2012年04月10日

砂糖黍と明治維新


 上野公園の山一帯は今、桜が満開でテレビのニュースでもそのにぎわいが映し出されている。折しも東京国立博物館では、「ボストン美術館 日本美術の至宝」という展覧会が催されている。6月まで開催なので見に行こうかと思っている。

 そのボストン美術館にある「日本美術の至宝」は、詳しいことはわからないが、たぶん幕末の混乱期に日本から売り払われた美術品ではなかろうかと思われる。
 多くは江戸城にあった美術品を、薩長新政府軍が奪って外国に売り払ったのである。政権が交代したとはいえ、財宝は徳川家の所有なのに、平然と盗んだものだ。

 上野寛永寺に立てこもった彰義隊を、薩長軍(新政府軍)の大村益次郎が攻撃するにあたり、江戸城内の徳川家の「至宝」を持ち出してカネに替え、それで銃砲弾を買ったのである。
 Wikipediaにも以下のように記述されている。
 「大村が立案した彰義隊殲滅作戦を実地するには50万両もの大金が必要だった。この調達の為に大村は米国より軍艦ストンウォールジャクソン号購入の為の資金25万両を交渉役の大隈重信から分捕り、更に江戸城内の徳川家の財宝を外国商人に売り払い、最終的には新政府の会計をつかさどる由利公正に掻き集めさせた20万両を併せて何とか50万両を揃えた。これにより作戦実地に必要な銃砲弾その他の物資を揃え開戦した。」

 しかしながらこの50万両の大金でも、戦はたった1日しかできなかった。だから1日で決着をつけるしかなかった。戦争にはとてつもなくカネがかかるものだ。
 よって大村益次郎は1日で終わらせる作戦をたて、犠牲を厭わずに彰義隊を攻めた。大村は将来を見越して薩摩軍の力を同時に殺ぐために、最も激戦のところに集中させた。

 私たちは歴史の教科書ではこういうことはほとんど聞かされない。戦争をやるには莫大なカネがかかるのに、そのカネがどこから調達されたかはほとんど語られないのは不思議である。
 個人レベルで言っても、素浪人でしかない坂本龍馬が活躍できた裏には、彼を金銭的にささえた勢力があったのに、それを抜きにして話ができあがってしまう。

 明治維新は薩摩藩と長州藩が主導して成ったわけだが、両藩はいったいどこからその莫大な資金を得たのかが、どういうものか日本の歴史学では解明されずに、なにやら「思想(尊王攘夷とか)」と「武力」だけで事が進んだなどと皆が信じる。

 『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』(大江修造著 アスキー新書)によれば薩摩藩の軍事力の謎は、薩摩藩が当時「植民地」にしていた奄美群島で砂糖黍を栽培し、それを換金し蓄財していたからである。
 江戸時代に砂糖は超貴重品であったのだから、薩摩が砂糖黍に目をつけたのは当然であったろう。
 奄美群島は本来、琉球王国の所領だったが、薩摩藩が武力侵攻して植民地にしたのである。

 薩摩は奄美で農民に米などは作らせずに、砂糖黍だけを栽培させ、中国や琉球と抜け駆けで交易させないために船も造らせなかった。ひどい苛斂誅求をやって、しゃにむに招来の徳川幕府打倒の資金を貯め込んだのだ。 
 それ以外にも、琉球や中国と密貿易をやって蓄財した。
 その経緯が『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』に詳しく書かれている。

 「大事がなされるときにカネが必要なことはいうまでもない。(中略)なぜ明治維新における財政面が語られてこなかったのか。それは明治維新を推進した薩摩藩が、史上でも稀な収奪を奄美などから行い、歴史から隠蔽したためである」
 と、この本では説いている。

 大江氏によると、沖縄の民謡は概して明るい調子だが、奄美の民謡は暗いのだそうだ。つまり奄美の民衆は薩摩の奴隷にされていたからであったというのだ。

 ついでながら、生麦事件に端を発した薩英戦争(1863年7月)では、われわれは教科書とか司馬遼太郎の小説などでは薩摩側が一方的に敗れたと書かれていたが、実際は薩摩が勝っているということも、この本で知った。
 確かにこの戦争で、薩摩は一気に攘夷を捨て、開国へなだれ込むのだが、戦争そのものは薩摩が勝利している。

 この本の主張は、砂糖黍で儲けた資金で薩摩が軍事力を駆使できたので、たいした内戦にもならずに日本は欧米の植民地にならずに済んだのだと言っている。その影に、奄美の人々の虐げられた暮らしがあったのである。

 ではもう一つの雄・長州のカネの出所は、こちらも朝鮮との密貿易で稼いだものだった。
 また、長州の軍資金は、白石正一郎という豪商(小倉屋という問屋)や鴻池が用立てしたのである。

 白石正一郎は下関で問屋や酒屋を営んだが、下関はなんといっても大阪から日本海側に船が抜ける要衝であったし、朝鮮とも近接していたから、交易で儲けたのである。
 白石は薩摩藩の御用達になっているし、土佐藩を脱藩した龍馬が一時寄宿している。

 自身も尊王攘夷思想にかぶれて、莫大な資金を長州の志士らに提供した。あまりに莫大な資金をむしりとられて、維新後は没落した。慶応元年くらいには資金がつきたと言われる。
 だから彰義隊を攻めるカネがもうなかったのだろう。

 鴻池財閥のほうは、長州の出自ではなく、現在の兵庫県伊丹市で造り酒屋をやっていて、やがて大阪に進出して両替商になって財閥にまでのぼりつめた。

 明治新政府が出来たと言っても、政府は自分でカネ儲けをしたわけではない。しかしカネがなければ国家は運営できない。ずいぶん困っただろう。税金をとろうにも、行政組織が壊れたのだから一から作り直さねばならず、そのカネもなかった。

