沖縄はきのう、沖縄戦の犠牲者らを悼む慰霊の日を迎えた。

 太平洋戦争末期の沖縄戦から71年。これほど長い時が過ぎてなお、沖縄では戦禍の傷口を見せつけられる。

 例えば、県土の10%を覆う米軍基地。県内各地で頻繁に見つかる不発弾の処理。そして、道路工事現場などから見つかる戦没者の遺骨だ。

 収骨された遺骨は昨年度が103柱、一昨年度は194柱、その前年度が263柱と、その数は毎年100柱を超す。

 沖縄戦では、20万人余が死亡した。県によると、そのうち日本人の遺骨は今年3月までに18万5224柱が収骨され、糸満市摩文仁(まぶに)の国立沖縄戦没者墓苑で眠っている。それでもまだ3千柱近くが見つかっていないという。

 当時の軍人・軍属の死者は、県外出身者が6万6千人、沖縄県出身者は2万8千人。一般県民の死者は9万4千人と推定される。実に県民の4分の1が犠牲になった。

 おびただしい遺骨があることはわかっているのに、収骨作業は民間ボランティア頼みで、なかなか進まなかった。

 ようやく今年4月、国に収骨を義務づける戦没者遺骨収集推進法が施行され、9年後までに集中的に収集することになった。これまでの遅れを取り戻してもらいたい。

 慰霊の日、摩文仁で開かれた県主催の全戦没者追悼式とは別に、名護市辺野古にある米軍キャンプ・シュワブのゲート前でも、慰霊祭が開かれた。

 沖縄戦直後、米軍がここに民間人の収容所を設置し、2万人とも4万人とも言われる住民が数カ月間、暮らした。その間、マラリアや栄養失調で亡くなる人が相次いだという。

 キャンプ・シュワブの建設は1956年ごろから始まったが、「遺骨はまだ残っているはずだ」と、米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対する市民団体が昨年から慰霊祭を始めた。

 遺骨収集推進法の施行を受けて、政府は米軍基地内の遺骨収集にも取り組むという。米軍もぜひ協力し、一刻も早く収骨を実現してほしい。

 普天間飛行場の県内移設に向けた政府の強硬姿勢、米軍属による女性殺害・強姦(ごうかん)容疑事件の発生など、沖縄県民はいまも過重な基地負担にあえいでいる。その苦悩は、沖縄戦の記憶と切り離すことはできない。

 政府や本土の国民は「慰霊の日」の意味を共有し、沖縄が経験した苦難の歴史に、改めて思いを巡らす契機としたい。