【銀】石見銀山が世界経済を動かす
時は大航海時代、日中欧が入り乱れる中国の巨大市場。それを支えたのは、世界の三分の一を占める日本の銀だった
日本の戦国時代というと、どんなイメージを抱くだろうか。教科書的な説明なら、一五世紀の末、北条早雲の崛起(くっき)からはじまり、一七世紀の初め、徳川家康の統一におわる国盗り、群雄割拠の天下争覇というところ。その間およそ百年あまり、戦乱やまぬ不幸な時代という印象をもつかもしれない。
確かに一理ある。戦乱があいついで起こったのは事実だし、往々にして悲惨な運命を人々に強いたというのも、決して誤りではあるまい。しかし、それだけではなかった。
戦乱があいついだのは、既成の秩序が乱れた、あるいは、よるべき秩序が失われたからである。それなら江戸時代に至って、天下泰平になったのは、そうした秩序が再構成された、ということになる。つまり戦国時代は、古い秩序から新しい秩序への過渡期、変動の時代にほかならない。
それなら変動とは、いったい何か。一言でいえば「下剋上」である。誰でも知っているおなじみの歴史用語だけに誤解も少なくない。部下が上司を蹴落としてのし上がった、というくらいに解していないだろうか。
そんな生ぬるいものではない、と断言したのが、わが東洋史学の鼻祖・内藤湖南である。かれによれば、「下剋上」とは「最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する」現象であった。
しかし視点をかえれば、それは「平民実力の興起」でもあった。それまで支配搾取してきた上層階級を「最下級」の「平民」が打倒・撃滅したのであり、われわれの直接の祖先である平民が、「もっとも謳歌(おうか)すべき時代」であった。
こうした「下剋上」という動向に対応して勃興したのが戦国大名である。名だたる戦国大名の素性を思い浮かべてみよう。その大名・国主じしんは、確かに毛並みはよかったのかもしれない。清和源氏の血統を誇る武田信玄や今川義元はいわずもがな、当初の境遇こそ零落(れいらく)していたが、北条早雲・毛利元就もそうだろう。
しかしかれらを支えた人々は、どうだったか。その多くは「平民」であって、名門などいなかった。どんな国主でも、かれらの意向を汲んで一体とならなくては、権力体の組織運営はかなわなかった。
しかも新陳代謝は、どんどん加速してゆく。残る数少ない名家も、次々に没落していった。織田信長・豊臣秀吉の軍団・政権がきわめつけである。高貴な今川・武田・北条も、無名だったかれらに滅ぼされた。織豊政権をひきついだ江戸幕府の大名のほとんどは、どこの馬の骨ともわからない「平民」である。その点では、支配下の人々と変わらなかった。
この現象、ふたたび内藤湖南にいわせれば、「日本全体の身代の入れ替り」である。筆者なりにいいかえれば、上層と下層に分かれてきた社会の一元化、一体化にほかならない。
一つになったことで、それまでの上下関係のけじめ、社会分業のバランスが失われた。だからこそ、あらためて刀狩りや身分制による秩序構築と士農工商の生業分担が必要だったのである。