 薩長連合軍が徳川幕府から略奪するつもりで江戸城に乗り込んだが、スッカラカンだったことは有名である。だから徳川家としては薩長と戦争する気がないのは当たり前だった。
 むろん天皇家にもカネはない。

 だから困って、借金するか、略奪に及んだのである。その借金に応えたのが主に三井財閥であった。三井財閥は維新新政府の資金要請に応え、政商の基盤を確固たるものにした。
 その三井は、ロスチャイルドの手下であった。だから、新政府はロスチャイルドの言いなりになって、富国強兵路線を突っ走ることになった。

 それだけではない。以前にブログで書いたことだが、明治以降の政府は多くの庶民を誑かして、移民や「からゆきさん」を出して、食い扶持を減らすとともにカネを創った。日本が貧しくて税金の取りようがなかったからではあるが、その海運を担ったのが新興財閥にのし上がった三菱であった。
 三菱や三井の船が日本人を海外に捨てる役目を担い、その大株主だった天皇家がこれまた莫大な蓄財を果たした。
 慶応の福沢諭吉が積極的に日本の婦女子を外国に売り払えと奨励したのだ。

 私たちがややもすると財政・経済に弱いのは、近くはこのような明治維新実行の資金が教科書や御用作家らによって隠され、触れられないできたことも原因の一つではなかろうか。
 例えば坂本龍馬を英雄視して、あたかも彼の力で革命が成ったかのように小説やドラマが描かれる。龍馬にいかに新時代への志があったとて、財政基盤があったればこそだということは忘れられてしまう。

 「断固として行えば自ずから道は開ける」などという妄想をわれわれはうっかりすると持たされる。その悲劇が大東亜戦争の補給を無視した戦いにつながっているはずだ。元をただせば薩摩も長州も、資金の出所を隠してテメエに都合の良い、きれいごとばかり「歴史」にしたからである。


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posted by 心に青雲 at 03:58| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。

徳川幕府は、関ヶ原の戦いで敵の薩摩旧領保証した背景には、水軍の存在があります。

琉球には、那覇=浮島という祖界地があり、そこには久米村→「人」にカギ「久」→帰化人が多く住む居留地に謝名親方=鄭氏という客家人がいました。

中国・福州の製糖事業を行う時、客家人の貿易ネットワークが必要です。

薩摩が琉球を侵攻した際、朱子学思想の謝名親方は抵抗し続けて処刑されました。

初めてラーメン食べた水戸黄門→ラーメン=「支那そば」や「沖縄そば」は「ソバ粉」を使用しない「小麦粉」の麺→儒学者=朱子学の「客家人」が持ち込んだ?
水戸学思想≒朱子学思想→吉田松陰(南朝派)、謝名親方(北朝派?)→抵抗し続けた‥「大義のため身を捧げる」朱子学思想→客家人=朱熹(しゅき)の教え・・

真言宗→弘法大師・空海(讃岐出身)?「うどん」もつながる?

臨済宗と真言宗は、琉球の首里12か所寺、明智光秀、吉田松陰、毛利家、島津家?伊豆の落ち武者?緑のお茶まで?「交代劇」は続いている?

最澄と空海は「仏教」のみならづ「お茶」を持ち込み「公家社会」に広まりました→鎌倉時代、臨済宗の栄西は、再び「お茶」を持ち込み「武家社会」にも広まりました→江戸時代には庶民にも「お茶」は広まっていました→明治維新の後、伊豆に流れた江戸幕府の落武者は、「お茶畑」を開墾した。

ペリーの後ろには、オーガスト・ベルモントがおり、日本もアヘンづけにする戦略がありました。オーガストは、ペリー家と結びつきボストン財閥を形成しています→ボストン茶会事件?彼らは、中国に阿片を売っていました。ベルモント商会は企業買収を繰り返し、ディロン・リードなど全米の金融機関を支配下に収めているようです。
お茶には「吸収と排出」⇔二面性があった⇔アヘンは大変‥

琉球には、保元の乱で平清盛に敗れ、伊豆大島に流刑にされた源為朝が「運」を「天」に任せて辿り着いた「運天港」がある。その遺児が中山国(後の琉球)の「舜天王」となった。という伝説があります。
伊豆に流される前、瀬戸内海の河野水軍に救出されたという伝説。
倭寇の大切にする宇佐八幡宮のシンボルマークが三つ巴で倭寇の船の旗印も、琉球の進貢船も三つ巴である。
琉球八社という古神道のうち、安里八幡宮も第一尚氏の時代にたてられています。

神戸→瀬戸内海→奄美経由の日宋貿易、時には平家⇔時には源氏の日和見勢力がありました。南北朝期には、河野水軍は懐良親王(南朝)の後援を受けています。

日宋貿易(平家)→水軍(南朝)→日明貿易(北朝)、平家のような源氏?南北朝?そして、客家人ネットワーク?

源頼朝の政所側近。大江広元の四男→長州藩主・毛利家に?源頼朝のご落胤(隠し子)→島津家?そして、伝説の源為朝?

伊藤博文も河野水軍の子孫?

清和会と経政会?血の繋がりと心の?


あくまでも伝説ですが、清和源氏で繋がっております。

東国、北海道、満州、沖縄県→「外地」は北朝の影響が強い?

集団自決→赤十字→厚生省。

沖縄戦に送られた兵→満州に送られた人々は、「北朝圏」が多い。

見えない人と政府、国が結びついたアヘン戦争?

所々、誤解を招いてしまいました。
表向き「左右の対立」⇔裏では「源平の戦い」→「南北朝の戦い」?不思議な対立構図があるのだと思いました。



Posted by ゆうがたお阿佐 at 2012年04月11日 12:45
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