星空文庫
よるのないくに 2 (2)
コーエーテクモゲームス・ガスト 製 作
Piro-Piro chronicles 編
悪夢のひろがり―空色のきらめき
★
よく照った陽光が、雲の上の青空から降り注いでいる。暑い日だった。
時刻は昼下がりころか。すっかり空のてっぺんまで昇りきってしまったでっかいお天道さまが、これまた白くてでっかい積乱雲のなかで、悠々とその顔を利かせている。
地に生きる人様にとってはだいぶ余計すぎるほどに、すべてを焼きつけてやまないその赤光は、遠くにもやもやとした陽炎を何事もなく浮かび上がらせていた。
今日は何をせずとも汗の滴りを感じる。まるで浴場のサウナみたいに暑い日だった。
ときたま、心地の良いそよかぜが、山の斜面から勢いよく駆けていってくれるおかげで、何もないよりはずいぶんとマシだったけれど、人一倍汗っかきなあたしにとっては、じっとりとした汗っけと熱気がすぐ服の内に籠ってきてしまって、とてもじゃないけど気持ちのいい日だとは思えなかった。
「はぁ。だるぅ…」
こんな調子が続くなら、干してる真っ最中のこの洗濯物もすぐに乾きそう。ちょっと適当に掛けて重なったりしても問題なさそうだ。暑いし面倒だし、畳むのあたしじゃないし。いいよね!
早くシャワーを浴びたい。そんな一心で、よく洗われた真っ白いバスタオルをぶん投げるようにして掛けていると、
「こらぁ、シヴァリエ!またそんなふうにお洗濯物掛けて!」
ちょうど女物のピンク色の下着を手に取ったとき、後ろの屋敷の方から、怒声。ともとれない可愛らしい叱責が響き渡った。
おそるおそる振り向くと、大きく開かれた採光用の小窓のところで、声と、そして手にしたピンク下着の主―シェリーヌが腰に両手を当てて、眉を釣りあげた小さなその顔を、庭に植えられたポモドロの実みたいに赤くさせていた。
「ちゃんと掛けてねー、って頼んだでしょー!」
どちらかといえば内気めな彼女は、元から怒りなれていない。
その表情には凄みなどあるはずもなく、あたしは萎縮するどころか、むしろ子猫が精一杯に大きな相手を威嚇しているような、その愛くるしい表情に完全に癒されてしまった。これは、反則だ。
そのうえ、視線という視線はそのすぐ下にある、顔よりも目立つひときわ大きなふくらみに落ちてしまう。
いつ見てもはちきれんばかりに大きい。今日の日照りくらい余計なのだ、彼女のたくわえっぷりは。
この顔に、この胸に、それでいてちょっと背は低めで愛嬌もあり。くわえてスレンダーな体型。そしてキレイな亜麻色の髪ときた。いくら唯一の親友とは言え、この完璧すぎる容姿には嫉妬するものを感じずにはいられなかった。
「ちょと。聞こえていますかシヴァちゃん?どーこ見てるの?」
この世で最も高度の高いといわれるエルベスト山に、比率では勝るとも劣らぬ、横向きに堂々とそびえる双山をじーっと眺めていたあたしを、シェリーが不思議そうな顔で訝しがる。
「あぁ、いっ、いいじゃんか、別に。こんなの乾けばいいんだよ、乾けば…」
ちょっと焦った。けど、さぞだるそうにあたしは身体をうつむかせて、外がいかに暑いかを必死にアピールしてごまかした。まあ実際それくらいには暑かったんだけどね。
そんな様子のあたしを見て、当のシェリーはちょっとだけあきれて、それから、何かを思い出したように小さく微笑んだ。
「ほらほら、頑張って。ちゃんとこなせば新っ鮮で、つめったいココメロンがシヴァを待ってるよ!」
シェリーはくの字に曲がってウィンクする。
そして、まんまる緑のココメロンも顔負けの、たわわに実った二つの胸元をたゆんたゆん揺らしながら、彼女はそのまま家の中に戻っていってしまった。
…やっぱ、でかすぎるよね。あたしのだって結構おっきいほうだと思ってたのに。どう育ったらあんな…。
とりあえず、退屈な洗濯物干しと例のブツの考察にはひと段落つけて、冷たいシャワーをめいっぱい浴びたあたしは、浴室を出たあと一階にあるリビングに入った。
そこではすでにシェリーが、部屋の真ん中にある丸テーブルのそばにちょこんと座って、一人真剣にテレビを見ていた。テーブルの上には丁寧に切り分けられたココメロンの皿が置かれてある。
「おっと、ココメロン!お先にいただきっ!」
あたしもすぐ彼女のとなりに座って、まずはテーブルの上。
緑の皮付き三角形をした、見るからにみずみずしそうな赤い果実を真っ先に手に取り、思いっきりほおばった。このココメロンは少し水っぽいくだものだが、豊かな甘みとシャリシャリの食感、そしてヒンヤリとした冷たさが口いっぱいに広がり、仕事で動いたあとのこれはまさに最高だった。種が多いのと、食べ過ぎるとお腹を下すのが玉に傷。
「シェリーも早く食べなよ、ぬるくなっちゃうよ」
さっそく二つめをむしゃぶりながら見ると、あざとい動きで誘っていたわりにはシェリーはほとんどココメロンを口にしていないようだ。
「うん…」
なぜか食い入るようにテレビの画面ばかり見ている。
なんか気になることでもやってるのかな。『トトルねえちゃん』のダンディーな役者さんの話?けっこー好みなんだよねあの人。あたしも自然と一緒になって、少しジラジラした古いブラウン管の画面に見入る。
『―昨夜の深夜帯に死亡したとされる女性。特に目立った外傷はなく、大きな持病もないことから、教皇庁は例年に続き、調査を進めています―』
『―巷では例年と同じく様々な憶測が飛び交っていますが、いずれにせよ突然予兆もなく亡くなるとは恐ろしいものですね―』
『―本当に恐ろしいですね。おとぎ話「よるのないくに」の始まりだ、などという血迷った意見も見られますが、これはれっきとした殺人事件だと私は思います―』
『―なお、女性は元教皇騎士でしたが、退役後追放された不名誉騎士の一人だということが分かっており―』
全然違った。
この事件…。”本業の”私にとっては、既に本部からうんざりするほど何度も聞かされた話だ。
私たち二人は、生来孤児だったという。
なぜか山奥の、つまりこの山村近くに一本の剣とともに捨て置かれていたらしいが、詳しいことは知らない。なにせ生まれたばかりの赤子だったから。
見つけてくれたのは、今住んでいる屋敷の主人―数年前に突如行方をくらました彼女は、私たちにとっての命の恩人であり、こうして一人立ちできるようになるまで育ててくれたのも、無論彼女だった。まるで実の母親のような存在だったが、今どこでどうしているかは一切分かっていない。
彼女は私たちをわが子のように愛し、世の中の様々なことを正しく教え説いてくれた。
私はよく外で男友達とはしゃいで遊び、シェリーヌは家の中で静かに遊び、その時も彼女が付き添うことも多かったために、私たち二人を育てる間少しも休む暇はなかっただろう。ろくな孝行もできず、今では申し訳ない。
そのうち、私は世界の大きさを知り、そしてこの国のために、騎士として戦うことを望むようになる。
彼女は始め、私が騎士になることを反対していたが、それが心からの願いであったことを悟ると、共に置かれていたという、黒い鞘の長剣を差し出して、私に言った。
―教皇都へ行きなさい、シヴァリエ
後からになって聞いた話だが、彼女もかつては教皇へと仕える騎士の一人だったという。―生々しい話だが、教皇に仕える騎士はその職務の一線から退いたのちも、業績に応じて死ぬまで手当金が支払われるという制度がある。よく退役後一人で二人の子供を養えたものだと、そういうことからも彼女が凄腕の教皇騎士であったことが伺い知れた―行方をくらましたのは、そのすぐ後のことである。
彼女の言葉に従って都に赴いた私は、このあたりでも屈指の実力を持つ教皇直属の都騎士「暁の鳳凰騎士団」に、教皇軍の下っ端から始まり、なんとか入団する。
