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幕間 1
泣きつかれて眠ってしまったシェリーをベッドに連れ、そのままあたしも眠りに落ちてしまったようだ。
体感では一瞬だったけど、どうやら一日中寝ていたらしい。ベッドから身体を起こすと、やはりシェリーは先に起きていたようで、そして再び朝の陽の光を直視することになった。眠りに続く眠りで、なんだか妙な気分だ。
ガントレットを着けたまま寝ていたせいか、右手が妙に重い。
あくびして、右腕を軽く揉み解しながらリビングに降りてくると、シェリーヌがおとといの昼下がりと同じように、丸いテーブルのそばでテレビを見ている。そこにココメロンはないが、代わりに美味しそうな朝ごはんが置かれてあった。
卵焼きに、味噌スープに、メランザーナの油炒めと白飯か?なんてベタすぎるんだ。でも、見栄を張ったこてこてのご馳走なんかより、あたしは彼女の地味な手料理が一番好きだった。
「おはよう、シェリー」
あたしの箸―小さな黒い猫の絵柄がついた薄紅色のそれが置かれているところに座った。もちろん、これを選んだのはシェリーヌ。私なんてモノを選ぶセンスなんてないし、そもそもこの家にいるあいだの買い物は、全て彼女にまかせっきりだった。
この子は、猫、特に黒い猫が好きみたいだった。やっぱり君自身が猫の生まれ変わりなんじゃないのか?
「あっ。…おはよう、シヴァちゃん。先にシャワー、浴びないの?」
彼女は自然と微笑みながら、私に挨拶してくれた。
「いいよいいよ、ちょーお腹空いてるし。それよりうまそうだなあー。早速いただきまーす」
私は両の手のひらを組み合わせて、いるはずもない食べ物の神さまに祈りを捧げた。「お召し上がれ」シェリーは嬉しそうな笑顔だ。
そう、これでいいんだ。彼女が笑っていてくれさえすれば。
あたしも、笑った。
―時に、日常において、言いようのない幸せを感じる瞬間がある。ちょうど今みたいに。
黒猫の箸をとって、卵焼きをがっつくように頬張る。シェリーの卵焼きは、砂糖が加えられていてちょっとだけ甘い。始めは正直なれなかったけど、今では故郷の、お袋の味みたいなもんだった。
彼女も、笑っていた。
『美味しそうに食べてくれて、なにより』彼女の声がなぜだか遠くから、聞こえてくる。それに答えようと思ったけれど、少しぬるめのスープを啜っていたその口が、言葉を発することはなかった。
―だがどうしてか、それと同じくして、この幸せは、いつしか儚く壊れ消え去ってしまうのではないか、という後ろめたい暗疑をも、人は感じとってしまう。―ちょうど今みたいに。
あの夜のことを思い出していた。
不可思議なあの時間は、決して夢ではなかった。今でもあの時のことを、身体はつい先ほどあったことのように鮮明に覚えている。
―響き渡る怒声―冷たい蒼の雨―黒い龍―悶えるような高熱―小さな従魔セルヴァンたち―そして、少しずつ透けていくシェリーヌ―
もし、あれが、あれ以上のものが、また今度現れたら―
「シヴァリエ!」
はっと顔を上げた。声のしたほうを向くと、シェリーが心配そうな顔で私を見つめている。
「どうしたの?話かけても、何も言わないし…」
何か言っていたのか、完全に聞きそびれていた。
「あ…ああ、ごめんごめん。何でもないよ。…味噌スープって、なんか独特だね」
あからさまな話の逸らしようだったせいで、彼女をごまかすことができなかったらしい。今度は少し怪訝そうな瞳で、私を見つめてきた。
気まずい雰囲気があたりに立ち込める。どうしようもできずに、あたしは黙り込むしかなかった。
チリリリリン!チリリリリン!
