恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

話の合わせ方

2016年06月20日 | 日記
 仏教徒というからには、少なくとも、ゴータマ・ブッダが「悟っ」て「涅槃」に入ったという話を、それが現実に起ったことだと認めなければなりません。これが最低条件です。

 ここで最も困るのは、何が「悟り」で何が「涅槃」なのか、あるいは「悟った」まさにそのとき何が起きたのか、「涅槃」とはいったいどういう状態なのか(そもそもそれは「経験」の対象と言えるのか)、皆目わからないことです。どの経典にも、ブッダ自身がこれらを直接テーマとして解説した部分は見当たりません。

 しかし、そうは言っても、何しろ仏教の核心ですから、とりわけ後に仏教の「プロ」化した弟子たち(民衆からお布施もらって生活している者たち)にとっては、ただ「わかりません」では済みません。

 すると、ブッダが残したとされる言説(様々な経典)から、「悟り」「涅槃」を自分たちなりに推定して語ることになります。これらの推定はしばしば「ブッダの真意だ」と勝手に強弁されますが、要するにすべて推定ですから、その是非を「客観的に」決定する基準はどこにもありません。

 しかし、一度それなりの「悟り」「涅槃」が言説として設定されると、今度はそこに到達する方法が考案されます。目的が「わからない」のに手段だけが正当化されることはあり得ませんから、方法も結局、とりあえず設定された「悟り」「涅槃」に適合するように制作された、とりあえずのものにすぎません。

 かくして、目的たる「悟り」「涅槃」が設定され、そこに至る方法の用意もでき、ある程度の規模の支持者も集まって来るとなると、次には、人々はそれぞれの考えや体験を出来合いの目的と方法に当て嵌めて考えるようになります。この態度が昂進すれば、当て嵌まらない考えや経験を無視することになるでしょう。

 となれば、「悟りたい」人や「涅槃に入りたい」人は、「プロ」が提示する目的と手段に合致するように、無理にでも自分の考えと経験を操作するようになるはずです(いわゆる「修行」)。

 このような経過は、何も仏教の場合に限らず、およそ「真理」なるものを目指すあらゆる営為に共通でしょう(「真理」それ自体も人間には認識できないから、事情は仏教と同じ)。

 だったら、「真理」だの「悟り」だの「涅槃」だのを大っぴらに掲げて世間に打って出るような者は、まず自分の言葉で明確に「真理」「悟り」「涅槃」を定義して、あくまでそれが「自分なりの解釈による」ものだと宣言した上で、それらに到達するために有効だと自分が考える方法を提示するべきです。あとは、話を聞いた人々がどの程度納得し支持するかだけの問題になります。

 すなわち、語る者はすべて手の内を明らかにして語るべきなのであって、思わせぶりな「言葉で言い表せない真理」などという無用の長物は、一切持ち出すべきではありません。
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14 コメント

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Unknown (蓮)
2016-06-20 00:40:10
和尚さんのところへまた、「真理」「悟り」「涅槃」を語る者が、現れたようですね。


わからないことを、どう定義するのか?とも思うのですが。。。

自分の解釈としても、断定的には決して語れないはずです。
Unknown (Unknown)
2016-06-20 00:53:16
>目的が「わからない」のに、手段だけが正当化されることはあり得ませんから


手段も、本来わからないことなのに、声高に語られている、ということなんですね。

なにが有効なのか?もわからないまま、自分で見つけていくしかないのでしょうね。
Unknown (Unknown)
2016-06-20 01:45:41
まず分かれ道は、釈迦が悟りを開いたという意味が、
①.「神」になったと理解するのか、
②.あくまで「人間」としての範囲内で起きた「悟り」なのか、敢えて言えば脳内の思考の変化(醸成)だったと理解するのか、

という事から自分の態度を決めなければならないと感じます。
①ならば梵我一如系思考、
②ならば自力行系思考、

それぞれ言い分はある訳ですが、
私的には釈迦は②の世界で生きたのだと考えています。

ちなみに①で「仏」という言葉をつかうと「仏」は神であるのか人であるのか定義が混乱するのではないかと思ったからです。
Unknown (Unknown)
2016-06-20 05:16:57
「言葉で言い表せない真理」もしょうがないかなと思うけど。
だって言葉ってそういうものでしょ。