始めは何もかもが辛かった。忠誠を尽くせ。敵には惨殺の限りを。死神は、常に後ろにいる。死と残酷との隣り合わせの稼業。
くたばりそうになったとき、あるいは気が狂ってしまいかねないことも幾度となくあったが、それでもここまでやってこれた。
それはたまの帰郷と、そしてなによりシェリーヌ。彼女がいてくれたからこそだろう。彼女の笑顔には何度も助けられた。
帰ってきたときにはいつも温かく迎えてくれ、そして国のためとは言え、仮にも”人を殺す”凄惨な職分であるのに、彼女は手放しに私をねぎらってくれた。
私にとって彼女は、友達。家族。いや、もはやそれ以上の存在だ。
何があっても、私がこの手で守りきる。普段ふざけあってはいるが、それぐらいの覚悟は確かに私の心の中にあった。
「よるのないくに」というおとぎ話も昔からよく聞かされた。この地に広く伝えられている伝承だという。
“かつてこの地において、世界を支配し、その暗闇に呑み込もうとしていた「夜の君」を、”
”暗夜を恐れず立ち向かった一人の「少女」が打ち倒したという。”
”だが、止めの一撃で胸を貫いた刹那、呪われた夜の「蒼い血」がその身体からとめどなく溢れ流れた。”
”血は雨となり、大地を蝕み、生きとし生けるものを真夜中のうちに恐ろしい「獣」に変えた。”
”それから夜になるたび、異形の獣が跋扈するようになった眠れぬ世界は、「よるのないくに」になった。”
”しかし最後には、人々は呪いに抗する「聖女」の生贄を捧げ、災いの夜をついに明かしたという。”
伝承はここで一応完結されている。この事件とは何ら関係ないはずだろう。
そもそも、嘘か真かも分からないおとぎ話を根拠にするなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。あのナレーターと同じだ。蒼い血だの獣だの、幻のようなものが人を殺せるはずがない。
―ただ、幼少の時、何か引っかかることがあったような気もするが、もう十数年もの前の話だ。なんのことだったか、あたしはすっかり忘れてしまった。
つまらない報道が終わり、ふっとため息をついて普段の調子に戻ったらしいシェリーに、あたしはちょっと笑いながら話しかける。
「シェリー。もしかして夜が怖いのか?」
なぜかハッとしてあたしのほうを向いた彼女は、少し照れながら答えた。
「いや、そうじゃないんだけど…その、ね」
そう言って憂鬱そうな顔をした。
あっ―そっか…。シェリーは、決して怖いわけではないのだ。この表情が、彼女の心の内をよく表していた。自分の失言に後悔したが。
私は、うつむくシェリーにそっと近寄って。
そして抱きしめた。ぎゅっ、と抱きしめた。彼女は突然の抱擁にきょとんとしていたが、私は構わず続ける。
「…大丈夫。私は必ず、生きて帰ってくる」
彼女は寂しいのだ。今でこそ私は帰郷の機会を与えられているものの、それにも刻限というものがある。じきにこの事件に際して教皇庁に招集されるときが来るだろう。
そうなればシェリーはひとりぼっちだ。こんなものを見せつけられては、心細いものを感じないはずがない。
彼女にも気持ちが伝わったのか、私の身体を静かに、少し震えた手で、抱きしめ返してくれた。
「うん…約束だよ?」
確実に生きて帰ってこれるかは分からぬ死地へと赴く友のため。必ずこの手で守り抜くと心に決めた友のため。少女たちはまた生きて再会することを固く誓い、そして二人だけの約束を交した。
「ココメロン、食べよっか!」
「…うん!」
彼女たちの笑顔はじつに美しく、また微笑ましく、だがどこか夢の中にいるような、朧げな儚さをも孕んでいた。
★
そして、あっという間に時は過ぎ。
白昼に猛威を振るっていた太陽はすっかり茜の空へと沈みこみ、しだいに空には薄暗い宵闇が流れ込んできた。
「はぁ、もう夜か。一日過ぎるのって、ほんと早いよなぁ」
「そうだね…もうちょっと長くても、いいかな」
あたしたちは二階の寝室のベッドの上で一緒に横になっていた。少し開かれた窓からは、うって変わって肌寒い空気が外から押し寄せてきている。
「さむっ…窓閉めるか」
あたしはいったんベッドから身を起こして、縦長の大きな窓を閉める。気になったので、ついでにそっと外も覗いてみた。
下のほうに、作物が植えられた畑が見える。綺麗に耕されたよい畑だ。そういえば初めて見たが、そうか、あれがシェリーから聞いた、近所の人と一緒に作った畑、なのかもしれない。植えられているのは特に油炒めが美味しい、メランザーナとシューらしい。どちらもあたしの好物だ。
ふと空を見ると、きらきらとした星の夜空なかで、煌々と蒼く輝く満月が目に入ってくる。美しくも、妖しくも見えるその蒼色に、なぜか私の双眸は釘づけになった。
「なにー、じっと空なんか眺めて。天体観測でもしてるの?」
シェリーの笑い声に混じって、何か別な―
『―ガ…イ…キ…タ…リ…ン…トレ…ア…ス―』
ぞっとした。背中に悪寒が走り、首元からは小さく冷や汗が流れ落ちる。同時に両の瞼を開けていられないほどの苦しいめまいが襲ってきた。あたしは思わず窓の桟に手をついて頭を押さえた。
「シヴァ?!どうしたの!」
シェリーの心配する声が遠くのほうから聞こえてくる。しばらくそのままでいると、寒気とめまいは和らいだ。
「…大丈夫、ただのめまいだ。疲れてるのかもしれない」
振り向くと、ベッドから半ば身体を起こしていたシェリーがひと安心したかのように、ほっと息をついていた。
「もう、無理しないでね。騎士、さんっ。ふぁあ…さて、早く寝ましょう。遅くなっちゃうわ」
「ああ…」
あたしはシェリーのそばに横になる。正直もやもやとした感じは完全に抜けてなかったが、問題はないだろう。明日にでもなれば治ってる。体力には自信があった。
「ふふ…天気予報だと明日も晴れるそう。いい洗濯日和になりそうね、シヴァリエ?」
「…なんてこった」
「今度てきとーにやったら…分かってるよね?シヴァちゃん?」
「飯抜き?ココメロン抜き?冷蔵庫のプリン譲れ?それともガツガツ君洋ナシ味か?飲まず食わずは悪いけどもう何回も経験済みだよ」
「あはははっ、どうしてみんな食べ物なの?」
「だって罰と言ったら、食いもん抜きでしょ」
「ん~、それだとつまんないからぁ。そうだ、わたしと…イイコト…してあそぼ?」
「えっ…」
「って、うそでーす。あれれ、顔赤くなっているけど、シヴァちゃん大丈夫かしら?」
「し、シェリーのバカ!」
「あははははっ」
他愛もないことで二人ふざけあっているうちに、あたしたちは自然と深い眠りに落ちていった。
―ザァー…
「…う、っん…」
目が覚めた。
身体を起こすと同時に大きくあくびをする。とたんに覚醒した二つの目と耳であたりの様子を確かめた。
シェリーはもう起きているようだ。いつものことだが彼女は朝が早い。左側の布団が丁寧に整えられている。それに比べて右と言ったら…いや、何も言わないでおこう。
「なんだ、雨降ってんじゃん。ほんと天気予報ってのは当てにならないな」
昨夜のシェリーとの会話を思い出す。音からして確実に雨が降っている。周りもまるで夜のように薄暗い。まあ、それはつまり洗濯物が室内干しになるってことで、とってもいいことなんだけど。
まだ少し残っている眠気覚ましに、昨日と同じように何気なく、窓から外を除いてみる。
そして、その光景は、ほんの少しの眠気を吹き飛ばすのには、十分すぎた。
そこには予想だにしない、驚くべきものが浮かび上がっていた。
「赤い、満月だって?」
一瞬目を疑った。いつにも増して暗い雨夜の中には、見たこともない赤黒い満月が何事もなく浮かんでいる。
でもあたしは昨夜、シェリーとともに同じベッドで眠りに落ちたはず。そして、うまく言い表せないが、朝まで眠った、という感覚は確かにこの身体に残っていた。
