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 沖縄戦を振り返る朝日新聞・谷津憲郎論説委員の連続ツイートまとめ、5月23~31日分です。71年前、現地や本土で何があったのか、様々な資料からたどります。慰霊の日(6月23日)まで全10回です。

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■1945年5月23日@東京

 特攻作戦にもかかわらず「依然として沖縄をとりまく敵艦船の群がある。これは何を物語るか」と朝日新聞は書く。「わが特攻総攻撃と敵の補給能力との間に残念ながら量の懸隔(けんかく)があったことを示す」。同じ紙面には、航空機製造のためにアルミ貨の引き換えを呼びかける広告が。

■5月24日@首里

 第32軍が南部に撤退すると聞きつけた沖縄新報の豊平良顕編集局長らは脱出を決めた。戦況をつたえようと、壕(ごう)内で活字印刷を続けていた。「再会のとき、また新聞をつくろう」。印刷機は壕の奥へしまわれ、活字は土中に埋められた。

■5月25日@南風原

 陸軍病院が南部に撤退する。全身負傷で動けない山本義中少尉は覚悟を決め、世話をしてくれた金城芳子さんに礼を述べ、別れを告げた。だが金城さんは「私がおぶっていきます」と応じない。自分の身を守るだけでやっとの修羅場。「その気持ちだけで十分」と山本氏は泣いた。

■5月26日@首里

 激しい梅雨に視界を妨げられながら、米軍の偵察機が、首里南方の街道にひしめく何かを見つけた。撤退命令にともなって首里を捨て、島尻へと彷徨(ほうこう)する人や車両の群れ。発見から13分後。巡洋艦ニューオーリンズの艦砲射撃を皮切りに、野砲や迫撃砲が集中砲火を浴びせた。

■5月27日@摩文仁

 人の波が南へ向かう。「そこの女ども、この壕から出ろ」と少尉の胸章をつけた男がどなった。若い女性が立ちあがる。「ここは私たち沖縄のものです。地方民を壕から追い出すなんて。そんな帝国軍人がいますかっ」。拍手を送りたい気分だったと池宮城秀意さんは書く。