でも、私も昨日そういう(だったら…、すなわち…、の前まで)ぐるぐる巡りを感じていたわ。
Unknown (Unknown)
2016-06-20 05:32:18
わたしわぁ、しんりとかぁ、むずかしいことはわからないけどぉ、でもしあわせになりたいのよねぇ、でもどうしたらいいのってはなしじゃなあぃ?やっぱりじんせいってぇ、苦、なんだよねぇ。
Unknown (Unknown)
2016-06-20 05:48:04
このおふだを毎日朝晩拝むと幸せになります
(きっぱり)
Unknown (Unknown)
2016-06-20 06:26:20
あら、何だか奇妙な絵文字を使えるんですね
Unknown (Unknown)
2016-06-20 06:36:26
この命題にはやはりぐるぐる回りがあるよね。
釈迦が真理を会得した(=悟った=ハタ!!と膝を打った)と思って、結局それを世に伝授しようと決心した時点(初転法輪)で、
釈迦は他者に言葉で伝える(自分の発見した真理は~~だ=これが悟りの内容だと明らかにする)義務を背負ってしまった。

しかし釈迦がそれを明確に表現していない???という事は、
つまるところ明確化された「三相」観、「(12支)縁起」法則と「四諦」が悟りの内容で、真にそれを理解した人が涅槃に這入った人と見なされる、と言ったという解釈しか引き出せない。

で釈迦の意味する三相はアートマンを否定して当時のインドの宗教常識を打ち破る事だったから、
現代的アナ~トマン(anaーatoman)世界観から言えば、三相・縁起・四諦はコモンセンスとして容易に理解できるから、じゃあ俺たちは既に悟って涅槃した人間か???ってなってしまう、
何か時代のズレが生じている(と思う)
Unknown (Unknown)
2016-06-20 06:44:43
イワシの頭でも一心入魂できれば幸せになれるよね。要はすべては脳の幻覚!!!
Unknown (Unknown)
2016-06-20 07:16:09
確かにそうですね!
コアな道元マニアの「悟ってるって言ってる奴は、悟ってないよね~。」っていう雰囲気、大好きです!
Unknown (Unknown)
2016-06-20 10:20:50
空気を読むとか読まないとかいう次元ではない、ということだよね。
Unknown (Unknown)
2016-06-20 11:05:50
人生って苦だけれど、勇気をもって生き切らねばって師匠が言ってるんだよね。

だからアドラー曰くの「勇気を持てるのは自分が他の人(社会、あるいは何かの対象物、例えば草花・動物の世話でも、家手入れでも)の役にたっているという共感(実感)を感じる時だけだ」という話につながり、

自分が生かされている事に対する(日々の生活の中で)感謝の気持ちがあるかどうかが、自分の人生を意味あるものとするかどうかを決定するという因果関係があるとかだよね。

「人は自分の為に幸福を求めても幸福にはなりません」とかの法則があるようだからね。自分の為の幸福はすぐ満足度が失せて無感覚になって空しくなるからね、これは釈迦も若い時実体験したよね。

だから左様に意識を変える事は頭の水平飛行の問題なのかもね。自分の考え方次第なんだろうね。幸福は人が与えて呉れるものではない、という事なんだろうね。
釈迦も左様に頭の水平飛行を成し遂げたんだろうね・・・。
(追加)意識革命 (Unknown)
2016-06-20 12:22:46
最近NHK番組でキラーストレスの話をしていましたね。ストレスは幸せ感を壊す(死にさえ至らしめる)から、どう対処すべきかという事です。
其の為にアメリカではマインドフルネスが急激に注目されて来ており、毎日10分をベースに8週間続けると、ストレス信号を発信する扁桃体が小さくなって、心の問題、体の問題が40%軽減したと報告されているようですね。
マインドフルネスはようするに只管打座
の事な訳です。只管打座は幸福感を妨げるストレス撲滅に役立つと脳科学でも証明された訳です。

(注)この番組では他にもストレスのコーピングテクニックも紹介していましたね。これはストレスを感じた時、どういう所作・気晴らしとなる空想等をすればストレスが軽減するか数限りなく列挙しておいて、効果を認知しておくと、前頭葉に記憶されて、ストレスが起きた時に扁桃体の過剰反応(アクセル動作)を前頭葉が抑え込んでくれる(=ブレーキ作用)というものです。ストレスに強い人間に自分を変えられるとかですね。打たれ強い自分に成れるそうです。
Unknown (Unknown)
2016-06-20 13:31:49
>「言葉で表せない真理」は無用の長物・・・

いままで此のサイトは「言葉では(真の)真理は表せない」とかの支持派だと思っていたので今回の南さんの言葉は意外でした。

なぜなら、言葉は無明で不具で真理を語り得ないというポーズをこのサイトのコメでズッと見て来たからです(例、「禅」は言葉では表せない、体験しなければ分からない。「無我」は体験しなければ分からない、言葉では語れない。「諸行無常」は体得しなければ分からない、言葉では語れない等々)

そこであらためて『真理』をウィキペディアで引いてみたら「言語による表現である事が真理には不可欠である」とありました。

南師匠のいう通りでした。目からウロコでした。すっきりしました。

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