「そうか夢か!」
と思って、ちねっても痛くない。いや、普通に痛かった。余計に強くちねったせいで、頬が赤くなってしまったかもしれない。
「なんなんだ、一体…」
もしかして異常気象?天変地異か?でも、赤の満月が浮かぶ夜がずっと続くなんて、怪奇現象でも聞いたことがない。地球の自転軸が一気に変動して、このルースワール島が極夜になったとも考えづらい。どういうことか、さっぱりわけがわからなくなってきた。
「そうだ、シェリーヌは…」
そうなれば、シェリーの行方のほうが心配だ。あたしは部屋を出て一階に降りて行った。
館のロビーまで向かうと、入口の扉が開きっぱなしになっていた。
その先を見据えると、
「あっ!シー、ヴァ!」
なんとシェリーが雨の中、屋敷の前をはしゃぎまわっていた。
「なにやってんだ、風邪引くよ!」
「そんなのいいから、こっち来てみなよ!すごいよ!」
何がすごいのか。ただの雨降りの夜じゃないか。でも彼女が言うのなら何かあるのだろうと思って、扉を通って外に出てみると―
「ほら、”蒼い雨”!こんなの初めてみた!」
これは―。
水色に近い、ぬめるような蒼―。
色が宿す質感に反して、ごくさらさらとしたその雨は、不気味な月光の煌きを貪欲なまでに吸収して、美しい空の色に輝いている―。
次の瞬間、昨夜、蒼の満月を見たときと同じように―これがたとえ夢だったとしても―
ぞくぞくとした寒気と、そしてどうしてか言いようのない戦慄が、雷光のように身体中を駆け巡った。
「シェリーヌ!今すぐ家の中に戻るんだ!!」
私はすぐにシェリーのもとへと駆け寄る。
突然殺気立って連れ戻そうとする私が不思議なのだろう、シェリーは腕を掴まれている間も首を傾げたままだった。
「ちょっと、シヴァ!せっかく珍しい見物だったのに!」
雨の中に戻ろうとするシェリーを、必死で食い止める。とにかく屋敷のロビーの中まで連れ込んだ。すぐさま扉を閉める。ここで一息ついた。顔をあげて見ると、彼女は、”蒼い雨”が滴る寝間着をほろっていた。
「ごめん…いきなり腕引っ張ったりなんかして」
でもあれは見るからに危険なんだ。長く当たるべきじゃない。これは君を思ってのことだ。私は諭すように神妙な面持ちで彼女にそう伝えた。
「…そうだね。私もつい珍しいからってはしゃぎすぎちゃった。ごめんなさい」
シェリーも律儀に頭を下げてくる。さすがに私がここまでする時点で、あれがよくないものだと直感で察したのだろう。分かってもらえればそれでよかった。
「シャワー、すぐに浴びてくるんだ。…雨、落ちちゃうから服はここで脱いでって。あとは私がするから」
まず身体を温めることを促す。出征の前に風邪でも引かれた大変だ。
「…えっ?あっ…う、うん。ごめんね」
少し顔を赤くして、重ね謝ってくるシェリーが着ていた寝間着を脱ごうとする。
ちょうどその時。
『ガアアアァァアアアアア!!』
発せられた強烈な爆音。それは何か、獣の声に聞こえた。
反射的に後ろを振り向いた。「なに?!」背後でシェリーの怯える声が聞こえる。
何かが外にいる。それも、尋常ではないほどの力を持つだろう何か―。
「…シェリーヌ、そのままでいいから、早く二階の寝室に戻れ」
おぞましい気配が。とてつもない危険が。私は扉の先にそれらを全て感じ取った。
「はやく行けっ!!」
その場を微動だにしないシェリーにもう一度語勢を強くして叫びかける。怖かったのだろう、当然だ。
今度こそ何も言わず二階へと走り去っていった彼女の瞳からは、きらりと光る感情の粒が零れ落ちていた。
見えなくなるまで横目で彼女を見届ける。
「よく頑張った…あとは任せろ」
そうひとり呟き、私は急いで屋敷の小さな地下室へと向かった。そこには私のシェリーと、命の次に大切なもの。つまりは件の愛剣と、“暁の装束”がしまいこまれていた。
★
私は勢いよく扉を開け、屋敷の外に駆け出した。
まず周囲を確認する。屋敷の前の庭園は真夜中のように暗く、だが妙に明るい薄気味の悪い月光により、視界はそこまで遮られなかった。
鮮やかな色をした装束が闇夜によく映える。我らが教皇の正統騎士団、暁の鳳凰の正装だ。機敏さを確保するため、布地と肌の露出が多いこの真っ赤な紅の鎧は、見ているだけで気持ちが昂り、何もかもを打ち倒せそうな気さえしてくる。
そして右手に目を向ける。小さな飛膜が彫刻された黒鞘。滾るような紫炎色の剣柄。握りしめ引き抜くと、そこからはギザギザの、肉体を容易に引き裂き癒えぬ切り傷を鮮血で染めあげる、重厚な両刃が姿を現す。血吸い蝙蝠のフランベルジェ。それがこの鋭刃剣につけられた銘だった。
「さあ…いつでもこいっ!化け物!」
私はフランベルジェを脇差しに構え、周囲へと最大の警戒を払いながら、ゆっくりと歩みを進めていく。
そして庭園の、ちょうど真ん中あたりに差し掛かったとき、激しい雨音に交じり、上空のほうから微かに違った音を捉えた。
「っ!上か!」
咄嗟の挙動でフランベルジェを頭上に掲げ、空を見上げる。
いつの間にか、蒼い雨は色を失い、赤黒い月光の輝きを写し取っていた。まるで血のような雨の中、ちょうど赤い遠月のあたりに、何者かの黒い影が見えた。それがこちらに向かって勢いよく滑空してきているのだということを把握すると、私は一瞬の判断でその場から身を投げ出し、前転して退避した。
直後、つい先ほどまで立っていたその場所に、巨大な黒影が衝突した。
思わず耳を塞いでしまいたくなるほどのすさまじい破砕音とともに、地面が豪快に抉り砕け、あたりを覆い尽くすほどの濃い粉塵がそこらじゅうに舞い上がった。
「そこに、いるのか?」
私は茶色い土煙に向かって中段に構えた。
徐々に薄れていく塵埃の壁。その中から現れたものは―
「…こいつは?!」
この世のものとは思えぬほど漆黒で巨大な体躯。身体からに無尽に伸びている鋭利で異様な突起物、頭部にそそり出た一対の双角と、背中に生えた群青色の翼。そしてなにより、それは迷信と考えられていた伝説上の生き物、すなわち空の王者ドレイクに近い四肢を持った体つきをしていた。
『グルゥゥウウ…』
漆黒のドレイクは、じっとこちらを見つめている。まるで、相対する小さきものが、自分の獲物になりえるものかどうか、その不気味な小金色の双眼で私を見定めているかのようだった。
沈黙と、雨音と、心臓の鼓動と、そして龍の吐息ばかりが耳に残った。
そして、しばらくの睨み合いののち、先に動き始めたのは、黒龍だった。ゆっくりと歩を進め、間合いを縮めてくる。
来るか?私はフランベルジェを握る両の腕を改めて引き締める。直後、龍は小さく口を動かし喉を震わせ、そして”言葉を発した”。
『”混ざりモノ”の人間よ、すぐにここより立ち去るガいい』
脳裏へと直接響いてくるような低い重声に、思わず目を瞠った。まさか人語を話し、そして理解している存在だったとは。私はよりいっそう警戒を目の前のものに向けた。
『”わが主”は、キサマラと戦うことを望んでイない。立ち去れ』
何を言っているんだ…?わが主?混ざりモノ?言葉の真意は分からなかったが、少なくとも私を決して歓迎はしていない。そのうえ口ではこう言っているが、何かあればすぐにでも殺しにくるという殺気を―黙って側においておけるようなものではなかった。
「…喋るドラゴンの主だかなんだか知らないが、私はここでお前を倒す!!」
フランベルジェを構えて一気に走り出す。対するドレイクはその場から一歩も動こうとしなかった。
『愚かなものだ…』
剣を水平に構えて肉薄する私に、ドレイクはいたって冷静に対処した。まるで仁王立ちするかのように大地をしっかりと踏みしめていたその右前腕を、大きな風圧の音とともに振り下ろしてくる。