その時、リビングの片隅に置かれた、いつのものかも分からぬ型の古い電話から、電信を知らす甲高いベルの音が鳴り響いた。
ちょうど良い時に―「あたし、出るよ」シェリーのほうをあえて何も伺わぬまま、早口でそう言いつつ、あたしは立ち上がってすぐさま受話器を手に取った。
だが、その電話とは。
「もしもし…」
『…突然のお電話失礼します。こちら、教皇正統騎士団、暁の鳳凰の騎士兵団長の者ですが』
なっ…教皇庁、だと?しかも、私の所属する暁の鳳凰騎士団の兵団長ときた。仕事の話以外、ふっかけられないわけがない。私の休暇日数はまだいくらかあるが、この稼業においては緊急的な呼び出しなど日常茶飯事で、今ではすっかり慣れてしまっていた。
『黒い猫は、いらっしゃいますか』
何も言わないでいると、少し間をあけてから、向こうからそんな質問が飛んでくる。普通の人間が聞くぶんなら訳のわからない、奇妙で唐突な問いかけだろう。ちょっと真面目ならいません、とかいますよ、とか答える人もいるかもしれないが、私たち暁あかつきにとっての意味は、だいぶ違った。
「…黒猫のミーケなら、おととい死んだ」
シェリーに聞こえないように、受話器をそっと口元に寄せて、密かにそう言った。これは、騎士団員かどうかを判断する、ある種の暗号のようなものだ。この謎めいた言葉を言い合うことによって、お互いが本物の暁あかつきであるかどうかを判別する。
『こちらミレーユ。久しぶりだな、シヴァリエ。新しい任務についての連絡を伝えるため、本部から繋がせてもらっている。休暇中にこんな電話をかけてしまってすまない。だが、それほど急を要することなのだ、分かるな?』
本人に対して、直接口に出しては言えるはずもないことだが、実にたくましい、まるで男のような低めの中性的な女性の声が電話の奥から聞こえてくる。その雄声は、確かに紅蓮の鳳凰たちを統べる長、ミレーユのものだった。
「大丈夫、いつでも覚悟はできてるから。そっちこそお疲れ様。それで、新しい任務って、何?」
暁内では、もちろん上位下位の関係はあるものの、特別な時を除いて敬語は原則禁止となっている。より結束力を高めるためで、戦いそのものには地位もなにも関係ないのだと、ミレーユ自身が語っていた。確かに分からなくもないが、おかげで数ある教皇騎士団の中でも、正統に教皇庁より認められた私兵騎士団の一つということもあり、暁は少し異色だった。なにがどうあれ、私にとってはすごく話しやすくてよかったのだが。
『話が早くて助かる。だが、任務内容の詳細は、ここでは話せない。詳しくは本部で直接伝えよう』
どういうことだ?電話では話せないほど、重要で、機密性の高い任務なのか?おそらくはあの深夜帯の連続怪死に関係するものなのだろうが。
『これだけ言っておく』
電話はさらに続く。
『シヴァリエには、確かともに生活を送っている、女性がいたはずだな。お名前は、シェリーヌさん、と言ったか』
「ああ。そうだけど。それがどうしたんだ?」
シェリーのことは、よく他の騎士団員たちにも話していたが―
―まさか、彼女が、今回の任務に関係しているのか…?無意識のうちに心臓の鼓動が速くなり、冷たい嫌な汗が額から滑り落ちてきた。
『彼女を連れて、できるだけ早くに都へと戻ってきてほしい。シェリーヌさんには厳しい旅路になるだろうが、彼女はこの任務において、最大の”鍵”となる』
『ガチャン』
『シヴァちゃん…誰から、だった?』
『いや、その…』
『…いいよ、別に遠慮なんかしなくても。盗み聞きではないけれど、電話の声は、ほとんど聞こえていた』
『…』
『わたしを、都に連れていくのね?』
『…その、ごめん』
『どうしてあなたが謝るの?謝るのなら、教皇庁のほうだわ』
『…』
『でも、何かとても大切な理由があるんだわ。ただの一般人であるわたしを、わざわざ正統騎士団が都に呼ばなければならない理由が―』
『教皇庁は、この国を治める最大の組織。断る理由はないわ。それに、それがシヴァリエの手助けにもなるのなら、なおさらよ』
