アニメ・マンガ・ゲーム等を始めとした表現の自由を守る活動や、児童虐待の問題、年金の問題、花粉症の問題等、多くの政策に取り組んできた山田太郎議員が、自身のプロフィールについて語ってくれたので文字起こししました。
本当に様々な経験をしてきたことがよく分かります。文字起こしなので日本語としては少し読みにくいものの、内容はすごく面白いので、長いですがぜひ最後まで読んでいただければと思います。学生時代の山田太郎議員。経営者時代の山田太郎議員。教育者としての山田太郎議員。様々な顔があります。
文字起こしをする動画:
政見放送収録。政策の三本柱の一つはもちろん表現の自由【第222回 参議院議員山田太郎のさんちゃんねる-連続5日目】(2016/06/17放送)
https://www.youtube.com/watch?v=ArUbjpi5BOQ&feature=youtu.be&t=22m25s
以下、文字起こし。
坂井秘書
本当に様々な経験をしてきたことがよく分かります。文字起こしなので日本語としては少し読みにくいものの、内容はすごく面白いので、長いですがぜひ最後まで読んでいただければと思います。学生時代の山田太郎議員。経営者時代の山田太郎議員。教育者としての山田太郎議員。様々な顔があります。
文字起こしをする動画:
政見放送収録。政策の三本柱の一つはもちろん表現の自由【第222回 参議院議員山田太郎のさんちゃんねる-連続5日目】(2016/06/17放送)
https://www.youtube.com/watch?v=ArUbjpi5BOQ&feature=youtu.be&t=22m25s
以下、文字起こし。
坂井秘書
「今日は山田さんってどんな人っていうのがあまり知られてないんじゃないかと思って、プロフィールをちょっとやってみようかなと思って。一応、各種冊子には書いてあるんですけど、経営者になる前何やってたかとか、どういう学校で何を教えてたかとか、そこらへんをやろうかなと思ってて。どうしますか? 一応、中学高校は麻布なんです」
山田太郎議員
「麻布高校、はい」
坂井秘書
「麻布はどうでした?」
山田太郎議員
「どうでしたって(笑い)。あのー、まああの、小学校までは成績良かったんですけれども」
坂井秘書
「あれ、四谷大塚でしたっけ?」
山田議員
「まあいいんです、それは。言わないように。嫌味になりますから」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「あのー、小学校までは良かったんですが、中高入って勉強しなくなっちゃってですね。文化祭とか、それから生徒会活動、そういうのに明け暮れまして。まあ、大変だったなあと。
で、大学はですね、慶応大学の経済学部行ったんですが、あんまり行きたくなくてですね。で、僕は実を言うとですね、坂井さんにはちょっとそういう意味でイジメが入ってるのかなと最近気づいたのは、京大行きたかったんですよ、実は。京大の文学部に行きたくて、実は僕は京大の文学部を現役の時に受けてるんですね。それで、京大文学部の哲学科に行きたいと」
(注:坂井秘書は京大出身)
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「あそこに行くとですね、廃人になっちゃうって言われてるんですけど」
坂井秘書
「もう、廃人ですよ(笑い)。廃人確定ですよ(笑い)」
山田議員
「廃人になろうというふうに思ったんですけど。で、なんと、当時、共通一次(注:共通一次試験は今で言うセンター試験のようなもの)っていうのがあって。で、そこがすごく入り口が厳しくて、倍率がですね1.1倍まで下がったんですよ。普通受かるだろうと。競争率が1.1倍で足切りになっちゃったの。だから、共通一次さえ通っちゃえば、みんな通るじゃないかと思ってたんですけど、それ舐めたね。めちゃくちゃ舐めましたね。
で、スゴかったんですよ。僕ね、だから、今でもちょっと恨みがあるんだけど、ユンケルを前の日に何故かいっぱい飲んじゃって、全く寝れずに興奮をし、モウロウとしながら次の日に――。これ言い訳、全部言い訳させていただきます」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「事実としては、それだけのあれが無かったのかもしれませんが。で、次の日ですよ、大学受けに行ったらビックリしたのが、窓が壊れていて雪降ってたんですよ。2月」
坂井秘書
「それは寒いですね」
山田議員
「そうしたらさ、俺の答案用紙の上に雪が降るんだよ、ちらちらちらちら」
坂井秘書
「それはちょっと気になりますね(笑い)」
山田議員
「信じらんないよ(笑い)。どういう学校かと思ったんですけれども(笑い)。で、それでもいくらなんでも、競争率1.1倍だから落ちないと思ったら、落ちましたね。そうなんですよ。
それで、どうしようかなと思ってたんですね。で、ちょうどICUが受かっていたので。ICUってすごいんだよ、全部英語で試験やるんだけど。ICUは受かってたので、もうそっちに行こうと思って。ちょうど慶応の試験の時ICUが受かったのが分かっていて、もう小論文何書いたのか分からないくらいいい加減。
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「だけど、まあ慶応受かったんですよ。それで、ICU、国際基督教大学行っちゃうと、あれ三鷹の田舎の方にある――、スイマセン、ICUの人申し訳ないんですけど、田舎の方にあって、寮生活したら俺絶対卒業できないと思って。というのは、まずですね、授業に出ないなと。で、実際慶応も授業出なかったんですけれども。だから留年もしましたけれども。