「そんなのっ、当たるか!」
あらかじめ腕による攻撃が来ることを予想していた私は、石畳へと叩きつけられるその太い剛腕を前転で勢いよく避け、そのままドレイクの左側面に入り込んだ。今だ。初撃を喰らわせる隙を、私はそこで見出した。
「こいつをくらえっ!」
回避の勢いを殺さぬまま、私はフランベルジェを素早く横に薙いだ。人ならばその肉体を容易に削ぎ落とす、邪悪なほど鋭いギザ刃が、龍の黒い身体を正確に捕らえた。柔らかそうな腹部へのいい当たりだ。日々の鍛錬と戦場の経験は偽物ではなかった。
だが直後、剣を握る腕に伝わってきた感触は、この世のものとは思えない、異様なものだった。人でもない、獣でもない、何か液体でも斬っているかのような虚しい手ごたえと、小さく噴き出した奇妙な蒼色の飛沫に、私は動揺を禁じえなかった。
「くっ…なんて奴だ」
返り血を避けながら私は後ろへと飛びのいた。濃い蒼色に染まった切っ先を向けていた黒龍は、この場を包みこむ険悪な雰囲気に反して、ごくゆっくりとこちらを振りあおぐ。その表情はいたって平然としていた。
「ただのヒトーもとい半妖にシては、よくやるモのだな。だが諦メろ。そんなものでは我を倒スことはできん」
その言葉に一切の感情はなかったが、どこか嘲るような物言いに、私はそいつに向けてさらに敵意を剥き出しにした。
「さて…それはどうかな!」
フランベルジェを再び構えて突撃を敢行した。黒龍は悠然とその場で佇んでいる。
「その舐め腐った態度…ぶち壊してやるよ!」
そしてまた、大の大人数人分の太さはある、その強靭な前腕を持ち上げた。
「うおおおお!」
雄叫びを上げながら、私はその場から飛び上がる。手にした鋭剣と二つの琥珀色の瞳は、巨大な身体に似合わず小さめなその黒い龍頭を、しっかりと捉えていた。
腹部がダメなら頭だ。どんな生き物でもたいがいはそこが弱点である。そう読んでの攻撃だった。
「今度こそっ!」
素早く振り下ろされた裂傷の刃が、龍の黄眼に衝突する―私は会心の一撃を確信した。
はずだった。
直後、視界一面を眩い光が覆った。そして鼓膜が破れんばかりの轟音とともに、身体が簡単に吹き飛ばされ、宙を舞う。
何事か。瞬時に、自分を襲ったそれが落雷だと状況を把握した時には既に、全身が内から灼かれ、小さな黄雷がその身のうちを、小さな蛇のように走りまわっていた。悶えるような凄まじい熱量を身体の中から感じる。
「う…ああああああ!!」
全く言うことを聞かなくなった身体は、黒龍から少し離れた硬い石畳に、無様に叩きつけられた。その衝撃は堪えたが、どうやら意識も失わずに済んだらしい。ただ、その不意を突かれた強大な一撃により、体力の大半は削り取られ、もうほとんど残っていないも同然だった。
なんとか離さずにいることができたフランベルジェを杖代わりにして、私は気力だけで立ち上がった。
黒龍を視界に捉えようとするが、焦点が合わず、意識も朦朧としている。ただうっすらと、巨大な黒影がこちらに向かってきているのだけが、見えた。
―ちくしょう、こんなところで、終わるわけ、には―
この愛剣だけは、どんな時でも相手に向け続ける。これは戦場に生きる騎士にとっての意地であり、プライドであった。だが、今となっては、それはただの負け惜しみなのかもしれなかった。
―くそったれ!私が、守るんだ!―
ぼやけた巨影は、ゆっくりとだが確実に、こちらへ向かってきている。黄色の、綺麗な光の粒が見えた。あれは、星なのだろうか。最後くらい、彼女と一緒に星が見たかった。
―シェリーヌ―
「やめるんだ~!」
その時どこからか、女の子供のような、高くてよく通る声がした。
まるで場違いな、呑気で明るすぎる声色。その声が聞こえたほうを振り向くと、そこにはなにか緑色のものが見える。
力を振り絞ってそれをよく見てみると、これもおぞましい化け物―いや、違う。そこには誰もが考えそうな妖精、のような生き物がいた。どういうわけか、そいつは常に宙に浮かんでいて、そして普通に人の言葉を話している。
「ご主人サマ!大丈夫!?探したんだよ!それよりも、回復が先だね!」
何のことか分かっていない私を置いてけぼりに、妖精のようなものは何か呪文を唱え始めた。それを唱え終わったとたん、私は今まで味わったこともないような、非常に不思議な、しかし心地のよい感覚を身体に感じた。
「力が、戻ってくる…?これは、いったい…」
「元気になった!ご主人サマ!わーい!」
直感で瞬時に判断した。おそらくこの妖精の”癒しの力”なのだろう。あたかもおとぎ話にのみ伝わる魔法のような、目に見えぬ奇妙な業に、私の疑問が解けることはなかったが、今はそんなことどうでもいい。
今必要なのは、目の前の化け物を倒すこと。そしてこの妖精は味方らしいこと。これだけで十分だった。
「よくわからないけど…ありがとう。一緒にあいつを倒してくれるのか?」
「もちろん!また昔のようにご主人サマと邪妖狩りができるんだね!」
また―昔のように?邪妖?ご主人さま?やはり話の流れが全く読めない。
『…邪魔が入っタか』
不意に聞こえてきたその低い声に、私は素早く反応した。
鮮明さ取り戻した双眸で改めてそちらを見ると、黒龍はほとんどこちらに近づいていなかったようだ。いや、近づけなかった、と言ったほうが正しいか。黒龍の足元には二つの影が立ちはだかり、その進行を食い止めていた。
「オレハガンバル!ジュウマハ、シュジンヲウラギラナイ!ゴシュジンシヌナヨ!」
一つは、小さな翼で飛び回る竜。というよりはトカゲといったほうがしっくりくる生き物。言葉は早口でちょっと聞き取りづらい。
「みーんーなー まーもーるー。なーかーまーをー みーんーなーをー まーたー」
そしてもう一つは、大きな木のような見た目の生き物。三匹のなか、最も呑気そうで、そしてそれに違わず話すのもとっても遅いようだ。おとぎ話の操り人形ゴレムにどこか似ている。
「これ…みんな君の仲間なの?」
剣を構えたまま、近くをふわふわと浮かんでいた妖精に横目で話しかける。
「そうだよ!忘れちゃったの?みんなご主人サマの従魔だったんだよ?」
従魔…。また聞き覚えのない単語が出てきた。まるで今まで私に付き従っていたようなことを言い出すのはどうしてなんだろうか。人違いだ―と思ったが、なにがどうあれ、この状況下で味方がついてくれたことは不幸中の幸いだった。
やってやる。私はもう一度、フランベルジェを構えて龍のもとへと走った。
「私が斬り込む!君たちは援護してくれ!」
上手く連携が取れるか心配だったが、走りながらそう叫んでおく。そのまま、黒龍のすぐ近くまで駆け寄った。
『…数が増えたところでどうトいうことはない。まとめて相手しテやろう!』
まるでその身に宿る本当の力を今から解放するかのように、黒龍はこれまでにないほど、その身体に禍々しいほどの闇の気配を立ち込ませ、動きはさらに鋭敏なものとなった。
瞬く間に群青の双翼をはためかせ、光の一切を反射しない漆黒の巨躯は、赤黒い夜空へ軽々と舞い上がった。
「チッ…トビアガリヤガッタナ。コノニワトリヤロウメ!サッサトオリテコイ!」
飛びトカゲが、小さなその身体に似合わず、挑発的な軽口をたたく。
「油断するな。何が来るか分からない」
剣を構え、私はじっと空を見上げる。先ほどはそのまま地面に滑空してきた。今度は何が来るか。最大限の警戒を血の色の空に向けた。
雨の降るなか、大空を我が物顔で飛躍する黒龍。その背中に無数に生えている棘が、鮮やかな黄金の色に輝いた。そして、彼の者は空気と、そして感情を震わす、猛々しい叫声をあたりに轟かせた。
すると、今まで不気味なほどの静寂に包まれていた空が、龍の背と同じ黄金の色に輝き出した。あれは―落雷だ!