『…ありがとう、シェリーヌ』
『…でも、本当に、いいのか?表向き教皇庁は普通だけれど、いろいろと謎も深い。何をされるかわからないんだよ』
『いいわ。わたしはそれでも、行きたい。わたしシヴァちゃんに今までいろいろと助けてもらってきたけれど、わたしからは何にもしてあげれてない。たぶん、恩返しの機会が、ちょうど今、まわってきたんだわ』
『…』
『都に行くのも何年かぶりだしね。焦ることなんてない…楽しんできましょうよ』
『…』
『君がそこまで言うのなら…分かったよ』
『出発は、明日の朝早く。今からでも支度しないと』
『今夜の準備、もね』
深い宵闇の静寂のなか。子供たちの寝静まる大地が、赤い満月に照らされて、ぼんやりと二人の少女の姿を映し出していた。
確かにこの感覚は、あの血族特有のものだった。見つけ出したが、その伝言と共に息絶えてしまった彼に、弔いの意を込めて、一匹の大きな黒蝶を空に飛ばした。
「…あの娘さんが、今度の…」
玉座らしきものに座る人らしき黒影は、美しい女性の声をしていた。しかしその声音は、か細く、なにか言われようのない哀しみを宿していた。
「そうだ…だが、試す必要がある。となりの少女も、含めて、な…」
そのそばに立つは、騎士のような風体の黒影。やはり、女性の声をしていた。
「今はまだ時期尚早だ。今しばらく、ゆっくりと彼女たちを見守るとしよう…」
二つの黒影は、身体から産み出された多く黒蝶に抱かれ、そして赤月のもとへと帰り去っていった。
「…わたしたちに、そっくり」
★
そして、気づけば時刻は夕暮れ過ぎ。太陽は地へと落ちていくように山の縁に隠れていって、本当に、時間というものは過ぎるのが早い。東の空にはもう、うっすらと白い光の星々が浮かんできてしまっていた。
そして、休暇最後の日の夜が訪れた。この時にやることは、毎回決まっていた。
それはすなわち、シェリーが決めた”お別れの星見”。彼女は、戦場に赴くあたしを心細くさせたくないらしい。
と言っても、やることといったら、シェリーと二人で近くの丘まで散歩して、いろんなこと話して、持ってきたお弁当を夕ご飯として食べるだけなんだけど、あたしはそれが嬉しくてたまらなかった。あたしを思ってくれるシェリーの心遣いが、心にほんのり温かかった。
「あっ…でも今回は”門出の星見”になるのかな…」
「おまたせ~!ごめん、待った?」
一人呟いていると、シェリーが奥のキッチンから走ってきた。なにやら、美味しそうな甘い香りが彼女の服から漂ってくる。そういえばデザートにも力を入れるから遅くなっちゃうかも、とか言ってたな。
「大丈夫だよ、あたしも今きたばっかだから。それじゃあ、行こうか!」
「うん!シヴァちゃん、行こ!」
あたしたち二人は連れ立って、夜の中へと歩みを進めていった。
「うわ!ちょっと、恥ずかしいから、やめてよ!」
丘へと続く草原の一本道を歩いていると、左側を歩いていたシェリーが、右腕と左腕を絡ませてきた。俗に言う、恋人つなぎっていうやつだ。
我ながら、驚くほどに顔が火照ってきているのが感じられた。抱き合うのは、別になんともないのに、これをすると一気に熱っぽくなるのは、一体どうしてなんだろう。やはり恋人つなぎとよばれるゆえんなのか…。
「誰も見てなんか、いないよっ!それともなに?わたしと手つなぐの嫌なの?」
答えは分かり切ってるはずなのに、彼女はとぼけたように首をかしげて、あたしの顔を上目使いでうかがってくる。うっ…上手いな。その顔でそう言われると、手をほどきづらくなってしまう…。
「そ…そういうわけじゃ…」
「じゃ、ずっとつないで歩こっ!」
しまいにルンルン、って鼻歌まで歌いだす始末。こ、こっちのことも考えてよ。
そんなあたしを知ってか知らずか、彼女は、いつにないほど楽しそうだった。
なんとか高熱で倒れる前に、丘の元へとたどり着いたあたしたちは、斜面を登って、丘上に広がる小さな広場にまで足を運んだ。
