財団法人 極真奨学会 極真空手道連盟 極真館 城南大井町支部
最新更新日:2006年4月10日



空手で心身を鍛練すると言っても、空手の歴史を知り、更に、武道、そして空手とは何かが明確でなければ、何をどのように、どのような気持ちで鍛錬していくのか分からないことになります。

 空手道をはじめ、柔道、剣道、合気道などが武道と称されるのはなぜか。道とは何か?と問われた時に、答えることができる人は少ないと思う。

 勿論、指導者から教わったそれなりの答えを持っている人もいるだろうし、指導者としては、そこまで教えてくれる親切な指導者もいるかもしれない。しかし、本来、「道とは何か?、術とは何か?」は、武道を志す人自らが、日々の鍛錬、錬磨を通じて、自らの武道観を持ち、一生を掛けて、一歩一歩、追い求め自己を養成しながら、空手の道、武の道を歩み続けることが定めではないだろうか。

人からの教えは、自分にとっての肥やしであり、教えという肥料を己に蒔いて成長させるのは、自分自身であると思う。

 現在の空手界は、その歴史の中で、各々の武道観、すなわち、道を究めるための「守・破・離」の3つの過程を経て、数え切れないほどの流派、派閥に分かれ、各流派の創始者の精神、教えを伝えながら、独自の空手方法を指導されている。
しかし、そこには、必ず、相通ずる原点からの道のりがあるに違いない。

そして、武術の窮極の目的・奥義とは、孫子でいう「戦わずして勝つ」にあることは言うまでもありません。

 私は、一昨年の12月に日本の空手の発祥の地である沖縄を旅行しました。空手道を志す者として、そして、大学では武道を専攻し、伝統空手を学んでいる傍ら、帰宅すると極真空手を学んでいるという二極的な生活を過ごしています。

自分の気持ちの中で、両立を図る意味でも、その歴史を学び、原点を紐解くと共に、互いの良い部分を引き出し、更には、自らの武道観を持ち、空手道の道とは何かを考える上で、空手史を学んでおくことも、何かの役に立てるのではと思い、私なりに調べた事をここに紹介することにしました。

まだ、不完全ですが、新たに分かったことなどは、随時書き足してゆきたいと思っています。
尚、流れによって読み方、表現の仕方、主観を交えた言葉で多少異なっている場合もありますので、その点は、お許し下さい。

極真館 城南大井町支部 所属
    日本体育大学 武道学科
レポーター   藤井 脩祐



日本の空手の発祥の地が、沖縄ということは、既に知られている事実である。しかし、原点は、インド古代の闘技にみなもとを発し、仏教東漸(ぶっきょうとうぜん)に伴って東方各地に影響を及ぼし、各民族固有の闘技と結びつきながら、中国、沖縄へと伝来したようである。そして、沖縄は地理的に海賊など外部の敵が入りやすかったことなどで、自己防衛の為に、「手(ティー)」といわれる独自の武術があったと言われています。それに、中国伝来の「拳法」が融合し発展したものが唐手で、現在の空手の原型と言われている。昔、沖縄は琉球王国と言う独立国家だったので、「琉球拳法」と言う人もいる。

 その唐手が沖縄で大きく発達するきっかけとなったのは、当時の琉球国の王である尚真王(しょうしんおう)(1477年〜1526年)が中央集権化による「禁武政策」によって、武器の携帯を禁止されたことと薩摩藩による琉球侵攻(1609年)であると言うのが定説として今日に伝わっている。

そして、武器の携帯を禁止された琉球の民達は、武器を持たずにも戦える武術を身につけることを余儀なくされることになる。当時の唐手は、まさに武器に対して徒手空拳で身を守る術であり、いずれ戦えば生か死かのいずれかであった。勿論、刀と素手で戦えば、天地ほどの腕の差がなければ、勝ち目はない。そこで、身の回りの道具を利用してヌンチャク、トンファーなど身を守る武器術なども必然的に開発された。しかし、その技は、一子相伝の秘術として長年、表面化することがなかったと言われている。

明治時代になり、その秘術も、いわゆる「近代空手」として体系化され発達していくが、それには首里手(シュリテ又はティー)の「松村宗棍(1809年〜1899年)」、泊手(とまりて)の「松茂良興作(1829年〜1898年)」、那覇手(なはて)の「東恩納寛量(ひがおんなかんりょう1853年〜1915年)」などの中興の祖によるところが大きい。