「避けろ!雷が来るぞ!」
言うと同時に、私は動いていた。雷が元いた場所に落ちてくる。戦慄を覚えた。あの龍は雷を操れるのか。あんなのに当たるのは二度とごめんだ。
必死に避けながら龍を目視する。まだ空に留まっているようだ。しばらくは降りてこないのか。雷を操り紅の月夜を自由自在翔るその姿は、まさしく空の王者にふさわしく、私はそれに、畏怖の感情を感じずにはいられなかった。
と、それに注意を逸らされた。油断するなと自分で言っておいて、まったく、疎かだった。警戒は予想以上に散漫していた。
まだ先ほどの被雷の痺れが残っていたからかもしれない。頭はまだ少しチカチカしていた。間髪を入れず、すぐに頭上から落ちてくる眩い雷の鋭槍に、一瞬反応が遅れた。
「しまった…?!」
それに気づいたのは、もうだいぶ地面へと近づいてからだった。すぐに横に避ければ直撃こそないものの、この距離ではもう避けれまい。私は被弾するのを覚悟した。そんな決心もつかの間、一瞬にして、視野全体が黄一色に染まった。
―くそっ!油断した!
激しい爆音が周囲にこだまする。
だが、音と比べてみれば、あまりにも軽すぎる衝撃が、私にのしかかった。
反射的に閉じてしまっていた瞳をおそるおそる開くと、私の上に、何か大きな塊が被さっている。あの木の従魔が、大きな幹のような身体で私を庇っていた。
「お…いっ!大丈夫か!」
私は従魔の身体を支えつつ、立ち上がった。すこし焦げ臭い匂いがする。
だがそんな心配とは裏腹に、木の従魔も、少々黒っぽくなったこと以外、何事もなかったかのようにのっそりと立ち上がった。
「だーいーじょーぶー こーれーがーじーぶーんーのー しーごーとー」
そうとだけ言って、黙って黒龍のほうに向き直った。その後姿は、性格とは打って変わって、勇ましい戦士の風情を纏っていた。
「…みんな、頼りがいがあるな!」
私は思わず笑ってしまった。初め見たときは、ちっぽけで可愛らしい、小動物のようなものだと思ってたけれど、こいつらはみんな、戦うことにはずいぶんと慣れていた。まるでそれを、自分の生業としてきたかのように。
戦場を経た人間なら分かる。この初々しいような、熱っぽさを感じさせない戦いぶり。よほど前の”ご主人さま”と多くの戦場を渡り歩いてきたのだろうということが、容易に想像できた。
「なら…」
始めはうまく戦うことができるか不安だった。だが三匹は、予想をはるかに超える手練れらしかった。これなら安心して互いの背中を預けられるだろう。
「本気で行くぞ!ついてこいっ!!」
鼓舞するように叫び、私は走り出した。もちろん目標はあの黒いドレイク。落雷が終わり、その者は雨に濡れた冷たい大地へと舞い戻ってきていた。見たところ、かなり疲弊しているようだ。天候を操るなど、やはり化け物にとってもその負担は大きいらしい。そしてこれはいままでにない、最大の反撃チャンスだった。
「オウ!ドントコイ ッテンダ!」
「まーかーせーろー」
「頑張って!ご主人サマ!」
従魔たちも、私の意気に応じるように呼びかけ返してくれる。
戦況は、突如現れた謎の従魔たちのおかげで完全に持ち直し、そして覆した。あとは全力を尽くして、この黒い闇を葬り去るだけだ!
私が真ん中を突っ切る。左をウッドゴレムが、右をトカゲが並走する。そして最後尾は妖精だ。
『面倒な、小物ドモめ…』
まず小柄なトカゲが一番手で、右側面にたどり着いた。だが腕の反撃はもうこない。
トカゲは手にした片刃の鉈を振り上げ、そして黒龍を滅多切りにした。
「オラオラオラオラ!サッサトクタバレ!ニワトリガ!!」
何も考えず乱暴に振り回される大鉈は、黒龍の腹部を容易く切り刻む。蒼い血が無尽に噴き出し流れて、見ているこちらも少しぞっとするほどの滅茶苦茶ようだ。
『ガアアァァァ!!』
さすがの痛みに、黒龍が悲痛の叫びを上げてのたうち回る。見境なく暴れるが、既にトカゲは後ろへと退避したあとだった。
それに合間を持たせずに、左から接近したウッドゴレムが無作為に繰り出される激しい攻撃を顧みずに強行的に攻め入った。
右手を力ませ、思いっきり突き出す。重量級の大振りは、暴れまわる黒龍を黙らせるのに十分だった。
『グガァアア!!ガアア!!』
暴れまわっていた黒龍は、その衝撃に身体を一度震わせた。そしてうなだれたように頭を垂れて、微動だにしない。
そこに私が斬り込んだ。
「これで…終わらせるっ!!」
高く飛び上がり、脳天に大きく振りかぶった兜割りを食らわせた。
全身の力、そして全体重を乗せたその一撃で、肉厚のノコギリのような刃は、硬い鱗を貫き、その下の獣肉を引き裂き、しまいに喉元さえも打ち抜いた。
『ガッ…ガアアアアアア!!』
黒龍が長い首をもたげ、苦痛に身もだえするかのように首を振る。それは普通の生き物ではあり得ない、おぞましい死に際だった。戦いに勝ったというのに、身体中に気持ちの悪い寒気を感じるのは初めてだ。
『馬鹿ナ…こンな、半妖ゴトきに、敗北を喫す、トはっ…!』
周囲には恐ろしいほどの量の蒼い血が、雨のように振りまかれている。それから退避するように、私たちは屋敷の扉の前に集まった。
「勝った…のか?」
黒龍の首から噴き出される血を見ながら、そうとだけ呟いた。
「まだ分からないよ。死んだふりをする邪妖もいたし…」
降り注ぐ蒼い雨の中、その場にいた一人と三匹は、龍の死の行く末を静かに見守っていた。
「シヴァリエ!!」
そんな沈黙を唐突に打ち破ったのは、屋敷の中から聞こえてきた少女の声だった。
「シェリーヌ」
寝間着姿のシェリーは何の迷いもなく―というよりもそれしか見えていないように、こちらへと走ってくる。そして、あたりをはばかろうともせずに、私の胸の内に飛び込んできた。
「おっきな雷が落ちてきて…わたし…」
強く抱きしめてくる彼女は、泣いていた。
「ごめん…でも、君が無事そうでよかった。必死に戦った、甲斐があるよ」
彼女を優しく抱きしめ返した私は、小さく微笑んだ。
それに対して彼女は、余計に強く顔をうずめてきてしまった。まいったな。これは離してくれないぞ。私は少し苦笑した。
「アレ?バクハツカップケーキノ、ネェチャンモイタノカ」
すっかりその存在を忘れていた従魔たちは、シェリーにも見覚えがあるのか、そんなことを口々に言っている。ってか、爆発カップケーキってなんじゃそれ。シェリーはお菓子作りなら上手いぞ、失礼だな。
「あっ!ご主人サマのお友達~!また一緒にあそぼ~よ~!」
「かーんーどーうーのー さーいーかーいー いーいーねー」
シェリーとも彼らは初対面のはずだが、どこまで人違いすれば気が済むんだ。私はさらに、呆れたように苦笑した。呑気すぎるこの三匹は、とってもおもしろかった。
「そういえば、まだ名前を教えてなかったね。あたしシヴァリエ。こっちの抱き着いてるのがシェリーヌね」
騎士団で教えられた礼法でお辞儀する。
自己紹介されたのに気付いたのか、それとももう落ち着いたのか、泣きついていたシェリーも赤くなった目元をこすりながら、律儀に体を従魔たちに向けなおしてお辞儀した。
「あ…の、わたしシェリーヌ、です。こんな…の見せてしまって、ごめんなさい。よく、わからないけれど、シヴァのお友達、かしら…?」
人語を喋る見慣れぬ生き物たちに緊張半分、不安半分、彼女は少しぎこちなく挨拶をした。
「さっき、外で一緒に戦ってくれたんだよ、とっても頼りになった」
