映画が不出来で過小評価されることがある。同じように、決断が無謀であり避けられないことがある。デービッド・キャメロン英首相が3年前、欧州連合(EU)内における英国の地位に関する国民投票の実施を誓ったとき、首相の味方――特に側近中の側近のジョージ・オズボーン財務相――は保守党のことを案じた。エコノミストは、大きな代償を伴う信頼感と投資の冷え込みを予想した。間接民主制の信奉者は、安っぽく、浅はかなキャンペーンを想像した。
その不安はすべて現実となった。彼らでさえ、広告担当幹部なら誰でも予想できたはずの問題を予期していなかった。提案というものは、どれほどばかげたものであっても、別の何かと並ぶ選択肢として示されると、偽りの信ぴょう性を得る。
EUからの離脱を求める声高な要求は、もともと存在しなかった。だが、ひとたび離脱が正式な選択肢として俎上(そじょう)に載せられると、現状維持とほぼ同等の敬意を得た。しかも、それは単に、放送メディアが両陣営を同等に扱わなければならなかったためだけではない。自らが国民にある可能性を与えたばかりのときに、その実現に向けた行動計画を考えられないとしてこき下ろすのは難しいのだ。
選択肢の設計がもたらす予期せぬ展開は、粉末洗剤やさまざまなブランドのコーラを売り込む広告担当者と同じくらい、政治家の関心をかき立てるはずだ。
■もっと悪い条件だったかもしれない
つまり、英国に現実的な離脱の可能性をもたらした、考えの甘い国民投票である。だが、国民投票は完全に理にかなっていた。あの誓い(注:国民投票をキャメロン氏が公約していたこと)がなかったら、キャメロン氏は間違いなく、2015年の総選挙の前に自党内の抵抗勢力に屈していただろう。その場合、保守党は右派の指導者の手に落ちていた。
いずれにせよ国民投票はいつか実施されたし、十中八九はEU離脱を心に決めた保守党の首相によって行われただろう。ほかの条件がすべて同じだったとしたら、離脱派のキャンペーンは今週木曜日(23日)より勝算が大きかったはずだ。
曇りのない別の可能性が何だったのかを説明する責任は我々のような人間にある。発表されてからこの方、国民投票に反対し、真実に反する運動のすべての瞬間を嫌ってきた我々にだ。今では、あたかももっと平穏な生活を楽に手に入れられたかのごとく、腹立ち紛れに、なぜキャメロン氏は「我々をこんな目に遭わせるのか」と問うのが、いとも簡単になっている。