 明治後期(1908年)、「糸州安恒(1831年〜1915年)」によってまとめられた「唐手十ヶ条」が沖縄県学務課に提出され、唐手は学校体育の現場にも取り入れられるようになり、「一子相伝の秘密主義」から近代的な社会性をもつ空手になった。
沖縄空手の3大系統
首里手
(しゅりて)
首里手は、中国の長江(楊子江)を境として、それより北方の地方で栄えた中国北派拳法の影響を強く受けていると言われており、泊手、那覇手と並ぶ、唐手の三大系統の一つである。主に琉球王府のあった首里に住む琉球士族によって行われたものである。もともと空手発祥の地・沖縄では、琉球王国時代は空手の流派というものは存在せず、主に空手が盛んな三地域の地名を冠して、首里手、泊手、那覇手と呼ばれていました。
その技は、柔軟性を重視し、遠い間合いからの直線的でスピーディーな攻撃を主体としていたと言われている。

代表的な型には、ナイファンチ、バッサイ、ピンアン、クーサンクーなどがあります。
首里手の代表的な空手家としては、佐久川寛賀、松村宗棍(まつむらそうこん)、糸洲安恒、安里安恒、本部朝勇、本部朝基兄弟、屋部憲通、花城長茂、船越義珍、喜屋武朝徳、知花朝信、摩文仁賢和、遠山寛賢などがいる。
首里手の流れを汲む空手の流派としては、松濤館流、和道流、糸東流、本部流、小林流、松林流、少林寺流などがある。
那覇手
(なはて)
 「那覇手」は、沖縄の東恩納寛量が中国の福建省におもむいて達磨大師に発祥する中国南派拳法を、拳の伝来に大きな影響を与えた中国の拳家謝崇詳(1852年生、別称を如如哥(ルールーコーと言う))から学び、帰国後、如如哥から学んだ技術が那覇手の始まりと言われているが、別説では、当時、琉球の代表的な貿易港として栄えていた那覇に中国からの帰化人が集まってつられた久米村と言う集落があった。その中国人の子孫が、彼らの故郷である福州(福建省)で中国拳法(南派拳法)を習得し久米村に伝えられたものが、彼らの住居のあった那覇の地名を付け那覇手としたらしいが、あくまで個人的な見解ですが、多分、その帰化した中国人の子孫が、東恩納寛量その人であり、中国の福建省におもむいて確立させたのではないだろうか。 その指導方法は、あくまで個人指導にこだわりいたようだ。その後の本格的指導は明治34、35年頃の人格者として有名な許田重発、更に、剛柔流の創始となった宮城長順の入門から始まったようである。この、那覇手から上地流や劉衛流、そして剛柔流が出た。

主な特徴は、近距離からのパワフルな攻撃を得意としていた言われている。
泊手
(とまりて)
泊手は、謎に包まれた流派と言われており、琉球の泊村が発祥の地とされる。、当時、泊港には琉球王府による宿舎があり、その中に、中国山東省からの漂着者の武人がいて、術を伝授されたと言われているが確証はないようである。そのような背景から、泊手のみの伝承者は少なく、事実、本土空手が広まった時に純粋な泊手が広まることはなかったが、その武術を基に「武士松茂良」と呼ばれた松茂良興作(まつもら こうさく),(1829年〜1898年)が開祖と言われている。
その特徴は、緩急自在な動きで力と速さを兼ね備えた武術だったようだ。

代表的な型には、ナイハンチ初段、ナイハンチ二段、ナイハンチ三段、ワンスー(大)、ワンスー(小)
ワンカン、チントウ、クーサンクー、ローハイ、パッサイ、リンカンなどがある。
 空手には、もともと流派というものは存在しなかったが、空手が本土に伝わってから後、日本武道に習って名乗るようになったと言われている。前文で書いた首里手、那覇手、泊手などという呼称なども1925年頃に沖縄で定まったものらしい。

そして各流派名の呼称が一般に知られたのが1940年5月に京都の武徳殿で開催された旧大日本武徳会主催の紀元2600年奉祝・第44回武徳祭に伴い各流派を登録したと言われている。実際には各派とも半年前までには決定していたようです。

このときの演武参加者の大半は学生でした。その後、本土に伝わった空手は、その歴史の中で、多数の流派、会派、派閥に分かれ、それぞれ独特の形態ができあがった。近代空手を大別すると、伝統空手とフルコンタクト系空手がある。ご存じのように、我々の極真館は後者の、フルコンタクト空手である。詳細については、下記に説明する。

伝統空手は、空手の伝統的な技術体系を伝承しており、剛柔流、糸東流、松濤館流、和道流の四つの流派を伝統の四大流派と呼んでいる。その流れを元に、多くの流派、会派に分かれていった。
伝統派の各流派の特色は、現在では特に試合のための練習がさかんになった大学の運動部では大した差がないようです。しかし、初期には下記のような特色をがあったようです。
創始:宮城 長順(みやぎ ちょうじゅん)