シェリーの疑問に私が答える。彼女はやはり驚いたようだった。ちょっと前の私と同じように、まるで人形のような可愛げのある彼らが戦えると思っていなかったのだろう。
そして私たち二人の名前を聞いた三匹は、やっぱり不思議そうな顔をしていた。まぁ、そうだろうな。ご主人さま、とやらとそこまで勘違いしてるようなら名前が違うことにすぐ気付くはずだろう。
「あれ?ご主人サマって、そんな名前だったっけ?」
妖精がちょこんと首をかしげる。
「…ンン?オレハ、タタカウコトニシカキョウミがナカッタカラ、ソンナノオボエテナイゾ」
ちょっと、今まで共に戦ってきた主人なんだろ…。
「なーんーかー ちーがーうーきーすーるーけーどー だーれーでーもーつーいーてーくーよー」
なんて無用心な…。
「そうだね!気にしない気にしない!えっと、それじゃ改めて初めましてってことで!ワタシ、コルネだよ!ご主人サマ、またよろしくね~!二人とも、大好き~!」
緑の妖精、コルネがくるくる回って飛び上がりながら、にっこり笑顔を見せた。
「オレサマハヒトヨンデ、テンジョウムソウノココウノイッピキリュウ、ブライ、トイウモンダ!ヨロシクナ、ゴシュジン!」
無駄に格好つけた通り名の飛びトカゲ、ブライは大鉈を自慢げに掲げて、小さな身体で精一杯自己主張する。
「ぼーくー リーリームー いーろーいーろーおーそーいーけーどー よーろーしーくーねー」
そして見るからにのんびり屋のリリムが、頑張って早口で自己紹介した。
思わず吹きだした。なんなんだ、この特徴的すぎる面子は。見ると、シェリーも小さく笑っていた。意図せずして彼女の緊張はほぐれたようだった。よかった。
思い出し笑いをしないように注意しながら、ふいに私は戦いの最中、気になったことを、この従魔たちに聞いてみたいと思った。
混ざりモノ、わが主、従魔、邪妖と半妖…黒龍との短い戦闘の間で、いくつもの聞き慣れない言葉を耳にした。そもそも、この赤月の世界そのものすらよく分かっていない。彼らなら、何か知っているだろう。
「ねぇ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」
「えっと?なんだろう?」コルネが回りながら遊んでいる。私はその問いを口にしようとした。
しかし、その直後、雨が上がった庭園のほうで、何かが動いたように見えた。
「なっ!」
きょとんとするコルネを横にして、私は黒い蠢きのほうを凝視する。
まさか仕留め損ねたのか。だけど、あそこまで無様な死に様を晒して、死んでいないとは言わせない。
よくよく見てみると、龍の遺骸は既になく、その蠢きは、夜空に向かって翔んでいく、黒い蝶の大群だった。
『ほウ…この感覚ハ…。贄もいるではナいか。ようやく見つけ出シタ…ならば、我の肉体一つ、惜しいモノではない』
先ほど黒龍の声が、頭に響いてくる。
『全ては我が君のために…』
ひとりごちたように最後にそうとだけ言うと、声も黒蝶も、宵闇の中に消えてしまった。
「なんだったんだ…一体」
私は反射で構えていたフランベルジェを降ろした。
張りつめていた緊張が解けたかと思うと、今度は妙な睡魔が襲ってきた。眠い。
「…何…これ」
バタッ―
後ろの方から、何かが倒れたような音がした。
何か嫌な予感がして、私はそちらを振り向く。
「……」
「…シェリー?」
少女は、黒く湿った石畳の上に横たわって、少しも動こうとしない。
「シェリー…おい、シェリーヌ!」
すぐに駆け寄る。気が動転していた。同時に大量の睡魔の大波も、押し寄せてきた。
どういうことか、彼女の身体は、徐々にうっすらと透けていってしまっていた。
「そんな…?!」
何が起きているのか、まったく理解できなかった。彼女は、どうなって―?
訳のわからぬまま、私の意識は暗い闇の中へと引きずり込まれてしまった。
★
―…ス
誰かが呼び掛けているらしい。一体、誰に声を掛けてるんだろう。
―ア…ス
でも、呼びかけ続けるその声は、確かに耳が記憶していた。
それはいつも聞いている、彼女の声だった。
―シェリーヌ?
私ははっと目を覚ました。とたんに、やけに眩しい太陽の光が両目へと飛び込んできた。
どうやら、開け広げられた屋敷の扉の前で倒れているらしい。身体を動そうとするが、なかなか力が入っていかない。
しばらく天井を見つめて、ぼーっとする。美しい鳥の鳴き声が、朝日の中から聞こえてきた。まるで夢みたいだ。
―不思議な出来事だった。あれも、夢だったのか?でも、それはきっと違うのだろう。私は騎士装束を着ているし、こんなところで倒れているのも、夢であればおかしな話だ。でも、コルネたち従魔の姿は見えなかった。
「そんなことよりも…」
疲弊しきった肉体を、二つの腕で無理やり起こすと、すぐかたわらで、リリィが泣き崩れているのに気づいた。
…リリィ?違う。この子はシェリーヌ。どうやら無事だったようだ。わたしの、大事な、シェリーヌ。
「シェリー。よかった…」
なんとか声をかけると、彼女はびくっと震えて、大粒の涙で濡れたその顔を、その大きな瞳を私に向けて、一寸たりとも逸らすことなく、
「っ!!」
まるで、親猫を見つけて懸命に駆けていく迷子の子猫のように、シェリーは飛び込むようにして私の身体に覆いかぶさった。私の身体は再び地面へと押し倒される。
「ちょ…!くるしい…!」
もちろんそんな苦言が彼女の耳にはいるはずもなく。むしろより一層の力を、その小さな腕に込めて抱きしめてきた。
「心配…したんだからっ…!」
「ごめん…でも、もう大丈夫。安心して」
私は、胸の上でまた泣きじゃくっている彼女をそっと抱え起こした。顔を上げさせると、陽光に照らされ、まるで夜空の星のように輝いた、透明な涙ばかりがぼろぼろと落ちてくる。
「ほら、泣かないの…私はここにいるよ。君のそばに、ね…」
気づくと、私の目尻からも、透き通った何かが滴り落ちてくる。こんなこと滅多にない。こんなものを見れた君は、運がいい。寝覚めが良い日は、よくでてくるものだ。もしそうじゃなくても…誘われて、だからな。
少女たちは、明るく光るはじまりの朝に、大地を照らす陽だまりの熱よりも、もっともっと熱い抱擁を解くことは決してなかった。
幕間 1
泣きつかれて眠ってしまったシェリーをベッドに連れ、そのままあたしも眠りに落ちてしまったようだ。
体感では一瞬だったけど、どうやら一日中寝ていたらしい。ベッドから身体を起こすと、やはりシェリーは先に起きていたようで、そして再び朝の陽の光を直視することになった。眠りに続く眠りで、なんだか妙な気分だ。
ガントレットを着けたまま寝ていたせいか、右手が妙に重い。あくびして、右腕を軽く揉み解しながらリビングに降りてくると、シェリーヌがおとといの昼下がりと同じように、丸いテーブルのそばでテレビを見ている。そこにココメロンはないが、代わりに美味しそうな朝ごはんが置かれてあった。
卵焼きに、味噌スープに、メランザーナの油炒めと白飯か?なんてベタすぎるんだ。でも、見栄を張ったこてこてのご馳走なんかより、あたしは彼女の地味な手料理が一番好きだった。
「おはよう、シェリー」
あたしの箸―小さな黒い猫の絵柄がついた薄紅色のそれが置かれているところに座った。もちろん、これを選んだのはシェリーヌ。私なんてモノを選ぶセンスなんてないし、そもそもこの家にいるあいだの買い物は、全て彼女にまかせっきりだった。
この子は、猫、特に黒い猫が好きみたいだった。やっぱり君自身が猫の生まれ変わりなんじゃないのか?
