「リメディアル教育」といった言葉が流通し始めたはいつ頃だったでしょうか。
リメディアル教育学会の発足が2005年ですから、2000年前後ぐらいでしょうか。
「medi」という言葉が入っている通り「治療」といった意味合いが含まれています。
「補習教育」と訳されることもありますが、本来の言葉の意味を考えると、「補修教育」でもいいのかもしれません。
これまでにも書いていると思いますが、こういう状況に対して、
「そんなものが必要な学生は大学に来なくてよい」
「そんなものが必要な大学は潰れてしまえ」
というコメントが多く寄せられるかと思いますが、そんなコメントには意味がありません。
なぜならば、「それで、この若者たちはどうするの?」という視点が抜けているからです。
誰が面倒を見るのでしょう?。捨てておくのでしょうか。結局、社会的に面倒を見るということは、社会的にコストをかけるということです。その肩代わりを大学がやっているだけのことです。
大学の小学校化が深刻…授業でbe動詞や単純な割り算、大学も定員割れ激増で必死(BusinessJornal)という記事から。
文=森井隆二郎/A4studio
近年、大学教育現場では小中学校レベルの勉強内容の復習が平然と行われているということが問題視されている。
たとえば昨年2月、関東にある大学に対し、文部科学省が「be動詞は大学水準とはいえない」と教育内容に関して指摘したことが話題になった。また、関西の大学でも、1年生向け授業で「動物園」の読み仮名に「flower」の日本語訳、456センチを10等分した値などが出題されるというのだ。あまつさえこの大学の使用する教科書には、「友達の名前を覚えましょう」「教科書を音読しましょう」といった小学校低学年向けの指導のような内容まで記されているという。(後略)
記事冒頭の記述で、明らかに誤っている部分があります。
それは、「平然と行われている」というところ。
そんな授業をやりたいと思っていやっている大学はないでしょう。
目の前の学生を見て、「やらないと仕方がない。話にならん」ということでやっていることを、「平然」とは言いません。
また、こういった学生への対応を、アクティブラーニングの流れに結びつけているところにも違和感があります。
確かに、アクティブラーニングは、現在の大学教育(だけでなく、初等中等教育でも)において、大きな潮流です。
もちろん、リメディアル教育が必要な学生に対して、単に座学で勉強するのではなく、さまざまな活動の中で、基礎的な知識や技術を身につけるために、一定の効果はあるかと思います。
でも、今、大学教育でアクティブラーニングが必要とされているのは、それだけが理由ではないはずです。
「学生の質低下→アクティブラーニング」という図式は分かりやすいですが、アクティブラーニング側の視点で観たときには誤解です。
このような誤解が広まっていくと、「はいはい、レベルが低い学生は、学習はともかく、何か実践的な課題を与えて、学生自身で取り組ませておけばいいんでしょ。何か、新しい商品提案でもしてみる?」という、もっともダメなアクティブラーニングが広がってしまいそうです。
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