「もうな、狂わんとやってられへんかってん」
あの頃を振り返る度に、秋恵姉さんはこう笑う。
「ホンマにしんどかったんやで。でもな、アンタらがいてくれたから、まだ助かってたわ。ありがとな~」
ちょっとだけ甘えた声で、いつも筋違いのお礼を言ってくれる、秋恵姉さん。
その言葉を何十倍にしてお返しすれば、僕の中で釣り合いは取れるのだろう?
たぶん、無理だ。僕は言葉を生業にしている漫才師だから、大抵のことは言語化する自信はある。
でも、秋恵姉さんへの想いは、秋恵姉さんへの感謝の気持ちだけは、とても言葉では言い表せない。
なぜなら、浅香秋恵という芸人さんに出会っていなかったら、秋恵姉さんが博多温泉劇場に来ていなかったら、そこで僕に秋恵姉さんが目をかけてくれなかったら、今の僕は絶対に存在しないからである。絶対に、絶対に存在しないと、そう断言できるのだ。
もちろん、華丸との出会いは人生を180度変える運命的なものだった。
吉田さんの厳しい指導は芸人として大切な血や肉となっているし、互いに励ましあった同期をはじめ、たくさんの先輩や後輩芸人に今も恵まれているのは自慢に値するレベルだと思う。
支えてくれた家族や友人。
芸人を辞めそうになった時に励ましてくれた、天国の三沢光晴さんやハヤブサさん。
仕事をくれた全ての関係者の皆さんに、とてもプロとは呼べない僕を温かく見守ってくれた福岡の視聴者の方々。
そして、わざわざイベント等に足を運んでくれたお客さん。
それら全ての力が結集したからこそ、現在の僕が形成されていることは十分に承知している。
それでも、順位をつけるのならば。
誰のおかげで、という順位をつけるのならば。
どう考えても第1位は秋恵姉さんなのだ。
当時、秋恵姉さんは漫才師としての活動を始めたばかりだった。
相方さんは「ダメよダメよダメなのよ~」というギャグでおなじみの、今も新喜劇の第一線でバリバリに活躍されている、島田一の介さん。この時点でのキャリアは一の介兄さんが新喜劇に入団17年目で、秋恵姉さんが入団14年目。
毎回のように重要な役どころを任されるような、そんな立場を新喜劇内でとっくに確立していたおふたりが、ここから数年の間だけ、漫才コンビ「秋恵・一の介」を組んでいたのである。
その決断の裏には、前年の「新喜劇やめよッカナ!?キャンペーン」が深く関与していることは火を見るよりも明らかで、不本意とまでは行かなくとも、やむを得ずの路線変更だったということは想像に難くない。
実際、今では底抜けに明るく、どこまでも優しい一の介兄さんも、この頃はどこか浮かない表情だったように記憶しているし、みんなには黙っていたけれど、僕は秋恵姉さんのタメ息を舞台裏で何度も耳にしていた。
それでも秋恵姉さんは極力ご陽気に、そしてパワフルに毎日を過ごしていた。予算の都合上、ギリギリの人数で公演を回していたから、おふたりは漫才だけではなく新喜劇の方にも当然のように主要キャストとして名を連ねていたのだが、秋恵姉さんの出番はそれだけでは終わらなかった。
実は公演を重ねるにつれて、いつの間にか設けられたコーナーにも、秋恵姉さんは果敢に出陣していたのである。
それは、ここは大衆演芸場なので歌謡ショー的なものも入れて欲しいという劇場側からの要請を受け、思案した吉田さんが大阪でポケットミュージカルという、歌とコントを融合させた舞台を経験していた秋恵姉さんに白羽の矢を立てる形で始まった、極めてシンプルな「歌のコーナー」だった。
そのオファーを快諾した秋恵姉さんは、漫才と新喜劇の間に威風堂々、自慢のノドまで披露していたのである。
姉さんの十八番は、桂銀淑さんの「大阪暮色」。
あほやねん♪
あほやねん♪
騙された私が あほやねん♪
そのカラオケテープを音響係として流していた僕は、ここでも芸人の凄さに打ちひしがれた。
そりゃあ、本物の歌手と比べれば差はあるのだろう。
しかし毎回、姉さんの歌に客席は拍手喝采だったから、どこまで芸人は芸達者でなければならないんだと、今も昔も歌を苦手とする僕は諦めにも似た気持ちで、熱唱する姉さんを舞台袖から眺めていた。
「じゃあ、30分後に集合しよか」
漫才と歌と新喜劇。
毎日2回公演だったから毎日6回の舞台を踏みながら、滞在中は毎晩のように秋恵姉さんは飲み会を、いわゆる「部屋飲み」というやつを開いていた。