「あっ。…おはよう、シヴァちゃん。先にシャワー、浴びないの?」
彼女は自然と微笑みながら、私に挨拶してくれた。
「いいよいいよ、ちょーお腹空いてるし。それよりうまそうだなあー。早速いただきまーす」
私は両の手のひらを組み合わせて、いるはずもない食べ物の神さまに祈りを捧げた。「お召し上がれ」シェリーは嬉しそうな笑顔だ。そう、これでいいんだ。彼女が笑っていてくれさえすれば。
あたしも、笑った。
―時に、日常において、言いようのない幸せを感じる瞬間がある。ちょうど今みたいに。
黒猫の箸をとって、卵焼きをがっつくように頬張る。シェリーの卵焼きは、砂糖が加えられていてちょっとだけ甘い。始めは正直なれなかったけど、今では故郷の、お袋の味みたいなもんだった。
彼女も、笑っていた。
『美味しそうに食べてくれて、なにより』彼女の声がなぜだか遠くから、聞こえてくる。それに答えようと思ったけれど、少しぬるめのスープを啜っていたその口が、言葉を発することはなかった。
―だがどうしてか、それと同じくして、この幸せは、いつしか儚く壊れ消え去ってしまうのではないか、という後ろめたい暗疑をも、人は感じとってしまう。―ちょうど今みたいに。
あの夜のことを思い出していた。
不可思議なあの時間は、決して夢ではなかった。今でもあの時のことを、身体はつい先ほどあったことのように鮮明に覚えている。
―響き渡る怒声―冷たい蒼い雨―黒い龍―悶えるような高熱―小さな従魔たち―そして、少しずつ透けていくシェリーヌ―
もし、あれが、あれ以上のものが、また今度現れたら―
「シヴァリエ!」
はっと顔を上げた。声のしたほうを向くと、シェリーが心配そうな顔で私を見つめている。
「どうしたの?話かけても、何も言わないし…」
何か言っていたのか、完全に聞きそびれていた。
「あ…ああ、ごめんごめん。何でもないよ。…味噌スープって、なんか独特だね」
あからさまな話の逸らしようだったせいで、彼女をごまかすことができなかったらしい。今度は少し怪訝そうな瞳で、私を見つめてきた。
気まずい雰囲気があたりに立ち込める。どうしようもできずに、あたしは黙り込むしかなかった。
チリリリリン!チリリリリン!
その時、リビングの片隅に置かれた、いつのものかも分からぬ型の古い電話から、電信を知らす甲高いベルの音が鳴り響いた。
ちょうど良い時に―「あたし、出るよ」シェリーのほうをあえて何も伺わぬまま、早口でそう言いつつ、あたしは立ち上がってすぐさま受話器を手に取った。
だが、その電話とは。
「もしもし…」
『…突然のお電話失礼します。こちら、教皇正統騎士団、暁の鳳凰の騎士兵団長の者ですが』
なっ…教皇庁、だと?しかも、私の所属する暁の鳳凰騎士団の兵団長ときた。仕事の話以外、ふっかけられないわけがない。私の休暇日数は、まだいくらかあるが、この稼業においては緊急的な呼び出しなど日常茶飯事で、今ではすっかり慣れてしまっていた。
『黒い猫は、いらっしゃいますか』
何も言わないでいると、少し間をあけてから、向こうからそんな質問が飛んでくる。普通の人間が聞くぶんなら訳のわからない、奇妙で唐突な問いかけだろう。ちょっと真面目ならいません、とかいますよ、とか答える人もいるかもしれないが、私たち暁にとっての意味は、だいぶ違った。
「…黒猫のミーケなら、おととい死んだ」
シェリーに聞こえないように、受話器をそっと口元に寄せて、密かにそう言った。これは、騎士団員かどうかを判断する、ある種の暗号のようなものだ。この謎めいた言葉を言い合うことによって、お互いが本物の暁であるかどうかを判別する。
『こちらミレーユ。久しぶりだな、シヴァリエ。新しい任務についての連絡を伝えるため、本部から繋がせてもらっている。休暇中にこんな電話をかけてしまってすまない。だが、それほど急を要することなのだ、分かるな?』
本人に対して、直接口に出しては言えるはずもないことだが、実にたくましい、まるで男のような、低めの中性的な女性の声が電話の奥から聞こえてくる。その雄声は、確かに紅蓮の鳳凰たちを統べる長、ミレーユのものだった。
「大丈夫、いつでも覚悟はできてるから。そっちこそお疲れ様。それで、新しい任務って、何?」
暁内では、もちろん上位下位の関係はあるものの、特別な時を除いて敬語は原則禁止となっている。より結束力を高めるためで、戦いそのものには地位もなにも関係ないのだと、ミレーユ自身が語っていた。確かに分からなくもないが、おかげで数ある教皇騎士団の中でも、正統に教皇庁より認められた私兵騎士団の一つということもあり、暁の鳳凰は少し異色だった。なにがどうあれ、私にとってはすごく話しやすくてよかったのだが。
『話が早くて助かる。だが、任務内容の詳細は、ここでは話せない。詳しくは本部で直接伝えよう』
どういうことだ?電話では話せないほど、重要で、機密性の高い任務なのか?おそらくはあの深夜帯の連続怪死に関係するものなのだろうが。
『これだけ言っておく』
電話はさらに続く。
『シヴァリエには、確かともに生活を送っている、女性がいたはずだな。お名前は、シェリーヌさん、と言ったか』
「ああ。そうだけど。それがどうしたんだ?」
シェリーのことは、よく他の騎士団員たちにも話していたが―
―まさか、彼女が、今回の任務に関係しているのか…?無意識のうちに心臓の鼓動が速くなり、冷たい嫌な汗が額から滑り落ちてきた。
『彼女を連れて、一週間後の夜までには都に戻ってきてほしい。シェリーヌさんには厳しい旅路になるだろうが、彼女はこの任務において、最大の”鍵”となる』
『ガチャン』
『シヴァちゃん…誰から、だった?』
『いや、その…』
『…いいよ、別に遠慮なんかしなくても。盗み聞きではないけれど、電話の声は、ほとんど聞こえていた』
『…』
『わたしを、都に連れていくのね?』
『…その、ごめん』
『どうしてあなたが謝るの?謝るのなら、教皇庁のほうだわ』
『…』
『でも、何かとても大切な理由があるんだわ。ただの一般人であるわたしを、わざわざ正統騎士団が都に呼ばなければならない理由が―』
『教皇庁は、この国を治める最大の組織。断る理由はないわ。それに、それがシヴァリエの手助けにもなるのなら、なおさらよ』
『…ありがとう、シェリーヌ』
『…でも、本当に、いいのか?表向き教皇庁は普通だけれど、いろいろと謎も深い。何をされるかわからないんだよ』
『いいわ。わたしはそれでも、行きたい。わたしシヴァちゃんに今までいろいろと助けてもらってきたけれど、わたしからは何にもしてあげれてない。たぶん、恩返しの機会が、ちょうど今、まわってきたんだわ』
『…』
『都に行くのも何年かぶりだしね。焦ることなんてない…楽しんできましょうよ』
『…』
『君がそこまで言うのなら…分かったよ』
『出発は、明日の朝早く。今からでも支度しないと』
『今夜の準備、もね』
深い宵闇の静寂のなか。子供たちの寝静まる大地が、赤い満月に照らされて、ぼんやりと二人の少女の姿を映し出していた。
確かにこの感覚は、あの血族特有の、ものだった。見つけ出したが、その伝言と共に息絶えてしまった彼に、弔い意を込めて、一匹の大きな黒蝶を空に飛ばした。
「…あの娘さんが、今度の…」
玉座らしきものに座る人らしき黒影は、美しい女性の声をしていた。しかしその声音は、か細く、なにか言われようのない哀しみを宿していた。