宮城長順は、師の東恩納寛量より中国福建省で中国拳法を修行するように命じられ、明治36年、当時16歳の若さで単身中国へ渡りました。中国において、宮城長順は、中国拳法の多くの達人達より血のにじむような荒稽古を受けるとともに、古い書籍などにより理論的にも研究され、帰国されてから中国拳法と手とを比較検討して、剛柔流をあみ出しました。剛柔流の名称は、中国古文献の武備誌から抜粋されたもので、「拳法大要八句」のなかの「法剛柔呑吐」に一句で、「法剛柔呑吐」するという意味から剛柔流を名のられました。極真を創始した大山倍達総裁は、1938年9月に松濤館流の船越義珍創始の元に入門、その後、剛柔流を主に学び、そのことから、極真の型の多くは、剛柔流の型を受け継いでいる。

おもな型:「三戦(サンチン)」「砕破(サイファー)」「征遠鎮/制引戦(セイエンチン)」「四向戦(シソーチン)」「三十六手(サンセーリュウ)」「十八手(セイパイ)」「久留頓破(クルルンファー)」「十三手(セイサン)」「壱百零八手(スーパーリンペー)」「撃砕T」「撃砕U」「転掌」などがあります。
創始:摩文仁 賢和(まぶに けんわ)

明治22年(1889),摩文仁 賢宝の次男として、首里当蔵村に生まれる。
幼少のころは相当虚弱だったようで、13歳の頃より糸洲安恒のもとで、首里手の修行を始めました。19歳の頃、東恩納寛量のもとで、那覇手の修行を始め琉球古武術である、棒術、サイ、トンファ、鎌、ヌンチャクなどを、新垣師範に学び1915年、糸洲安恒、東恩納寛量より、空手免許皆伝を允許され1929年、大阪に移り、多数の大学および警察学校にて、指導を行うようになり、1934年3月、大阪に「養秀館」道場を設立し、師である糸洲安恒、東恩納寛量の頭文字を一字ずつとって、糸東流を興した。その後、多数の大学および警察学校にて指導を行う。
昭和27年没、行年63。余談ですが、私が現在、大学で習っている流派です。

おもな型:「松風」「心波」「腕秀」「公相君小」などがあるが、摩文仁賢和創始は首里手を糸州安恒翁から那覇手を東恩納寛量翁から学び、両方をとりいれました。このため伝統派の型を多く伝承している。
創始:冨名腰 義珍(ふなこし ぎちん)

冨名腰義珍は流派名を正式には名乗らなかったと言われていますが、後に、道場名だった松濤館が義珍の弟子達によって松濤館流となりました。松濤館の建設は昭和14年頃に、富名腰創始が用いていた雅号(書号)からとって建てられた。義珍はそれ以前にも別の場所で「日本唐手研究会」と名乗り空手を教えていました。冨名腰義珍が空手の修行を始めたのは、小学校入学の頃であったと伝えられています。父の親友、首里手の安里安恒に就いて稽古したといいます。義珍は医学の道を志したが叶えられず、教員になったといわれ、教員になってから数年後、那覇手の湖城大偵に師事したと伝えられていますが、数ヶ月で修行を諦めたといわれています。大正8年頃、師範学校の生徒らに課外授業として空手を教えたといわれています。大正10年、沖縄にて昭和天皇の前で空手を披露しました。大正11年、文部省主催体育展覧会にて空手を披露。このときから本土に引っ越してきました。同じく大正11年、嘉納治五郎の要請を受け、講道館で空手を指導します。大正14年、慶応義塾大学に本土で始めての空手部を作りこれを機に早稲田・法政・東大等に空手部が誕生します。義珍は大正10年に「唐手」の文字を「空手」に変えたと言われています。また型に漢字を当てはめたのも義珍と言われています。また、我々の師である大山倍達総裁が最初に空手を学んだ人物でもある。
創始:大塚 博紀(おおつか ひろのり)

幼少時代虚弱体質のため6歳から叔父 旧土浦藩武術指南役 江橋長次郎に柔術を稽古させられていました。明治38年「神道揚心流柔術」の門を叩きました。 明治43年4月18歳の博紀は、上京。 その後頭角を表した博紀は、大正9年6月1日同流派の第三世中山辰三郎行義から免許皆伝を允許され同流第四世を嗣承した。大正11年、当時「沖縄唐手」が復旧し始めており、博紀は、以来唐手の研究に没頭し創意工夫の据え、沖縄唐手と古流柔術の良いところをあわせた神州和道流空手術を興し創始となりました。
最初は船越義珍の門に学び、その後は本部朝基に就いて組手とナイファンチを学び、また宮城長順とも親交を結んだという。また、和道流は四大流派で唯一の本土出身者の流派であり、柔術と空手を融合し、剣術もとりいれた「和風」の空手と言われている。