普通は宿泊先のホテルの一室で開くのだろうが、僕たちも姉さんも劇場の楽屋で寝泊まりしていたから、部屋飲みは福岡芸人の楽屋で行うというルールは、秋恵姉さんが早々に決めた暗黙の了解だった。
姉さんから渡されたお金で、角瓶のウィスキーと簡単な乾きモノを近くのコンビニまで買いに走る。
食堂からコップと氷と水と、時には余った晩のおかずを拝借し、部屋の真ん中にそれらを置くスペースを確保する。
周囲に布団を敷き詰め、いつでも寝転べる状態に部屋を整えた頃には、寝間着に着替えた秋恵姉さんが美樹姉さんを連れてやって来る。
そこからはエンドレス、秋恵姉さんが眠くなるまで終わらない部屋飲みのスタートだ。
宴会中の秋恵姉さんは、ひょっとしてラテンの血が流れているのかと疑いたくなるぐらいにハイテンションだった。
難しい話は一切ナシ。ただひたすらバカ話を繰り返していたのだが、ありがたいことに、姉さんは福岡芸人を最初から一人前の芸人として扱ってくれていた。
つまり、僕たちの拙いボケやツッコミを、プロの先輩芸人として流さずに全て受け止めてくれたのである。
そんな姉さんに釣られるように、同席している美樹姉さんや文太兄さんたちも僕たちとの距離を更に縮めてくれたから、おかげで自信がついたというか、芸人としての会話のコツが掴めたのだろう。
部屋飲みを重ねるごとに福岡芸人がメキメキと本当の芸人らしくなったのだ。
この僕ですら、いつの間にか秋恵姉さんや美樹姉さん、そして文太さんには軽口を叩けるようになっていたのだから、その効果は絶大だったと思う。
その光景を少し嬉しそうに見ていたのが、所長の吉田さんと作家の栗城さんだった。
稽古に立ち会ったりして帰宅が遅くなった時は、吉田さんや栗城さんも部屋飲みに合流していたのだが、これまで、吉田さんと一緒の宴席は、基本的に楽しさよりも緊張感の方が上回っていた。
とにかく気を使うし、吉田さんだって飲み相手が僕らでは物足りなかったことだろう。
しかし、風向きは変わっていた。
というのも、我らが秋恵姉さんは、吉田さんよりもキャリアが上だったのだ。
「よっしゃん、この子らの面倒ちゃんと見てや!」
「秋恵さん、無茶言わんといてくださいよ~」
「この子らが売れんと、自分もキツいんちゃう?」
「ホンマですよ。何とかせなアカンのですわ。ボクもサラリーマンですからねえ」
「どないすんの?」
「まあ、前よりはマシになったし、何人かは何とかなるとは思いますけどね」
会話の端々から聞こえてくる査定にヒヤヒヤし、随所に漏れ聞こえてくる本音にドキドキした。
そしてそれと同等なぐらい、吉田さんと五分に渡り合う秋恵姉さんの姿はとにかく新鮮で、心から頼もしく思えた。
「急やったから、みんな心配してたで~」
「しゃあないですやん、吉田さんがすぐに来いって言うから」
「こっちは代わりに、コント書いてくれる人を探さなアカンのやで」
「まだやってはるんですか?」
「アホ! やるに決まってるやろ!」
しかも秋恵姉さんは、栗城さんとも深く繋がっていたのだ。
そもそも、姉さんが出ていたポケットミュージカルの台本は栗城さんが書いていた。
そこで栗城さんのコントを気に入った姉さんは、とある先輩漫才師さんと共に結成したコントユニット「烏合の衆」を立ち上げる際、そのメイン作家として栗城さんを仲間に引きずり込んだというのだから、世の中は狭いというかなんというか、いや、振り返れば、秋恵姉さんが福岡吉本と縁のある方だったのだろう。
吉田さんと栗城さんという、福岡吉本の中枢に通じていた秋恵姉さんは、そして僕たち福岡芸人から絶大な信頼を寄せられていた秋恵姉さんは、博多温泉劇場での存在感を日毎に増していた。
ちょうどその頃、初の福岡吉本メインのローカル番組を立ち上げるべく奔走していた吉田さんが、その構成にも携わる栗城さんと共に多忙を極めており、僕らや劇場のことばかりに手をかけられなくなっていたことも重なって、いつしか秋恵姉さんは劇場の総監督のようなポジションに収まっていたのである。
ある程度のお目付役というか、全体のまとめ役といった、他の芸人さんなら嫌がるような仕事を、吉田さんは人の良い姉さんに無言で任せていたのだろう。
そんな秋恵姉さんが劇場の改革案を口にしたのは、僕らを巻き込む大胆な構造改革をぶち上げたのは、公演が始まって数ヶ月後のことだった。