わたしが2,3年前から「推し」ている、ルポライターの鈴木大介氏の東洋経済の連載が、先日ネットで大きな反響を呼んでいた。貧困報道の「解釈」をめぐる記事だ。
わたしもアカデメイアの端くれにいる人間(自称)なので、「出典」を大事にしたいけれども、リンクを貼ったところで読まない人は読まないので、重要だと思うポイントを書き出す。
タイトルのとおり貧困報道を「トンデモ解釈」で受け取る人がいる――という記事で、それは例えば「こんな若者が日本にいるはずない!」「これは俺が知っている貧困じゃない!」というものだったり、お腹を空かせた少年が万引きしていると聞いて「防犯に役立てます!」と言ってしまうような「解釈」のことだ。
一方で、「トンデモ解釈」をする人の気持ちもわからなくはないのだ。
父親とこんな会話を交わしたことがある。
私は身近に「奨学金(奨学ローン)」問題のわかりやすい「被害者」がいるので、いつもこの問題を他人事として見れないし、ついついニュースを追いかけてしまうのだけれども、そんな中で最近は奨学金を借りている男子学生との交際を親に「禁止」されている女子大生がいる、という記事を目にした。
特集ワイド:お金ないから大学行けない 国立でも授業料年54万円、40年前比15倍 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160204/dde/012/100/005000c
交際から結婚に発展した場合に、高確率でワーキングプアに陥るからだ。
もちろん恋愛は本人たちの自由意思で行うのだから、親が交際を禁止するのは子どもに対する過干渉だ――という反論は成り立つし、実際そうだろう。でも、まだまだ「家族」規範が強い日本で、娘の交際相手に口を出し、奨学金を借りている男子学生との交際を「禁止」する親がいたとしても、なにも不思議ではない。
しかし、この話を父親にしたところ、苦虫をかみつぶしたような顔をされ、「日本ももう未来がないね」とひとことだけ言って話題を変えられてしまった。
そのときの父親に対してわたしが感じた奇妙な違和感――父親をdisるつもりはないけれど、この問題を「自分が生きている社会の問題」として受け止めていない――という感覚を、わたしは折にふれ様々な場所で感じる。そのときにわたしが相手に感じるのは、「無関心」というよりも、「現実が重すぎるから受け止めたくない」という感覚に近い。
そう、「底辺なんて知らねー、俺だけが幸せならそれでいいんだ!!!!」という人を除いて(そういう人も知り合いに何人かいるけども)、多くの「善良」な人にとっては、貧困報道は、「かわいそうだとは思うけども、解決策も思いつけない自分」に居心地の悪さを感じさせ、結果それから逃避したくなる性質のものなのではないか。
「わたしは逃避しない度量の持ち主だ」と言いたいわけではない。わたしだって逃げたいのだ。わたし自身、大学を中退したり入りなおしたり、メンヘラクソビッチをやったり引きこもりやってた時期があったり、普通の人よりは少し多くの世界を見たかもしれないけど、自分は恵まれていると強く自覚しているのだ。日本の格差社会の上から下まですべてをスケールに含めたら、わたしが見た世界なんて「誤差」の範囲におさまってしまうものかもしれない(それでも、階級間で価値観が「断絶している」と感じたけども)。
この問題を考え続けて、ある日わたしは大学で、自分が受けていた講義の先生に向かってこんな質問をしたことがある。
「社会科学系の研究しているとお腹痛くなりませんか?」(原文ママ)
貧困問題に特にこの特色が強いけども、他の問題でもいい。例えば、東アジアで女性に子育てと介護の負担が集中しているという問題を発見して、じゃあ外国人家事労働者を受け入れよう!(そういうことを政策的にやっているところもある)と思ったとしても、外国人家事労働者は目下深刻な人権問題を抱えていることがすぐにわかり、「日本だけが豊かになればいい。他の国の人の人権なんて知らねー」と割り切れるメンタリティの持ち主でない限り(そういう人もいるけども)、外国人家事労働者の受け入れ議論にだって与することはできなくなる。
社会科学系の研究/勉強を続ける限り、この「無力感」から解放されることはないのだ。
そして、ハッキリ言って、この「無力感」は、たいへんに「しんどい」。
