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              伊豆の古代製鉄と古墳                            
                                      今野哲夫 
 冬の星空は宝石をちりばめたようだ。  
 おや、中空に何の光?  
 ああ、そうか葛城山の頂上のロープウェイの駅か。  
 今はあの山の頂きが夜になると光るわけだが、その昔は中腹から怪しい光を放ったに違い
ないというのが私の妄想である。  
 それは鬼火であろうか?  
 もうつまらないひっぱりは止めにして率直に白状する。  
 製鉄の火ではなかったか。 
 「たたら」があったのではないだろうか。  
 伊豆は中世において中央を狙う秘密の軍事拠点だった。中央政権を追われた反体制一族
が隠れて復讐心と力を溜めた。捲土重来を期したのだ。 氷上川継 伴善男 僧連茂 源為朝
 頼朝などが思い浮かぶ。 
 なぜ伊豆なのか?  
 私は地理的条件のみならず鉄がキーワードだと思っている。  
 軍事的反逆を実行するには武器が欠かせない。どこで刀や槍を調達するのか?  
 自分達で造るしかないのだ。  
 だから砂鉄の採れるところでかつ中央政権の追っ手からも目につかないところでなくてはなら
ない。密かに鉄を砂鉄から還元し鋳造、鍛造しなければならない。  
 狩野川の河原には結構砂鉄があるらしい。
 最近は台風の増水による土砂で表層がよく分からなくなってしまっているがよく下の方を調べ
てみれば出てきそうだ。特に伊豆長岡の戸沢川が合流する水門付近には黒色の砂鉄が採れ
たらしい。(私の推定)<これは真砂(まさ)といい赤目(あこめ)より磁鉄鉱質で鉄の含有率が
高い。  〜沢という河川名も砂鉄採りの場というイメージが私にはある>  
 そしてそのすぐ南には葛城山がそびえる。その麓には伊豆唯一と思われる前方後円墳とみ
られる古墳がある。(駒形古墳) 
 これは8世紀のものと思われる日本では最後の時代の古墳らしい。(7世紀の薄葬令後)埴
輪も出たという。  
 これは古墳郡であり主墳は丘状に残っているがその周囲の小型の円墳はかなり崩れてしま
っており往時の形はよくわからなくなってしまっている。主たる人物とその縁の者達が葬られて
いる筈だが1代限りの利用だったのだろう。 
 葛城山の中腹には昔地元の人が権現さんと呼んでいた祠のようなものがあったらしい。今は
不明。私はどうもその辺に製鉄の跡があるのではないかと気掛かりでならない。 
 葛城山を歩いてみればさほど巨木がない。伊豆は巨木大木の顕著な地である。廣瀬神社に
は立派な大木が並ぶ。なのになぜ葛城山にはさほどの大きな木がないのか?
  多分長年にわたって木を切って利用してきたためではないだろうか。 
 鉄を造るには木炭が大量に要る。
  炉の効率や砂鉄の質にもよるが、砂鉄13t と木炭15tからケラという粗鋼3t位が採れ、さら
にそこから良質の鋼1tが採れるという。だから大量の木材が必要なのだ。木炭の倍量以上の
材木が伐られたのだろう。 (後世の文献によれば砂鉄採取範囲7里に対し炭3里という。直径
12kmにわたって伐採したのである)
  伊豆の葛城山の場合さほどの規模の製鉄施設は造れそうにないが小規模のものはあった
に違いない。(私の推測) 
  さていったい誰が8世紀頃中央に向けて刃を研いだのだろうか?