ということで、これはアカンと思って、まあいいやと思って慶応に行ったんですね。で、それでその後、せっかく慶応ボーイだし、できない事やろうと思って」
坂井秘書
「そうですよね。慶応ボーイですよね」
山田議員
「で、馬術部行ったんですよ」
坂井秘書
「おお」
山田議員
「で、朝から馬の世話とかしてたんですけども、実は競技で小淵沢かな、に行った時に、馬から落馬して。障害競技やってる時に障害の上に落ちちゃって、右腕を外しちゃったんですよ。肘を脱臼したんですよ。
で、それで、3ヶ月ぐらい腕を吊っていてですね、それで(馬術部を)やめると。で、それ以来なんとなく大学は行かなくなっちゃって、放浪の旅に出かけるようになりまして、ちょっと極端かもしれませんけども、地球をぐるぐる回り始めると。
で、50カ国以上世界中を回りまして、紛争地域もかなり行きましたね。当時、ミンダナオ島の(聞き取れず)にも行きましたし、ソマリアも行きましたし。実は、私のプロフィールに書いた、『学生時代地球3周、世界50カ国』って、ここが一番受けてるらしいよね」
(山田太郎議員のHPでダウンロードできる山田太郎議員の政策についての冊子の一部のスクショを掲載させて頂きました。面白い内容なので、山田太郎議員に興味のある方はぜひ読んでみてください。→ https://taroyamada.jp/?p=7757)
(山田太郎議員のHPでダウンロードできる山田太郎議員の政策についての冊子の一部のスクショを掲載させて頂きました。面白い内容なので、山田太郎議員に興味のある方はぜひ読んでみてください。→ https://taroyamada.jp/?p=7757)
坂井秘書
「政策でも実績でもなんでもない(笑い)」
山田議員
「そうそう。で、私が飛行機でですね、何回か落ち損なったことがあって、昔ですね、エンジンから飛行機が火を吹いてですね、滑り台、アレで降りたことありますよね」
坂井秘書
「あのー、シューターですか?」
山田議員
「そうそう。マイアミからバハマに行く時に、バハマ連邦っていうのがありまして、そこに行く時に、エンジンから火がポッポって吹いて。これ、急に戻りますってことになって、戻って、マイアミ空港の端の方までダーと行って、止まって。
あれね、スゴいんだよ。止まると電気落ちるんだけど、飛行機の中暗いんだよね。だから窓開けとけっていうふうに。着陸の時に窓開けとくのは意味があるんですよ」
坂井秘書
「へえー」
山田議員
「それで、窓が開いてても暗いぐらいで、スゴいのは、ぶわーっと明るくなっているドアの所に一目散」
坂井秘書
「みんなが」
山田議員
「そうそう。それで、ビデオかなんかで、例えば、シューターから降りるのに手をこうやってやるじゃん。ムリムリムリムリ。そんな余裕ありません。何故かと言うと後ろからどんどん突き落とされるんですよ。
で、かつですね、僕の降りた時の経験なんだけど、アレたぶん30度ぐらいなんだけど、45度ぐらいに見えるのよ。怖いの、結構高くて」
坂井秘書
「あー、なるほど」
山田議員
「で、ジャンプしないと滑れないんだけれども、後ろから押されるじゃない。で、一瞬戸惑って、ジャンプしようかなと思ったら後ろから押されるから、何が起こるかというと、歩いちゃうんだよ、あそこを。ダダダダダって。そうすると下で転ぶんですよ、必ず」
坂井秘書
「そんなに高さあるんですか?」
山田議員
「高い高い。で、歩いちゃうんです、みんな、ダダダダダって。後ろからどんどん押されるから。だってもう、みんな命がけ」
坂井秘書
「まあ火を吹いてたらそうですよね」
山田議員
「そうそう。こっちからはさ、バーバー化学消防車かなんかでさ、白いアレをかけてたりするからさ、そう。それで下で人が転ぶと、その上にまた人が転ぶんですよ。ダマリができちゃうからみんなで退けて。そういうことがありましたね。
あと、飛行機はいっぱいネタがありまして、アリューシャン列島を飛んでる時に、エアポケットとか落ちて…、あの、飯食ってたんですけども、それが空飛んで頭から被りましたからね」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「それで何度も何度も落ちると、人間ってね、怖い時って『きゃー』って言わないんですよ。なんて言うかって言うと『ひぃー』って言うの、『ひぃー』って。『きゃー』って言うのは、怖いのが終わって落ち着いたから『きゃー』って言うの、そう。そういう経験を何度もしてますね。で、それからですね、あのー、クラゲみたいなものですけどね」
坂井秘書
「あ、酸素マスクですか?」
山田議員
「酸素マスクが落ちてきて、気圧がうんと下がって。まず気圧が下がるとすごい耳が痛くなって、あのね、意識がモウロウとしてくるんですよ、ホントに。それで、隣の人が倒れちゃったりなんかして、叩き起こして(酸素マスクを)付けたりしましたけれども。あの、そういう経験もありますし、飛行機は怖いですよ。
それからね、怖いもので言うと、ネパール。インドからネパールに行った時はバス乗ってて転落しましたから」
坂井秘書
「崖から?」
山田議員
「そう。なんかね、あんまりちょっと、時期が、軽井沢のバス事故もあったので、あの、まあ大丈夫でしたけども、私の場合はね。で、あとは、エジプトに行った時にはですね、ナイル特急乗ったら脱線ね、はい。
脱線しちゃって、で、自分の車両じゃなかったんで良かったですけども。スゴいよ衝撃が。『ドドドドド』、何が起こったんだって思う感じで。で、その後が大変で、砂漠の真ん中に置き去りになっちゃってるので、隣に、ちょっと歩くとナイルハイウェイっていうのがあって。で、そこでヒッチハイクしてカイロまで行ったりとかね。
