真田丸で、徳川家康が関東(江戸)へ移封された事により、後に豊臣の滅亡につながる事になります。そこで、邪魔者を遠くへ追いやって滅亡していった英雄達を紹介して、豊臣秀吉の失敗を紹介したいと思います。
真田丸!豊臣秀吉は項羽と同じ失敗
中国の歴史に詳しくない方は「項羽」って誰?・・・と思うかもしれません。日本で有名な中国の時代と言えば「三国志」ですが、その三国志の「蜀」の劉備玄徳の先祖が「劉邦」であり、劉邦のライバルが「項羽」だったのです。
項羽にとっては、目障りだった劉邦を都から離れた「蜀」に追いやった訳ですが、この事が項羽の命取りになったと言われています。遠く離れた蜀で力をつけた劉邦が後に項羽を討伐して漢王朝を誕生させる事になったのです。
真田丸!豊臣秀吉は平清盛と同じ失敗
平清盛は、平治の乱で源義朝に勝利した後で「源頼朝」を遠く離れた伊豆へ流しました。後に成長した源頼朝は、鎌倉を本拠地にして関東を制圧した後に平氏を滅ぼす事になります。平清盛も、項羽と同じ失敗をしていたのです。邪魔者を遠くへ追いやる事で、脅威が無くなるどころか、邪魔者が何をしているのか?力をつけているのか情報が伝わりづらくなるので、何の解決策にもならないのです。項羽や平清盛も邪魔者が反旗をひるがえさないように監視役をつけていたようですが、邪魔者を抑えることはできなかったので結果的に意味のないものに終わりました。
真田丸!豊臣家を滅ぼした原動力
豊臣秀吉が小田原の北条を滅ぼした後に、徳川家康を都から近い位置にあった「三河・遠江・駿河・甲斐・信濃」の5カ国から「関東」に追いやった事で、どのような結果になったか?徳川家康は移封したばかりという事で、朝鮮への出兵を断る口実も出来て、関東平野で新田開発に励み、城作りよりも町作りに力を入れていきました。その結果、移封前の150万石に比べて、250万石という天下を狙える存在になったのです。1万石で雇える武士は300人近くと言われているので、実質7万5000人もの軍事力をつける事が出来ました。
世に有名な「旗本八万騎」の誕生になる訳ですが、ここまで力をつけた徳川家康が、豊臣秀吉亡き後に天下統一出来たのは自然の流れと言えたかもしれません。
もちろん朝鮮への出兵によって石田三成と加藤清正達の間で亀裂が入ったり、豊臣秀吉が豊臣秀次の一族を滅ぼすなど、色々な理由があったのは事実です。しかし、関東への移封は、豊臣秀吉にとって大きな失敗だったのは、紛れも無い事実と言えるでしょう。