【阪神】福留と運命の糸で結ばれた恩師・佐々木恭介氏が二人三脚の道のり語る

2016年6月25日16時29分  スポーツ報知

 ◆広島―阪神(25日・マツダスタジアム)

 福留にとって運命的な縁のある恩師が、佐々木恭介氏(66=大和高田クラブ監督)だ。95年ドラフトでは7球団競合(高校生、野手ともに歴代1位)の1位指名を受け、当時の近鉄・佐々木監督に交渉権を引き当てられた。意中の球団でなかったため入団を断り、日本生命を経て98年ドラフトで中日に逆指名1位で入団。入団3年目の秋季キャンプから、中日の1軍打撃コーチに就任した佐々木氏との師弟関係がスタート。福留と歩んだ道のりをスポーツ報知に語ってくれた。

 ―ドラフト1位指名を拒否された近鉄監督、中日1軍打撃コーチで師弟関係を築くなど福留とは切っても切れない縁がある。

 「PLに入った時から孝介のことを見ていました。大阪予選で清原の本塁打記録を抜いて甲子園にも出場。いい打者だなとずっと思っていた」

 ―近鉄の監督に就任し初仕事となった1995年のドラフト。PL学園の福留には7球団が競合したが交渉権を獲得した。福留は意中の球団以外は社会人入りを明言していたが強行して1位指名。

 「あの年は孝介(福留)が活躍した夏の甲子園を見て『どこの球団にいくのかな?』と思っていた。そしたら(95年)8月に近鉄球団から要請があったり、すぐに編成会議に出た。スカウトからは『パ・リーグにはこない。厳しいです』と言われて。でも自分がずっと気になってきた選手を回避するなんて考えられなかった。孝介を外した時のリスクは大きかったが僕は(クジを)引きますよって自信を持っていった」

 ―そこから運命の出会いが始まった。

 「3回ぐらい交渉に行ったかな。何とか翻意にすることできないかなと思ったけどね。結局は断念するんだけど。早く断念したのは経緯があってね。当時の近鉄の社長が『とにかく3年間、近鉄入ってくれ。4年目に自由選択権与えるから好きな球団に行ってくれ』と。それは本人に言ってもいいけど、マスコミに言ったらダメですよと言ったんですがポロッと出てしまって。コミッショナーに知れて大問題になって、年内に交渉断念になった」

 ―それが無ければ根気強く交渉を続けた?

 「そりゃね。3回交渉に行く間にも孝介に何枚も便箋に思いの丈を書いてね。男にラブレター書いたのは初めてだよ(笑)。入団したらスーパースターになるまでの準備は十分に近鉄でするからと。懐かしいね。孝介がアメリカに渡るときに当時の話しをしたら『僕はまだその手紙を持っていますよ』と言ってたね。俺もまだドラフトの交渉権確定の用紙は持っているけど」

 ―近鉄では縁がなかったが1999年のオープン戦。近鉄対中日戦(大阪D)でルーキーイヤーの福留と対戦する機会があった。

 「あれはオープン戦の終盤だったかな。その時の先発投手に『孝介にはケツ、肘でもいいから絶対一発デットボール当てろよ』と言った。やっぱりどこかで(入団を拒否されて)『クソ!』という気持ちがあったのかな。ところがその日が近づいてくるにつれて孝介の調子がどんどん悪くなっていった。大人げないなと思って投手に『あの話しは無し』とね。結局、試合の日も孝介の打撃は全然だった。試合が終わってマスコミに孝介の印象を聞かれたから『バッティングのバの時も分かってないな』と答えたのを鮮明に覚えているよ」

 ―わだかまりが解けたのは2000年の評論家時代だった。

 「中日の春季キャンプ地・北谷で再会して『あの時はすいませんでした。どうしてもセ・リーグに行きたかったんです』と謝ってくれてね。俺もユニホーム脱いでわだかまりもなかったけど、スーっと気が晴れてね。これからは孝介を応援したらなアカンなと思った」

 ―2002年に中日1軍打撃コーチとして師弟関係が始まった。

 「2001年、秋季キャンプで打撃フォームを見てあぜんとした。バットを担いでちんけな構えして打っていた。なんで?って。孝介は『(前任者のコーチから)バットの出が悪いから。担いだ方がスムーズに出る』と答えた。子供の時に左手骨折して手のひらが、すんなり上に向きづらいのが原因でバットが出づらい。だからこのフォームにしていると。それを聞いた時に逆にこれは最高の長所じゃないかと思った。真っすぐバットを立ててキープすればヘッドが垂れないでバットが真っすぐ出る。PLの時のバッティングを思い出してもう1回やり直そうと2人で話し合った」

 ―一流打者になるため二人三脚で打撃改造が始まった。

 「当時の孝介には『今から2年間、俺の言うこと聞けば4000万の給料を2億円にしてやる。一言一句、聞き逃さないようについてこい』と言った。1日3000スイング。弱音を吐いたこともあったけど最後の最後まで一度も抜いたスイングを見せなかった。両親からもらった強い体あったから。山田監督(中日)からは大丈夫? つぶれない? と言われたけど。俺は大丈夫です。あんな強い選手を見たことがないと答えた。今まで色々な選手を見てきたが孝介は痛い、かゆいは一切言わなかった」

 ―現在も続く師弟関係。気になったことがあれば今でもアドバイスを送っている。

 「アメリカから帰ってきた時もサビを落とさないと活躍できないぞとね。日本球界に復帰する際にも阪神はマスコミの数も多い、打てなかったら叩かれる。そんな苦労をしなくていい、DeNAに行けよと伝えたんだ。けど、電話をもらった時に『大阪行きます。自分で厳しい所に身を置いて最後、頑張ります』と。ウソだろ!? と何度も言ったけど本人が決めたことだから。孝介らしいなと思ったよ。けど日米で2000本かぁ、凄いことだよ。社会人の3年、アメリカで5年がなければ3000本は打っていただろう。ベテランと言われる年齢になってるからケガだけはしないようにこれからも頑張って欲しいね」

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