  8世紀の中央の反逆的イメージの英雄といえば謎の人物 役小角(えんのおづの)である。 
 彼は続日本紀に登場する。
  文武三年五月二十四日 「役君小角流于伊豆島。」 :<今は役を「えん」と読み習わしてい
るが原典では「ゑ」である。> とある。
  西暦でいうと699年に伊豆に追放されたというのだ。(また、7世紀末には伊豆国を駿河国か
ら分離して田方、賀茂の2郡を置いたというのであるから、中央の統治、監視体制を強化した
のかもしれない。国府は田京にあったらしい。しかしどの程度奈良の都の力が伊豆に及んでい
たのかは疑問である。) 
  どうしてかというと  彼は大和の葛城(木)山の金剛山に住んでいて呪術を使ったという。そ
して彼に師事していた韓国連廣足(からくにのむらじひろたり)に裏切られて 「妖言を以って衆
を惑わす」 とチクられたというのだ。
  彼はそれまでに吉野に金峯山(きんぶせん)、大峯山(おおみねやま)などを開いて積極的
に唐や新羅伝来の知識、思想や術(憑き物落としのまじないで病を治す等または加持祈祷)を
民に用い人気と指示を拡めていたらしい。里人に金のタライを雷避けに用いる知恵も授けたと
いう伝承もある。
  で、なんで伊豆に流されるの?と思う。 
 それに関しては信憑性のある記述がないから謎なのだ。 
 役小角に関しては続日本紀以降その20年後の日本霊異記など多くの書物がその物語を伝
えるが伝説的、荒唐無稽だったりしてどれもそのまま鵜呑みにできるものではないがヒントは
多く隠されているのだろう。
  母親は具体的な名(白専女:しらたうめ)が登場し彼の捕縛、追放、などに関与した事件の
記述も伝えているが父<伝、出雲の賀茂のトトキマロ、大角など>に関してはかなり曖昧な伝
しかない。実際不明だったのか史書がわざと隠したのか?もしかすると新羅からの渡来1世か
2世なのかもしれない。まあ出雲の賀茂といえば有数の鉄の産地であり製鉄族を暗示してい
る。
   大和の葛城山は恐らく古代において製鉄が盛んだったのだろう。  鉄を制するものは国を
も制したに違いない。 鉄は農作業においても武力においても飛躍的な効率の向上をもたらし
た。葛城山に祭られる神は一言主神(ひとことぬしのかみ)という。
  日本書紀にも雄略条に何らかの抗争があったことが伺える記述がある。
  葛城山をしきっていたのは葛城氏一族。代々製鉄を行っていたはずだ。特殊な技術である
から代々受け継がないとできないのだ。素人に砂鉄から「さあ鉄を取り出してみろ」といっても
無理なのだ。
  鉄をとりしきっていた葛城氏。これはかなりの勢力を誇っていたのだろう。天皇家でさえも大
きな影響を受けていたのだろう。というより日本書紀からは親族関係をもった時期もありいろい
ろな姻戚関係もからんでいたことが想像できる。  中央政権にとって葛城氏は脅威でもあっ
た。 
   そこで葛城山出身の役小角である。当然製鉄と無関係ではないだろう。いろいろな術をもっ
て人気を泊したのだから中央は警戒していたはず。その時何らかの策で彼を捕らえて東国へ
追いやったのであろう。
  彼は伊豆に注目した。東へ旅をするうちに伊豆で鉄ができる話を聴いたのかも知れない。あ
るいはすでに伊豆に製鉄小勢力がありそこに迎えられたのかもしれない。恐らく彼ひとりでは
なく彼に従うもの一族が就いてきたはずだ。小角は中央政権ではかなりの高位(多分天皇家と
姻戚関係あり)だったのだからクーデター計画発覚により武力衝突を避けたかった朝廷がうま
いこと彼を伊豆国を任せるという形にして追いやったのかも知れない。(日本書紀の段階でも
天武朝期には鉄の生産を朝廷が統制しようとしていたことが伺える)
  大和の葛城山から来た製鉄技能をもった当時のハイテク集団。彼等が陣取った山が伊豆
の葛城山ではないだろうか。 その頂きに陣取れば田方平野が一望でき敵の襲来にも速く対応
できそうだ。
   小角は修験道を行ったという。
  海外の技術や思想に詳しくまた強靱な肉体をしていたのだろうか。
  鉄を造ることができる彼等は大きな力を持って地域支配ができたはずだ。  富士山はじめ
多くの静岡県の山々の名が出てくる書物もあるが多くの山を開いたという。
  もしかすると修験道というのは鉄山の開拓が最初の目的ではなかったのか?