「そうだ…だが、試す必要がある。となりの少女も、含めて、な…」
そのそばに立つは、騎士のような風体の黒影。やはり、女性の声をしていた。
「今はまだ時期尚早だ。今しばらく、ゆっくりと彼女たちを見守るとしよう…」
二つの黒影は、身体から産み出された多く黒蝶に抱かれ、そして赤月のもとへと帰り去っていった。
「…わたしたちに、そっくり」
★
そして、気づけば時刻は夕暮れ過ぎ。太陽は地へと落ちていくように山の縁に隠れていって、本当に、時間というものは過ぎるのが早い。東の空にはもう、うっすらと白い光の星々が浮かんできてしまっていた。
そして、休暇最後の日の夜が訪れた。この時にやることは、毎回決まっていた。
それはすなわち、シェリーが決めた”お別れの星見”。彼女は、死地に赴くあたしを心細くさせたくないらしい。
と言っても、やることといったら、シェリーと二人で近くの丘まで散歩して、いろんなこと話して、持ってきたお弁当を夕ご飯として食べるだけなんだけど、あたしはそれが嬉しくてたまらなかった。あたしを思ってくれるシェリーの心遣いが、心にほんのり温かかった。
「あっ…でも今回は”門出の星見”になるのかな…」
「おまたせ~!ごめん、待った?」
一人呟いていると、シェリーが奥のキッチンから走ってきた。なにやら、美味しそうな甘い香りが彼女の服から漂ってくる。そういえばデザートにも力を入れるから遅くなっちゃうかも、とか言ってたな。
「大丈夫だよ、あたしも今きたばっかだから。それじゃあ、行こうか!」
「うん!シヴァちゃん、行こ!」
あたしたち二人は連れ立って、夜の中へと歩みを進めていった。
「うわ!ちょっと、恥ずかしいから、やめてよ!」
丘へと続く草原の一本道を歩いていると、左側を歩いていたシェリーが、右腕と左腕を絡ませてきた。俗に言う、恋人つなぎっていうやつだ。我ながら、驚くほどに顔が火照ってきているのが感じられた。抱き合うのは、別になんともないのに、これをすると一気に熱っぽくなるのは、一体どうしてなんだろう。やはり恋人つなぎとよばれる所以なのか。
「誰も見てなんか、いないよっ!それともなに?わたしと手つなぐの嫌なの?」
答えは分かり切ってるはずなのに、彼女はとぼけたように首をかしげて、あたしの顔を上目使いでうかがってくる。うっ…上手いな。その顔でそう言われると、手をほどきづらくなってしまう…。
「そ…そういうわけじゃ…」
「じゃ、ずっとつないで歩こっ!」
しまいにルンルン、って鼻歌まで歌いだす始末。こ、こっちのことも考えてよ。
そんなあたしを知ってか知らずか、彼女は、いつにないほど楽しそうだった。
なんとか高熱で倒れる前に、丘の元へとたどり着いたあたしたちは、斜面を登って、丘上に広がる小さな広場にまで足を運んだ。
「そ、そうだ。お弁当!」ここでうまく口実を作って、シェリーの腕からすっと、左手を抜き放つ。ようやく気分が落ち着いた。ほんと、危うくのぼせるところだったよ。
そして、あたしたちは、”いつもの場所”に座った。そこは、奥にひっそりと建てられた、どうやらここいらの神さまを祀っているらしい、極東の意匠を取り入れた神社の向かい側、それなりに高い丘の崖ぎりぎりのところだった。
そこに、あたしたちは足だけを崖から下ろすように座った。
「うわあ~。今日も星が綺麗だね~」
シェリーが空を指さして見上げながら、感嘆の息を漏らす。ここから見る夜空は、ほんとに綺麗だった。
「あっ!あれ、てんびん座かな?」
「残念ー!あれはししへびやぎ座だ。伝説の合体獣キマイラに似てるから、そう言われてるらしい」
「じゃあ、あれは?」
「えっと…あれは、なんだろな…。ああ思い出した、あれはまがっき座。なんかトランペットの形に似てるだろ?その昔、魔性の音を吹き鳴らして暴れまわった悪魔の楽器が名前の由来らしい。中央に光る一等星が、クリスの星っていうそうだ」
「へぇ~!知らなかった!シヴァちゃんって、星のこと詳しいんだね!それも知らなかった」
「まあね。都でひまの時、興味のあった分野の本とか適当に読み漁ってたからかな」
「家だとそんなに読まないけど、シヴァリエも本読むんだね。似合わない~」
「ほ、本くらい読むさ。やめてくれよ、そんな戦うだけしか能がない人間じゃない」
特に意味もない星座の話で、よくここまで盛り上がったものだ。思わず笑みがこぼれた。
でも、こんなあっけらかんとした会話だからこそ、あたしは嬉しかった。彼女に、シェリーに、堅苦しい雰囲気はふさわしくない。彼女はこれくらいでいいんだ。
「そういえば、明日は都に出発するんだったね。楽しみだな~教皇都!どんな物が売っているのかしら」
「…都へは自分たちで歩いていくんだよ。楽しみにしてるとこ悪いけど…」
真面目に、そう思われては困ってしまう。この村から教皇都への道中はそこまで危険ではないが、賊や獣が出ないとも限らない。命を危険にさらす可能性は十二分にあった。遊び半分でいくのなら、騎士団長に無理やりでも任務を中止させる、と彼女にも言っておいてある。本当に中止させようとしたところで、それが叶う可能性は限りなく低いだろうが。
それを聞いた彼女は、ぷくっとほっぺたを膨らませて、
「もう!そんなこと分かってるわよ!せっかくイイコト考えて忘れようとしてたのに…生真面目くんもきらわれるよ?シヴァちゃん」
確かに、彼女の意志は、朝にしっかりとこの耳で聞いた。もう一度ここで、覚悟がとか、命がとか、言う必要はないだろう。 彼女はこれから起こる全てを受け入れ、そして自ら乗り越えようとしている。それもあたしのために。
「わたし、昔から人助けがしたかったんだ。今の今までできなかったけれどね。正直にいうと、少しだけ怖いけれど、これが人のため、そしてなによりシヴァリエのためになるのなら…わたしは行くのを、やめないよ」
「…ありがとう」
「えっ?」
感謝の言葉を口にしたあたしを、なぜか不思議そうな顔で眺めてくる。それとも、ただ聞こえなかっただけなのかもしれないけれど。
「いや、なんでもない。それより、都で売ってるものだっけ?シェリーは料理が得意だから、そっち関係のもの、いいんじゃないかな。専門店とかもいっぱいあるよ」
「そうねぇ、デザートの料理道具とか欲しいかな。うちにあるものじゃ、カップケーキくらいしか作れないもの」
「今日持ってきたデザートって、もしかしてカップケーキ?早く食べたいな」
「まず、お弁当のロイドさんソーセージを美味しく頂いてからね!」
必ず彼女を送り届けよう、そう誓った。でも気楽に、楽しく。私の意志も、彼女の意志も傷つけないように。
長い遠征の始まりだというのに、私は明日が楽しみで仕方がなかった。
―待ち受ける運命は、鈍色の黒い鉛のように、重く、濁っているものだとも知らずに。
★ページ下部★
『よるのないくに 2 (2)』 Piro-Piro chronicles 編
(★完結済 25,900文字 約35分 (3)製作中)
更新日 | |
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登録日 | 2016-05-02 |
Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。
(1) http://slib.net/58306
★元ネタはゲームソフト。未プレイの方もお気軽に!
【ガールズラブ】【ファンタジー】
★25,900文字 約35分