おもな型:「平安弐段」 「平安五段」 「公相君」 「ナイハンチ」 「セイシャン」 「チントウ」などが、あります。

伝統派空手のルールが確立したのは、1957年の学生大会からでした。当時、審判1名、副審2名が見守るなかで2人の選手が相対するやり方で、現在のルールが確立していきました。

伝統空手の試合で用いられるルールは「寸止めルール」と言われ、その名のとおり攻撃部位に対し、相手に当たる寸前で技を寸止めして技を決め、勝敗を争うもので、四大流派系の大会で主に用いられ、伝統空手の統合組織、全日本空手連盟(全空連)の正式採用ルールである。国体などでも用いられているだけに、社会体育的な認知度という意味ではもっとも定着しているルールといえるだろう。
 どっちかと言えば、格闘技というよりもスポーツとして、ダメージの概念を取り去ることにより、老若男女が無理せずに、ゲーム感覚から始められることから、現在では武道というよりもスポーツ性が強い。 また、各流派によって多少の差異はあるが、特に防具についての違いが目立つ。同じ寸止めルールでも、拳サポーターやメンホーなどの使用を義務付けるところもあれば、素面・素手で行なうところもあるため、同じルールであるにもかかわらず、見た目の印象は防具ありと防具無しとでかなり変わってくる。
 このルールの特徴は、ダメージ性ではなく、当てたもの勝ち(実際には触らないが)なので、踏み込みと技のスピードの速さ、引き手の速さを非常に要求される。しかし、空手の基本的な技を試合に使用しなければならず、雑な技ではポイントを取ることはできないため、基本技術の正確さも求められる。ただ手足が素早いだけでは勝ち抜くことはできない。 また、寸止めだからこそ実現できるのが、肘や手刀、投げから決め、などである。これらの技は、他のルールでは判定基準の難しさ、危険度の高さゆえに禁じられているが、寸止めルールにおいては、初めから当てないルールであるがゆえに使用することが可能となった。 また、伝統故に、使用できない技も多数あり、下段蹴り、胴回し回転蹴りなどといった技は試合では使えない。総じて「伝統空手」とは、伝統派の名が示すように空手の伝統的な技術体系の伝承、保存を大事にするルールであるといえる。
フルコンタクト空手(直接打撃)は、その名が示すとおり、相手に実際の手技、足技を当てる空手のこと。 
明治以来、空手の近代化が進む中で、それまで守られてきた伝統空手の寸止めルールに一代旋風を巻き起こしたのが、直接打撃制ルールの登場である。

もともと剛柔会の流れを受けていた極真空手が、近代化されてスポーツ化されてしまい、勝敗自体が明確ではない寸止め空手は、武道にあらず「空手ダンスだ!」っと近代空手団体の試合のあり方に、疑問を抱き、独自理論を唱え、顔面への手技を禁止した以外は、一切の防具を付けずに素手、素足で攻撃ができる直接打撃ルールで試合を実行したのが、極真創始の大山倍達であった。

今でこそ、このルールが他の多くの流派にも普及しているが、当時としてはかなり過激なルールで、まさに、伝統空手界にとっては青天の霹靂と言うべき大事件であった。

そして、極真の前進であった大山道場時代には、まだ試合というものもなく、普段の稽古自体が、まさに実践さながらに行われていたようである。当時の稽古は、基本的に顔面攻撃を黙認した稽古形体で、歯が折れるような怪我は日常茶飯事で、中には、前歯が骨の付け根付近で折れ、歯茎が飛び出してしまったこともあった程、実践そのものの過激な稽古が行われていたようだ。

怪我人の多さから、近所の一般人からは気違い道場と言われることもあったようだ。しかし、そのように実践性を追求しながら、武道性を失わない試合ができないかと模索していた大山は、1969年9月20日、ついに伝統空手界、そして武道界を震撼させる極真、第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会を代々木の東京都体育館で開催した。

この試合はオープントーナメントと名を打つことで、伝統空手は勿論のこと、プロレス、柔道、ムエタイなど全ての受け入れを許可した形で行われた。まさに空手そして格闘技ブームの幕開けである。しかし、もともと一つであった空手自体がそうであったように、極真創設から40年近く経った現在、多くの弟子達が増えることで、各々の考えをもとに、自流を立ち上げ分散化してゆく悲しい現実がある。

