保障するうえで欠かせない「知る権利」を唱え、情報公開法の改正を訴える。共産党と社民党は言論や表現活動に権力が介入するのは反対だと主張している。

 「基本的人権のうちでもとりわけ重要」と最高裁が位置づけてきた表現の自由に、命を吹きこみ直すか、それとも先細りを許すか。投票先を決めるとき、そんな視点も大切にしたい。