で、その前がスゴかった。ルクソウルって所に行ったんだけど、実はアレ97年の時だったと思うんだけれども。日本の新婚旅行の人達がルクソウルのカアバ神殿で虐殺されたっていう、機関銃で。そういう事件があったんです。実はあの3日前に行った。
それで、当時、すごく不穏な空気で、一応現地では、なんかドイツの観光バスがそのまま襲撃されてやられたらしいとか言って、当時大変な時だったんですよ。あの当時ね、たぶんね、イスラエルは入れないような状態になってて、中東は緊張状態だったんだけど。まあそのころ行ってまして。で、それは別にテロでやられたわけじゃないんですが、脱線をしたと。
それからですね、ニカラグアに行ってる時にですね」
坂井秘書
「いくらでもありますね(笑い)」
山田議員
「うん、ニカラグアで内戦が始まっちゃって、実はニカラグア事件って言って。ニカラグアで内戦が始まっちゃいまして。飯食ってたんですよ。そしたら『パンパンパンパン』って音がするわけ。おお、祭りかと今日は」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「分かんないんだよ。あのね、銃声っていうのはスゴい乾いた音をして、分かんないんですよ」
坂井秘書
「聞いたことないから分かんないって言いますよね、みんなね」
山田議員
「なんかお祭りかなって思ったら、なんか不穏なんだよ空気が。それで、ヤバイと思ってこれは。飛行場に行ったら閉鎖されてるんだよね。そこで、タクシーの運ちゃんに100ドルつかませて、隣のコスタリカまで、国境までばんばん走らせて逃げたっていうこともありましたね。
それから、これは実は議員時代になってからなんですが、カンボジアに行った時にですね、泊まったホテルが延焼。燃えちゃって、私の隣の部屋まで全部落っこっちゃったからね、下まで。全焼です」
坂井秘書
「(笑い)。それ運がいいのか悪いのか分からないですね、隣の部屋までって」
山田議員
「そうですね。あとですね、何があったかな。あ、インドでですね、インドモノも多いんですけど、インドはですね、空飛んだことありますからね。正面衝突。オートリクシャーっていうですね、オートバイみたいなのの後ろに、荷台みたいな所に乗るのが、タクシーなんですけど。パトナっていう街がありまして、パトナっていうのはブッダガヤに行く分岐点の大きな街なんですけど、そこのパトナの街の真ん中にH鋼(えっちこう)がたってたんですよ。
で、そこに、オートリクシャーでバーンって突っ込んだら、そのまま荷台ごと空飛んで、シャンシャンシャンシャンって感じで、あとちょっと気を失ったんだけど、はい。で、あのー、大変なことになりました。運転手さん血みどろになっちゃいましたし。大変になっちゃいますよ。あのー、そういうこともありましたし。
あと何があったかな。インドはそうそう(山田議員が配布している冊子に)腸チフスっていうのも書いてあるんですね。一緒に行った仲間がですね、ひとり食中毒で、ひとり腸チフスですから、はい」
坂井秘書
「腸チフスは大変ですよね」
山田議員
「ゲロゲロね。それで俺担いて帰って、それで、日程を変えて、あんまりにも辛かったから、インド1ヶ月半ぐらい行ったんだけど、あんまりにも辛かったんで、カルカッタに行って、当時ですよ、学生時代だから、あの鶴の翼を見て、『ああ、日本とつながってる』と思って泣いたもんね」
(注:『鶴の翼』というのは日本航空のマークのことでしょう)
山田議員
「それで、日本航空に交渉して、『ちょっと早く帰らせてくれ』って言ったら『格安切符だからダメ』って言われて」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「そう。ずーっと毎日、飛行機見に行ったっていう」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「カルカッタの空港に。そういうのもありましたし。まだまだあるんですけど、こんな話面白いですか?」
坂井秘書
「(笑い)。一番盛り上がってます」
山田議員
「結構ね、遭いやすいっていうかですね、事故に遭いやすい。うちのスタッフとか、僕と一緒に飛行機とか乗るの嫌だって言いますもんね」
坂井秘書
「僕もちょっと嫌ですもん」
山田議員
「運が良いんだか悪いんだか、拾っちゃうんですよ結構、そう。だけど、怪我はないんですよ。で、なんとこの間、普通に歩いていて躓いて転んで、肩を3つに割って、今でもチタンが入ってますけど、ここにね。めちゃくちゃな事故の時には結構大丈夫なんですが、この間普通に歩いてて、転んで肩手術しましたんで、初めて(苦笑)。
そうなんですよ。そんなことを、が学生時代。あ、終わっちゃった学生時代が」
坂井秘書
「なんかラジオとかもやってたんですか?」
山田議員
「そうそう。ラジオのですね、TBSラジオっていうのがありまして、そこのディレクターもやってたんですけど、これなにかって言うとですね、好奇心の大統領っていう番組がありまして、月金の番組ね。その番組を作ってたんですよ。それで、金曜日、実は僕も出ていて。
だから、気づいた方いるかもしれません、結構訓練を受けてるので『あー』とか『うー』とか少ないはずなんですよ。『あー』とか『うー』とか『えー』とかってね、言うのはすごい直されたんです、プロとして」
坂井秘書
「癖ですよね。僕(が自分でしゃべるときは)絶対出てると思います、『あー』とか『うー』とか」
山田議員
「僕ももう今はダメなので、出てるんですけども。で、それですね、僕が大学卒業するころってまだバブルの後半期だったんで、学生援護会だとかリクルートみたいな所が応援でやってたんだけど、だいたい僕が番組を作るとリベラル番組になってっちゃって、就職をしない生き方みたいな特集を始めちゃったんですよ」
坂井秘書
「スポンサーが就職(関係の仕事)をするスポンサーなのに(笑い)」