ひとつの事実を知って胃が痛み、その解決策を調べて、その解決策が抱えている問題を知って胃が痛み、何もできない自分の無力さに胃が痛み……胃がいくつあっても足りないほど「胃が痛い」作業なのである。
上記の質問を先生に投げかけたのは大学3年の秋で、院試を受けようか就活をしようか悩んでいた時期で、わたしが自分が「研究者になれない」と思うのは、この胃痛の無限連鎖に耐えられない気がしたからだ。もっと身も蓋もない言い方をすれば、研究成果を出す前に、自分がノイローゼになってしまうと思ったのだ。
そんなわたしの思いを、代弁してくれてるブログ記事があった。
「想像したいものしか想像したくない」「でも私のことはわかってほしい」という想像力のダブルスタンダード――これこそ私の中をずっと悩ませていたものの正体であり、わたしが引き裂かれそうになっている矛盾でもある。
わたしが今日このエントリを書いているのは、社会科学系の研究者になりたい人をディスカレッジするためではない。わたしは「社会科学系の研究しているとお腹痛くなりませんか?」問題の、間接的ではあるけども、「答え」を見つけたのだ。
それが、この本に出てくる「ジャッジメントとアセスメントを区別する」という考え方だ。
この本自体は精神医療に携わる人向けに書かれた本で、特にPTSD治療について書いてあるのだけれども、そこで用いられている「ジャッジメント」「アセスメント」という概念が、学術研究にも応用できるように思う。
「ジャッジメント」は、受け手(精神医療の現場なら医者、社会科学の現場なら研究者)の主観的判断のことだ。一方、「アセスメント」とは、事象そのもの(精神医療の現場なら病状、社会科学の現場なら社会現象)の評価だ。受け手の個人的体験やその日の気分に大きく影響を受けるのが「ジャッジメント」で、「アセスメント」は他の人物が同じ手順を踏んで同じ解析をしたら同じ結果にたどり着くという性質のもの、と考えるとわかりやすい。
この本では、「PTSD患者の支援に携わる人は燃え尽きやすい」ということも書かれている。人間はやはり、圧倒的事実の前には立ちすくんでしまう生き物であり、それは(誤解を恐れずに言うならば)「悪いことではない」のだ。
つまり、社会科学に話を戻すと、研究を通して行わなければならないことは正しい「アセスメント」であり、「ジャッジメント」ではないということだ。そして、これは考えてみたら当たり前のことなのだ。人文社会科学ではときとしてそれがわかりづらいこともあるけれど、「再現性の保証」というのは自然科学の最もベーシックな考え方のひとつだ。
でも、研究はそういうスタンスでやるとしても、研究を続けるモチベーションはやはり別に必要で、それが(時として本人の胃が痛くなるような)「正義感」であることも確かだろう。
社会科学の研究者になる覚悟をするならば、この「胃が痛い」と「でもやらなきゃ!」の間を、危ういバランスを取りながら行ったり来たりするしかない――少なくとも、現段階でわたしが持っている答えは、これだ。
もっとも、大学の先生の中には、研究対象に対してすごく割り切った態度で臨んでいる人もいて(しかも、そういう人はえてしてものすごく優秀な研究者だったりする)、学生から見ると「ちょっと人としてどうなの……。」というような人もいなくはないけども。
圧倒的事実を前に人間は足がすくむ生き物であり、「想像力の欠如」と呼ばれるものは、言い換えれば「ノイローゼからの自衛行為」でもあり、それは責められるべきものではないし、そういう人間を責めるべきでもない。見たくない現実と向き合い続けるということは、本当に「しんどい」のだ。それでも向き合いたいと思うならば、「ジャッジメント」と「アセスメント」を区別し、さらに自分がノイローゼにならないようにちゃんと「逃げ道」も作った上で向き合うしかない。
「想像力の欠如」(「欠けている」)と言うと悪いことのように思えてしまうけれども、それは人間の防衛本能からきているものであるように思う。大切なのは、それを「欠如」と批判することではなくて、人間の限界と向き合いつつも、それでも自分がしなければならないこと、したいこと――貧困報道の文脈で言うなら、貧困の「可視化」とか、社会保障の充実とか、社会への問題提起とか――をいかにして達成するかだ。
この記事をシェアするのは、もう何回目かわからないけれども、私が鈴木大介氏を知って、彼をリスペクトするきっかけになった記事なので、何度でも貼ります。是非読んでください。