国際陸上競技連盟がドーピング問題でロシア陸上選手団のリオデジャネイロ五輪参加を認めない決定を下した。世界はスポーツ、そして五輪の原点を問い直す時期に来ている。
組織的ドーピングによる不正疑惑が発覚したロシア陸連には、予想通りの厳しい決定が下された。しかし、これによって世界のスポーツ界にまん延するドーピングが根絶されるかといえば、ノーといわざるをえない。
ドーピングは、そもそもがイタチごっこだ。禁止薬物が指定されれば、それをすり抜ける薬物が新たに開発される。
旧ソ連時代からメダル至上主義を貫いてきたロシアの背景にあるのは国の威信だけではない。今やスポーツビジネスは世界規模で拡大し、トップクラスの選手とその周囲にはスポーツメーカーとの契約などで莫大(ばくだい)な金銭が流れ込む。巨額マネーの魅力に取りつかれ、リスクを冒してでもドーピングに走る者は今後も世界で後を絶たないだろう。
そのツケはクリーンな選手にも及ぶ。年々厳しさを増す検査に、選手の間からは「五輪には実力もさることながら、ドーピング検査という高いハードルをクリアした選手が出場する」という声も聞かれる。常用するサプリメント、風邪薬などの成分が知らぬ間に禁止薬物に指定されていないか−。抜き打ち検査に戦々恐々の日々を送っている。
問題を少しでも改善する手段はあるのか。日本はスポーツの入り口が教育の一環の体育であるため違反件数が少ないとされる。しかし体育は精神性を重視するあまり戦時教育に利用された歴史があり、時にスポーツを絵画や音楽と同等の文化ではなく修業の場としてしまう。その功罪を検証することなく、スポーツ=プレー(遊ぶ)とする多くの国を相手にリーダーシップをとるのは難しい。
結局はスポーツの原点である「プロセス(過程)」に立ち返ることが最も大切ではないか。目標に向かって技術を上げ、精神力を強め、頂点を目指す。その道は頂上に近づくほど険しく、つらいが、まだ見たことがない山頂からの景色をひたすら夢見て進む。
その過程でドーピングに手を染めたら同じ景色は見られるのだろうか。本当の達成感は得られるのだろうか。ロシアの陸上にもクリーンな選手はいる。選手自身が考えることがスタート地点だ。
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