山田議員
「そうしたらスポンサーがですね、結局、電通が圧力をかけてきてですね、この番組をもう終わらせると、いうことで一発で飛びましたけど。そういうの1年ぐらいやってましたよね。その時は亡くなっちゃった久和ひとみさんとかですね、あっそうそう、福島弓子がキャスターだった。イチローの奥さん。まさかイチローの奥さんになるとは思わなかったですけれども。福島弓子とかですね、神津栄子とかですね、それから植山周一郎っていうのがですね、元ソニーのイギリス会長かな? だったりとかですね。
だからスゴいんだよ。ジェフリー・アーチャー呼んだりとかですね、結構いろんな人を、大物をですね。あ、ソニーの盛田さんも呼びましたけれども、当時ね。そういう番組をですね、作ってたのがあって。だから、こういうのを企画するの好きなんだよね。というよりも、1時間番組をラジオでだよ、ずーっと毎日、月曜から金曜まで作り続ける。だからネタをいかに出すか」
坂井秘書
「今回、でも30日連続です」
(注:山田議員は現在毎日ニコ生を放送中です)
山田議員
「そうでしょう。だから僕はちゃっちゃっちゃって作ってやるでしょう? これね、慣れてないとね、たぶん無理だけど、その頃の訓練が、相当効いてるんじゃないかなと、正直思ってますけど。
ただね、ラジオとテレビの違いっていうのは、(ラジオにもテレビにも)両方出たんだけれども、ラジオっていうのは尺があって、二十数分ぐらい割と自由に話せるんですね。で、テレビっていうのはね、数秒単位で行っちゃうから、全部こう切られちゃうんだよね。
だから、僕はラジオのほうが好きなんですけれども。あ、ラジオかあるいはBSみたいなものは割と長いのね。コマーシャルが短かったりするので、尺が長いんですけれども。テレビはね、ぶちぶちブチブチ切られちゃうので、地上波はね。
だから、ラジオみたいなもののほうがいいかなと思ってるんですけれども、はい」
坂井秘書
「で、結局何年間、大学には」
山田議員
「えーと、6年ぐらい行きましたかね。それで就職活動はですね、結局ですね、6年行くと。言っちゃっていいのかな、某なんとか商事、Mなんとか商事っていう日本最大の商社がありますけれども」
坂井秘書
「昔、なんか顧問やってたとか」
山田議員
「いやいや、その会社にまず受けに行ったんですよ。そしたらですね、試験中につまみ出されまして。というのは『山田さん、大学院卒業ですか?』、『いや、学部なんですよ』と。『ちょっと2年遅れちゃったんですけど』って言ったら、『じゃあ、お引き取り下さい』って言われちゃいまして」
坂井秘書
「へえー…」
山田議員
「で、ざまあ見ろって言うと怒られちゃうんですが、お客様ですから、その後ですね、僕は会社上場させて作ったけど、その時、某M、あっ言っちゃった、商事の顧問やってましたんで。将来のですね、10年後どういう戦略を取るべきかっていうのを全部書いてたんですけれどもね、はい。仕返しですね」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「社長以下のプロジェクトで直でやってましたから。どうでもいいんですけれども、はい。で、しょうがないんで、もうどこも受からないんですよ、日本企業。バブルの一応真っ最中だったのに。そこでしょうがないんで、受かったのは外資と放送局。NHKは受かってて。NHKは面接13回ですよ」
坂井秘書
「おお」
山田議員
「で、当時、ディレクターがいて、今でも覚えてますけど、『電子立国日本』の相沢さんとかですね、『21世紀は警告する』のディレクターとかですね、みんなそういうのに最終面接で会いまして、それで全部やりとりは、ニカラグア事件とか」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「僕ね、実は、ソビエト崩壊の89年の時もロシア行ってまして、『現場どうだったのか』って言われて、面接だったのか取材だったのかっていう感じで、ずっと登ってきまして、8000人ぐらいのディレクター職募集のうち、最終的に5人取るうちの1人に入って。で、僕ね、10月1日の内定拘束はNHK行ってるんですよ。それで、その後ですね、結局行ったのはアクセンチュア、アンダーセンなんですけども、そっちにしちゃったのね。12月30日に」
【注:アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)】
山田議員
「というのは、アンダーセンから電話かかってきて、外資だからしっかり年末まで考えてくれればいいのでってことで、外資は内定拘束もなかったんで。で、行ったんですよ。そしたら、NHK、12月30日に断ったわけですよ。
烈火のごとく怒られまして、某当時の川口会長に呼ばれて、十数年来NHK蹴った人いない、ディレクター職で。それで『貴方はコンサルティング会社っていうのはいいけど、一企業なりの影響と、NHK全視聴者のどっちが大切だと思ってるんだ』って言われて。『そんなの関係ねーよ』とか思ったんですけど」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「まあいろいろお説教をされまして、なんでお説教をされるんだか分かんないんですけど、まあそういう形でですね、コンサルティング会社に行った」
坂井秘書
「これでやっと学生編が終わり」
(注:ここから専門用語や会社名等、むずかしめな単語が出てきますが、わからない部分は読み流して大丈夫です。なんかすごいことやってきたんだなー、ぐらいで)
山田議員
「終わった。長かったですよー。まあいろいろグルグルぐるぐる地球上を回ってて」
坂井秘書
「これせっかくだから誰かにまとめてもらったら面白いかも」
山田議員