「そ、そうだ。お弁当!」ここでうまく口実を作って、シェリーの腕からすっと、左手を抜き放つ。ようやく気分が落ち着いた。ほんと、危うくのぼせるところだった。
そして、あたしたちは、”いつもの場所”に座った。そこは、奥にひっそりと建てられた、どうやらここいらの神さまを祀っているらしい、極東の意匠を取り入れた神社の向かい側、それなりに高い丘の崖ぎりぎりのところだった。
そこに、あたしたちは足だけを崖から下ろすように座った。
「うわあ~。今日も星が綺麗だね~」
シェリーが空を指さして見上げながら、感嘆の息を漏らす。ここから見る夜空は、ほんとに綺麗だった。
「あっ!あれ、てんびん座かな?」
「残念ー!あれはししへびやぎ座だ。伝説の合体獣キマイラに似てるから、そう言われてるらしい」
「じゃあ、あれは?」
「えっと…あれは、なんだろな…。ああ思い出した、あれはまがっき座。なんかトランペットの形に似てるだろ?その昔、魔性の音を吹き鳴らして暴れまわった悪魔の楽器が名前の由来らしい。中央に光る一等星が、クリスの星っていうそうだ」
「へぇ~!知らなかった!シヴァちゃんって、星のこと詳しいんだね!それも知らなかった」
「まあね。都でひまの時、興味のあった分野の本とか適当に読み漁ってたからかな」
「家だとそんなに読まないけど、シヴァリエも本読むんだね。似合わない~」
「ほ、本くらい読むさ。やめてくれよ、そんな戦うだけしか能がない人間じゃない」
特に意味もない星座の話で、よくここまで盛り上がったものだ。思わず笑みがこぼれた。
でも、こんなあっけらかんとした会話だからこそ、あたしは嬉しかった。彼女に、シェリーに、堅苦しい雰囲気はふさわしくない。彼女はこれくらいでいいんだ。
「そういえば、明日は都に出発するんだったね。楽しみだな~教皇都!どんな物が売っているのかしら」
「…都へは自分たちで歩いていくんだよ。楽しみにしてるとこ悪いけど…」
真面目に、そう思われては困ってしまう。この村から教皇都への道中はそこまで危険ではないが、賊や獣が出ないとも限らない。命を危険にさらす可能性は十二分にあった。遊び半分でいくのなら、騎士団長に無理やりでも任務を中止させる、と彼女にも言っておいてある。本当に中止させようとしたところで、それが叶う可能性は限りなく低いだろうが。
それを聞いた彼女は、ぷくっとほっぺたを膨らませて、
「もう!そんなこと分かってるわよ!せっかくイイコト考えて忘れようとしてたのに…生真面目くんもきらわれるよ?シヴァちゃん」
確かに、彼女の意志は、朝にしっかりとこの耳で聞いた。もう一度ここで、覚悟がとか、命がとか、言う必要はないだろう。 彼女はこれから起こる全てを受け入れ、そして自ら乗り越えようとしている。それもあたしのために。
「わたし、昔から人助けがしたかったんだ。今の今までできなかったけれどね。正直にいうと、少しだけ怖いけれど、これが人のため、そしてなによりシヴァリエのためになるのなら…わたしは行くのを、やめないよ」
「…ありがとう」
「えっ?」
感謝の言葉を口にしたあたしを、なぜか不思議そうな顔で眺めてくる。それとも、ただ聞こえなかっただけなのかもしれないけれど。
「いや、なんでもない。それより、都で売ってるものだっけ?シェリーは料理が得意だから、そっち関係のもの、いいんじゃないかな。専門店とかもいっぱいあるよ」
「そうねぇ、デザートの料理道具とか欲しいかな。うちにあるものじゃ、カップケーキくらいしか作れないもの」
「今日持ってきたデザートって、もしかしてカップケーキ?早く食べたいな」
「まず、お弁当のタコさんウィンナーを美味しく頂いてからね!」
必ず彼女を送り届けよう、そう誓った。でも気楽に、楽しく。私の意志も、彼女の意志も傷つけないように。
長い遠征の始まりだというのに、私は明日が楽しみで仕方がなかった。
―待ち受ける運命は、鈍色の黒い鉛のように、重く、濁っているものだとも知らずに。
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