  手に常に持っていたという独鈷杵(とっこしょ)は鉄の鉱脈を探る(温泉ではなくて)道具、件 
杖、件 護身の武具に使えたのではないだろうか。法螺はこれを吹いて仲間に鉱脈を発見した
ことを知らせる道具。額の兜巾(ときん)は鉄穴と呼ばれる鉱道に入る際頭を護るヘルメットの
役目、山での荒修行は鉄を斜面から発見したり木を伐採したり、製鉄の様々な行程作業を行
うのに必要な体力をつける目的があったのだろう。2〜3人が組んでうち1人が垂直に切り立っ
た崖の上から両下肢を抑えてもらい頭を崖から出してその下を覗くという極めて危険な修行も
伝わっている。
  当時はまだ製鉄において分業体制は必ずしも完成していなかったものと思われる。製鉄集
団が鉱脈や砂鉄の採取から鍛冶作業まで一貫して行っていたのだろう。
  小角を朝廷に讒言したのは一言主神とする書もある。
  例えば能の伝世阿弥作「葛城」では役行者が葛城山と大峯山との間に橋を架けた時一言主
神がその醜い容貌を恥じて夜しか工事をしなかたため行者の怒りに触れて岩屋に幽閉された
という伝説の筋書きである。そしてその神(山伏)を女が庵に招いて火をもてなしつつ消えてい
く舞となる。
  考えてみれば変な筋書きである。だがキーワードは感じる。 「橋を架ける」というのは鉱山作
業のために小角一団が実際建設していたことを暗示しているのかもしれない。
  「醜い容貌」とは製鉄に携わる作業者は長年のうちに熱傷、外傷を負ったり赤外線による網
膜障害をおこしていたことを暗示していると思う。岩屋というのは坑道(鉄穴)であろう。神話に
岩屋というのはよく出てくる単語である。鉱山の坑道をそんなふうに表現していたのであろう。
事故も多かったのではないか。過酷な作業風景が想像される。 「火をもてなす」とはやはり
「火」が製鉄のキーワードであるからだ。火=神である。 
 炭による還元炎で砂鉄が溶け還元されてケラとかズクといわれる鉄(まだ不純物を多く含む)
になってゆく様は我々は化学式で考えるが当時は神のなせる技と捉えていたのだろう。
   武器、農機具のみならず建物の建造にも釘やカンナ、鋸といった鉄製の工具がぐんと効率
を高める。 この鉄の工具の発達などが奈良の都の立派な木造建築や彫刻などの美術の成立
の背景になっていたに違いない。 
  だから伊豆のこの地から製鉄の跡(遺跡)でも出てくればおもしろいがどうか。  目標とする
出土物としては鉄滓(カナクソ)=不純物が多く使えない廃物、タタラの破片でもよい。スラグで
もよい。  駒形古墳近くに小坂神社がある。ここでは毎年秋に1回 ウラヤスの舞が神事とし
て行われる。
  巫女が小型の鉄剣や鈴をもって優美に舞うのである。また扇をもってしゃがんだり立ち上が
ったりする所作もある。これは砂鉄をすくう作業を暗示しているのかなと思った。(安来節のざ
るもどじょうすくいではなくもともとは砂鉄すくいではなかったか?)
  ウラヤスという語も「よい鉄」が採れたことに感謝しまたこれからも富みを神から授けてもら
えることを祈念して奉納するという意味ではないかと考える。(全くの私見です) 
  ウラ:我々の ヤ:よい ス:鉄 を表す古代の朝鮮語ではないだろうか。
  駒形:コマ+アガタ コマ=朝鮮半島 アガタ=地域、土地(県) とも私は考えている。渡来
人の開拓した地というくらいの一般語だったのではないだろうか。 ここで私説(ばかりですみま
せん)  駒形古墳は年代からも位置からも役小角の墓ではないかと私は勝手に想像するが読
者の意見は如何に?
  またその後の修善寺の開山(伝、空海の高弟 杲隣〈こうりん〉)も小角らに連なる密教系の
人々が関与していったのではないか。(時代として連続性を感じます)                  


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