「ああ、そうですか。で、その後ですね、アンダーセンに行って。まだ黎明期の頃で、まだアーサーアンダーセンっていう会社の経営コンサルティング部門が分離したような頃で」
坂井秘書
「アーサーアンデルセンの頃じゃないですか?」
山田議員
「あ、そうなんです。で、僕がね、アンダーセン、今のアクセンチュアですね。当時、アンダーセンコンサルティングって言ってましたけど。親戚からはですね、『山田さんの息子さん、よかったね』と。『六本木の交差点前のお菓子屋さんに勤めたのね』って言われて」
坂井秘書
「アマンドですよ(笑い)」
山田議員
「そう。まず『それアンデルセンだよ』って言いたいんですけど、アンデルセンでもないんだよね。アマンドなんだよね。これ二重に間違ってるじゃないか、みたいな、そう。なんですかそのコンサルティングとかなんとかっていうのは、まあそういう時代にですね、やってまして。
それで、僕、これもですね、業界で理解されないケース多いんですけれども、僕、データーベース技術者なんですよ。Oracle(オラクル)っていうデーターベースなんですよ。オラクルシックス。シックスなんていじってる人はたぶん――。
オラクルシックスっていうのをいじってて、まだデージロックの時代ですよ。セレクト文とか書いてて、分かる人しか分からないと思いますけれども。当時はトークンリングとかですね、LANで全部やってて、ワークステーションを使ってですね、1台数千万もするような。
それでCOBOLとかCとかですね、いろいろ書いていたんですけれども。だから、その時のデーターベースの経験が、実は後にネクステックというですね、(聞き取れず)とか(聞き取れず)と言っても分からないかもしれませんけど、そういうものに繋がってくるんですよね。
で、ただ、正直ですね、アクセンチュア、アンダーセン、面白くなくて、コンサルティング会社とは名ばかりで、なんかシステムばっかり作ってるんだよね。それでもういつ辞めようかないつ辞めようかなってずっと思ってたんだよね」
坂井秘書
「ちなみに給料良かったんですか?」
山田議員
「いや、なんかよく覚えてない」
坂井秘書
「NHKのほうが…」
山田議員
「いやいや、NHKね、なんでやめたかっていうと、OB訪問とかっていうの受かってからしたんだよね。先輩とかが結構行ってて、そうしたら、ボロカスに言うんだよ。給料は安いし、大変だし面白くないとか。これをゴチャゴチャごちゃごちゃ言われて、いい気になってたんだけどやる気なくなっちゃったよね。行く気なくなっちゃって、そう。
だけど、外資とかってスゴいんだよ。もう入り口から綺麗でさ、スゴいなあと思って。しかもシカゴの研修の時なんて、オヘア空港だっけ? から、シカゴのですね、アンダーセンのトレーニングセンターまで、なんとですね、リムジンで運ばれて」
坂井秘書
「へぇー。それはテンション上がりますね」
山田議員
「違うの、それは10人乗れるから安いんだよ、普通のタクシーより」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「だけど俺ら、生まれて初めてリムジンなんて、『いい会社来ちゃったなあ』と思って。でも、そこまでだよね。その後、毎日プログラミング、そう。ずーっとシステムを作っていてですね、なんでこれが経営コンサルティングなんだと。
まあ、その時の経験は良かったですよ、実は。それがあるから後に繋がるんだけども。で、それで、ただ、データーベースはこれからの時代には重要だなと思って、その後テクノインフィニタスって会社に入るんですね。
これSybase(サイベース)という、まあ知ってる人は知ってるんですけど。当時、オラクルよりもサイベースのほうが良いデーターベースで、サイベースイレブンというのがありまして、当時サイベースイレブンはレコードロックだったんですね。
で、そっちに行ってたんですけれども。だけど、サイベースケーケー、日本法人がなかったんでテクノインフィニタス社っていう会社が版権を持っていて、最初そこに入ったのね。そしたら、お前良くしゃべるから、バーンだかボーンだかっていうのを買って来たと、会社が。オランダのERPなんですけど。で、それを売れって言われてですね。
で、そっちのほうに入って、バーンジャパンが独立して、オランダの会社に何だか知らないけど入っちゃったの、自動的に」
【注:バーンジャパン株式会社(現米国インフォア社)】
山田議員
「そのあとオランダのエーデって言う本社と行ったり来たりをしながら」
坂井秘書
「なんか3ヶ月ぐらい住んでたとか」
山田議員
「まあ行ったり来たりしてたんですけれども。それで今度は、そしたらば、当時のコンペティター(商売上の競争相手)のSAP、今でも一番大きいERPですけど、それのバグ情報がいっぱい手に入るわけですよ。ナンバー2の一応ERPの会社だったんで、SAP社を辞めてきた技術者がみんなバーンに来て、儲けようとしてるから、バグ情報を持ってきてリークするわけよ。
で、営業だからさ、『こういうことやったらSAPは動かないよ』っていうふうにお客さん先で言うとさすがに動かないから、『山田さんの言うとおりだ』とか言って」
坂井秘書
「(笑い)」
山田議員
「そうしたら、SAPの当時中根さんっていう社長とかPwC(プライスウォーターハウスクーパース)の倉重さんっていうのが、『あいつ何とか黙らせろ』って話になって。それで、殺すわけにも行かないから。で、プライスウォーターハウスクーパース、当時SAPの育ての親と言われたコンサルティング会社にヘッドハンティングをされて、移ることになります。
で、そこで、ERPの立て直しというのは名ばかりで、ほとんどお釈迦に。某社にですね、Y社の24億円とかですね、D社の十数億円とかですね、十数社お釈迦というか。なんでかって言うと、立て直しに行くんだけど、マスターっていうかね、そういう問題なんですよ。