現在、フルコンタクト空手と言われる空手だけでも把握しきれない程の流派が存在するようになった。ただ、事実、創始の大山倍達は、近年のフルコンタクト空手及び格闘技ブームの元祖であり、今、人気の格闘技界全てに於いて、それぞれに形は変われど、大山倍達のエッセンスは、弟子達によって脈々と受け継がれていることは間違えのない事実であり、大山倍達なくしては、今の格闘技ブームはなかったと言えるほど、格闘技界を代表する存在であり、その功績は偉大である。
創始:大山倍達(おおやま ますたつ)

東京市に生まれ、幼少期は満州と朝鮮半島で育ち、ソウルの小学校にいる頃に、十八手の中国拳法を学び中学2年の時に初段を取得。16歳で日本海軍の航空兵として山梨県の航空学校に入隊、特別攻撃隊員として終戦を迎えました。拓殖大学司政科卒業、早稲田大学体育科入学。空手は、1938年9月に松濤館の船越義珍に入門し修行、その後松濤館流と剛柔流を主に学び、終戦後は千葉の清澄山、秩父の三峯山などで山籠りをして修行する。1947年に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝。1952年、日本の武道を海外に紹介するために柔道の遠藤幸吉四段と、渡米、約1年ほど滞在して全米各地で空手のデモンストレーションなどを行う。その間には、プロレスラー、プロボクサーなどと試合をし全勝するしたことで、空手の強さを身をもって証明した。更に公開演武では、ビール瓶の首から上の部分を手刀で切り落とした時、周囲は驚嘆し「God Hand」と形容された。帰国後、47頭もの猛牛を倒し、映画『猛牛と戦う空手』として一般公開された。その後も、世界各国を渡り歩き、空手を広めると共に、世界の格闘技を研究し、直接打撃制空手(フルコンタクト空手)を作り出し、国際空手道連盟極真会館を興し創始となった。
極真空手は、直接打撃制にしたことで伝統空手のように先人の残した形にとらわれずに常に実践性を考えなければならなかった。そのため、異種格闘技の技で使える、ムエタイの背足での回し蹴り、中国の意拳など隔たり無く取り入れて進化してきた。


言わずと知れた、我々、極真空手の創始者である大山倍達総裁が、あくまで武道としての空手にこだわり、空手の歴史の中にそれまでとは全く異なる流れを作ったのが、この直接打撃のルールである。 今でこそ馴染み深いルールですが、当初は、伝統派からは、邪道視されながらも、その信念を貫き、素面・素手・素足で行なわれた当初の試合は、手技による顔面攻撃、金的蹴りを禁じた以外の攻撃を全て認め、瞬間的な掴み、投げも許されたルール形式で行われた。

初公開された当時は究極の格闘技であった。 なんと言っても、このルールの魅力は、手技による顔面攻撃を認めなかったがゆえに、多彩で華麗な蹴り技が発達したことである。それまでの寸止めルールの場合は、突きによるポイントの奪い合いが主だった試合の中で、相手に対し実際に技を当てるため、勝敗もはっきりして、派手な組手が展開されることとなった。 そして、直接打撃によるルールのため、時として派手なKOを生むこともあり、爆発的な人気を呼ぶことになる。

それまでは、一般的に空手と言うと悪役的イメージが強かったが大山倍達の登場で、そのイメージが拭い去られ、爆発的な空手ブーム、そして格闘ブームを巻き起こした。 開始当初は邪道視されていたルールだが、現在では極真を中心に多くの流派がこのルールで大会を行い、空手の一ジャンルとして定着している。

流派によっては、掴みや投げ技を認めたり、顔面攻撃を寸止めで認めたりするところもあり、様々なバリエーションのルールが生まれている。 また、フルコンタクト空手の裾野が広かったことに伴って武道性を重んじながらも、スポーツルールとしての熟成度も高まっているため、全国大会レベルになると、プロスポーツ選手並みにハードなトレーニングなどの専門的な稽古に励める環境にない選手は、上を目指すことができない厳しさがあることも確かだ。

しかし、その一方、近年の空手ブームで、少年、女子、壮年部などの大会も全国レベルで多く開催されるようになり、過激なだけのイメージだけが強調されていたフルコンタクトルールにも、時代の流れと共にが訪れていて老若男女にも対応できるルールも確立されてきている。



極真館 城南大井町支部 所属
日体大武道学科
レポーター藤井 脩祐
財団法人 極真奨学会 極真空手道連盟 極真館 城南大井町支部