結局データーの設定が悪い。設計がもう悪いんだけど。で、エンジニアリングから建てなおさなきゃいけないということで、僕は当時のPwCの倉重社長にエンジニアリングの部署を作りたいって言ったら、『それはダメだ』と。『リスクが高いから止めとけ』って言われて」
坂井秘書
「山田さん、今の、みんな分かんないと思うんですけど、製造業で誰かが設計して誰かがモノ作るじゃないですか。で、モノ作るところのシステムを一生懸命変えようと思ったんだけど、よくよく考えたら設計するところから変えちゃわないと駄目だっていうのが分かった」
山田議員
「それで、上流は3次元CADだと思って、その後ですね、プレゼンしてったら、1999年の冬かな、にダッソーのベルナール・シャーレスってCEOと、それから当時ですね、PTCのCEOのディック・ハリソンっていうのがいまして、2人が基調講演やったときに、僕、モデレーターやったんですね。
そしたら、なんかそれが受けまして、控室でPTC社のほうから『アンタ来たら副社長にしてやるから来い』って言われて、いきなりオファー書が出てきて、その場でサインしたっていう」
坂井秘書
「PTCって一応、アメリカのナスダック上場企業で」
山田議員
「ナスダック上場企業で、機械系CADでは当時世界一の会社だったんですが、そこのアメリカの本社の副社長なんで、いわゆる外資系の日本人の最高位ですね、として行ったんですよね。それで、ボストンとの間を行ったり来たりしながら、行ってたんですけど。すごいユダヤ系企業でありまして、まあ大変なんですよ、いろいろとね。
あまりえぐい話を、ちょっとここでオープンな場でできないんですけど、これは続かないなと思ってですね、で、辞めたんですけど。そしたらですね、某オムなんとか社からですね」
坂井秘書
「日本の会社ですよね」
山田議員
「日本の体温計とかを作っている、電子部品の日本最大の会社ですけど。そこの副社長から『アンタ信じて二十数億投資したのにどうしてくれるんや』って言われてですね、京都の会社ってバレちゃってますけど、『ウチの会社に来なはれ』って言われてですね、『いやー、ちょっとそれは』『顧問でもやりなはれ』っていうので、それで顧問やろうと思ったら、なんだか『個人の通帳にお金が払えない』ということなので、そこで通帳を作るために法人でネクステックって会社を作った。
で、最初ひとり企業として始めてたんだけども、ウチの技術のトップの山口っていうのが、某オーナー企業のオーナーと喧嘩して5人引き連れて辞めてきたので、『軒先を貸してくれ』って言われて、『軒先を貸して、決して山田さんに迷惑はかけないから』と言ってジョインしたんですけど、結局やっぱり営業が取れないから。
で、しょうがないから僕が営業取ってるうちに、ドンドンどんどん会社が大きくなっちゃって、3年半で上場っていう、こういう。だから、すいません、ベンチャー企業を目指すとかって言ってる人、多い中で、元々会社作るつもりもなかったし、まさかですね、上場するなんて考えてなかったんですよ。
で、上場せざるを得なくなっちゃったっていうのが事実で。これは何かって言うとですね、経営をやっていて、コンサルティングっていうのは人件費の塊の商売なんだけど、人件費っていうのは給料っていうのは月末支払いでしょ? だけどプロジェクトっていうのは、入金がプロジェクト終了1、2ヶ月後入金でしょ? ということは、キャッシュが先に出るんですよ。分かります? 月末にキャッシュが出るけど、入金はもっと先になっちゃうんですよ。
で、しかも、すごく人を採って受注して伸ばしてくと何が起こるかって言うと、PL(損益計算書)上は黒字なんだけど、損益計算上はね。だけど、キャッシュ(現金)が足りないんですよ。バランスシート(貸借対照表)上はどんどんキャッシュが足りなくなっちゃってるから、そうするとしょうがないので、銀行からお金を借りるか、または…、ていうことで。
銀行からお金を借りたら、数億円になってきちゃったのね。これはやばいなと思って。で、約束手形って、皆さん見たことは、ちょっと持ってくれば良かったな、本物を。約束手形っていうのがありまして、これで何億円ってパンパンパンって打たれて、裏書っていうのをするんですよ。
で、そこに自分の個人の実印から何から押して、結局会社を潰されたら自分も終わりっていうですね。だいたい俺、資産も当時数億円なんて当時持ってないから、俺やべーなと思って」
坂井秘書
「ぜったい返せないお金ですよね」
山田議員
「そうそう。それで、ベンチャーキャピタルとかっていうのが、まあなんか羽振りを良くしてるとやってきて、『社長の会社はいずれ上場できますから、うちのベンチャーキャピタルで是非資本出させて下さい』と。こういう話になって、で、『分かりました』って言って、それで全部、当時の債務を解消っていうかして。
で、そしたら、ベンチャーキャピタルが入ったら当然『将来上場しないと困る』ってこう言われるわけです」
坂井秘書
「イグジット(出口)がないですからね」
山田議員
「そうだよねって話になって、真面目ですから、結構。で、3年半も経ったうちに、まあ上場したということなんですね。(ニコ生のコメントに応える形で)そうです、自慢です。だけど、こっからがね、転落人生になりまして。
まあ、いい気でいまして、どんどんどんどん中国投資だとか、システム投資だとかしてたんですよ。で、相変わらずPL(損益計算書)、経常利益は2割はあるすごい黒字の会社だったんだけども、2007年にですね、減損会計っていうのが始まるんですね。
これは何かって言うと、金融庁が非常に厳しく上場会社を調べて、海外投資だったりシステム投資をした会社が、その投資をした分だけ1年間で利益が見合ってるかどうか。これを検査し始めた。会計監査の事務所を厳しく指導したっていうのが正しいんだけど」
坂井秘書
「まあようは、例えば10億円投資を海外でしましたと。そしたら毎年1億円ずつ儲かってないと(いけなくなった)」
山田議員
「儲かってないと。だけど、システムを最初開発した当初なんて、上がらないでしょ? 急速に、本来あとで売れてくるんだから。実際にはリニアにはそういう形では、資金の回収っていうのはできないんだけど。その時は2007年、すごい厳しい減損会計になって、うちはそのタイミングに当たっちゃったんだよね。
それで、減損をしろっていうことになりまして、バランスシート(貸借対照表)上、1億か2億毀損したんですよ。で、債務超過になっちゃった」
坂井秘書
「投資したのをゼロ円にしろって言われた」
山田議員
「ゼロ円にしろって言われたの。で、あともうひとつは、救済合併も含めて、いくつかの会社を取り込んで買ってましたから。で、救済合併っていうのは、プラスもありまして、ようは向こうの株式が毀損してるものを買うと、その分ですね、繰延税金資産ということで、法人税が安くなるカラクリがあるんだよね。
で、そういう事もあるんで、いわゆる人も受け入れつつ救済合併でもって、法人税免除の仕組みも使っていたら、今度は繰延税金資産分赤字になると、一気に全部処理しなきゃいけないと。税効果会計とか、まあ難しいから置いといて。
まあいずれにしても、過度にですね、減損分が乗ってきちゃった。で、実際には債務超過は当初1、2億だったんだけれども。その1、2億を埋めるために、ニューマネー。新しい資本金を取ってこなきゃなんない。資本金が欠落しちゃうと、資本金で埋めるか、または利益でもってしか埋められないんですよ。銀行から借りるって形じゃダメなんですね。
で、そこでどうしたかっていうと、資本筋とか株主の方から、全部減損してくれと。つまりバランスシート上の投資してる分を全部ゼロに評価をしなおして、十数億から二十億ぐらい債務超過になっちゃった。
で、それで、自分の家だったりとかそういうものを全部売って、全部自分の資産も片付けて、お金を突っ込んで。で、捨てる神あれば拾う神ありで、その債務超過に陥った時には、100社以上金融機関を回りましたね。で、下はマチ金から上はゴールドマン・サックスまで。ずーっと毎日毎日金策を。
で、しかも大変なんですよ。金貸してくれって話ならまだ良いんだけど、資本金に対する充当だから金くれって言ってるのと同じなんですね」
坂井秘書
「くれって言ってるんですね。ほぼ」
山田議員
「二十数億金くれって言ってるのと同じで。で、そこはですね、昔から付き合いのあった冨山さん」
坂井秘書
「経営共創基盤」
山田議員
「経営共創基盤の冨山さんのところと、まあいくつか最終的には候補があったんだけど、そこに応援をもらうことで、一応債務超過は解消してかたが付きましたと。で、僕も自分の色んな資産とかを全部入れてと。で、だた一応そこは責任を取って辞めると。こういうことになるわけですね。
で、僕はその時に、品川の駅を歩いていてですね、電車に吸い込まれるっていう経験を。あのね、品川の駅を歩いていて、債務超過になって二十何億円を。で、しかもですね、債務超過が確定したのが、3月の末から4月の頭なんですね。で、ゴールデンウイークを挟んで、6月ぐらいに株主総会がありますから。それまでになんとかしなきゃいけないんで。
結局、実質1ヶ月半ぐらいで20億集めるってことになるわけね。で、そうするとね。これはどうするんだと。で、バックれて、結局株式会社だから、正直言えば、別に逃げちゃうことだってできたんですよ。だけど、なんとかいなきゃいけないって。まあやり方も分かんなかったしと。
で、そうするとね、何が起こるかって言うと、なんかね、楽になりたいって気持ちがあって、自分で足でね、ホームを真ん中歩いてるはずなのに、山手線の方に寄ってっちゃうの。危ないよ、ホントに危ない。
で、よく世の中では、中小企業のオヤジが電車とび込んだりだとかして、『馬鹿じゃない』のと。『死ぬ気があったらもっと他にできたはずだ』って言うけど、そんなことはないですから。もう楽になりたいんだよね。気持ちはよく分かるよね。
これもちょっと不謹慎な言い方しちゃうかもしれないけれども、危ないからってことになって、じゃあ帰りはタクシーで帰りましょうって事になったんですよ。で、それはいいんだけど、そしたらさ、タクシーの後ろで、ふと運転手さんに『あの、仕事代わってくれませんか』って言っちゃったことあって、ホント。いやー、それぐらいね、追いつめられてましたね。ホントに。
だから、僕が政治の商売をやることになったひとつの入り口のキッカケなんだけれども。その会計制度を含めて、政府からルールを突然変えられちゃう。サッカーで言うと、ゴールの位置とか大きさが変わっちゃったようなものだからね。
で、それでもって試合を続けなきゃいけないっていう中で、やっぱり経営者って大変だよねっていう。だから自由償却税制やったほうがいいんじゃないかっていうのは割とかなり命がけでやったり。あるいは海外に投資をする場合は、できれば現地からの資本を取り込んだ上で、手金で自分で全部金を入れないほうがいいよと。なぜならば、その減損会計の問題っていうのはついて回っちゃうからね。ということで、そこはそういう意味で、そういう仕事もしだすんですけれども」
坂井秘書
「でも、あれでしたよね。ホリエモンの獄中ダイエットじゃないですけど」
山田議員
「はいはい。あっ、債務超過ダイエットっていうことで。あの時はさすがに15キロぐらい1ヶ月で痩せましたね、ホントに。あのね、どういう状態になるかって言うと、何を食べても味がしないんですよ。味がしない。あとは寝れない。で、気分転換の方法もない。
だから、僕の場合は何とかなったから良かったですけれども、まあ追いつめられるとどうしようもないよね。いや、たぶん死ぬしかないと思いますよ、そう。それぐらい、結局上場企業とか言っても、やっぱり経営者が背負っている重さというか、責任っていうのは非常に重いし、まあ銀行であれなんであれ、追い込んでくるからね。
そこを僕の場合はホントに救済もあり、何とかですね。会社潰したって言うけど、一応建てなおして再生しましたんで、勘違いしてらっしゃる方多いんですけれども。最後まで逃げずにですね、何とか会社の再生っていうのをやりましたけど、それはもうホントによかった。
で、だから僕はね、会社も潰し方っていうのは、シッカリですね、経営をやる人にとっては、知っといてもらいたいなと。というのは、ほとんどの弁護士は再生やらないんですね。どちらかというと破産させちゃいます。それは何故かって言うと、破産させちゃったほうが簡単なんですよ。再生をさせるってことは、債権者全員に頭下げたり、いわゆる再生を認めさせなきゃいけない。
僕だって再生するときは、全部の銀行に行って、やっぱり銀行はある程度貸したお金泣いてもらうっていう事は現実的にあるわけだから。そういうのをやってくれる弁護士っていうのも、東京にしかいないのは事実ですね。名古屋や大阪でも足りないですよ。
で、しかも心がある弁護士がつかないとできないんですよ。というのは、報酬が別にそんなに違うわけじゃないから。だから、なんとかして社長も会社を救いたい。それと、それをサポートしてくれる弁護士とか、そういったのも一緒になって、あるいは再生チームが作ってやらないかぎり。で、結局これはもう、最後はね、金の問題じゃないんですね。
なんでこんな話になっちゃったのか分からないんですけど。経営者時代は時代はそういうことですね。
坂井秘書
「どうしましょう。その後はなんかアジアの話とか」
山田議員
「じゃあ教育時代」
坂井秘書
「教育時代に行きますか」
山田議員
「これだけ、せっかくなんで。もう一つの顔としてはですね、三割ぐらいの力で学校の先生やってまして、2001年から14年間かな。東大の工学部の非常勤講師。それから、東工大の特任教授で、東工大は社会理工学科っていうことで、大学院博士課程教えてましたけども。で、それからですね、早稲田のMBAコースですね、商学部に編入になりましたが、当時、早稲田大学大学院のアジア太平洋研究科のMBAコースの技術」
坂井秘書
「ビジネススクール」
山田議員
「そうそう。そこの准教授。当時の私は、早稲田の准教授では最年少准教授になったんですけれども、をやってましたね。まあ、博士課程は早稲田行ったんですけど、僕持ってないんですよ、修士を。修士を取りに行こうと思ったら、早稲田の教授会のほうで、山田さん修士取らせたら面倒くさいから、いきなり博士課程を取ってくれって」
坂井秘書
「学士のあとは博士になったんですか」
山田議員
「飛び級で。一応博士課程は。最近、ショーンKの問題からうるさいので、正しく言うと、最終的な博士論文を出していないので、博士号は持っていなんですけれども、一応、博士講義課程単位取得満期退学と。なんか退学っていうといやらしいんだけど、一応3年間、課程博士は通いましたんで」
坂井秘書
「単位は全部取ったけど」
山田議員
「あとは、一応博士論文を出せば博士号って所までは一応全部審査も終わってます。ということなんですけども、暇がないね。本を書く暇があったら博士論文を書いたほうが良いんじゃないかって話もあったりするんですけれども。
で、私よく学歴とか立派だし有能って言われるんですけど、そんなことないと思ってます。僕はビジネスマンですから、どっちかというと。ビジネスマンっていうのはですね、偉そうなこと言ったってですね、稼げなきゃしょうがないんですよ。
で、どれぐらいの人を雇用して、どういう新しいビジネスを作ってきたかということが、問われるんであってですね。そんな肩書なんていうのは大した話じゃないよね。
国会議員だってそうだよね。偉そうに言っていても、やっぱり国をどう変えられたかとか、法律だってどういうものをちゃんと作って通したのかとか。本来はまあそういうことが問われるというふうに思っています。
ただひとつ、僕は負けないという自負を持っているのは、教育の現場であったとしても、まあ高等教育ではありますけれども。実際、2000名の学生をホントに教えてきましたし、その連中が結構良いところで」
坂井秘書
「すごかったですね。僕びっくりしました」
山田議員
「僕の教え子ちゃん。Gunosyは僕のゼミで教えた連中が皆で作ったんですよ。それから楽天の最年少役員も僕のゼミから出しましたし、あとなんだっけな。いろんな連中が育ってくれたんで良かったんですけれども。そんなことをやってきましたけれどもね」
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【参考リンク】
表現の自由を守る党の山田太郎議員が、アニメ・漫画・ゲーム等を守るためにしてくれた事まとめ(2016年4月版) - 二次元規制問題の備忘録
http://nijigenkisei.ldblog.jp/archives/47261076.html
表現の自由を守る取り組み以外の山田太郎議員の実績
https://twitter.com/hashtag/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E%E8%AD%B0%E5%93%A1%E3%81%AE%E5%AE%9F%E7%B8%BE?src=hash
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