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kobeniの日記

仕事・育児・伏し目がちなメガネ男子などについて考えています

父の病院に通っていた日々のこと

随想 介護・看護

二年ほど前、父が重い病を患い、長期入院したことがあった。幸いなことにその後回復し、今は元気に、呑気に暮らしている。その頃、父のため病院へ通いながら私が感じていたのは、そこで出会った医療・介護従事者の方々の誠実さや熱心さ、それに対する驚きと、感謝の気持ちだった。


父は最初にいわゆる救命救急センターに運ばれた。そこで手術が必要になったのだが、執刀医の先生に、あらゆるリスクを説明され、要するに救えないかもしれないということを何度も言われた。私は「はい」「はい」「はい」と言ってサインをした。しかし手術は無事に成功した。あれだけ脅した先生も翌日にはあっけらかんと「もう心配ないですよー」と言った。
後日、別の病院で医師にこの話をしたら、「訴訟リスクのためでしょう」と言っていた。「救命」と名がついているので、患者の家族や親族らは「救ってもらえるだろう」と思っている。けれど、どんなに力を尽くしても命を救えないことがある。その時に、「どうして言ってくれなかったんだ」となるのを防ぐために、書類に署名を求めるそうだ。
私は既に母を亡くしていて、かつ一人っ子なので、父が入院したら私が「キーパーソン」となる。病院でも何度も「キーパーソン(のあなた)」と呼ばれた。そういう専門用語があるのだ。時には手術だけでなく細かい処置にも、同意書へのサインが必要だった。父の代わりに、何度もサインをした。


救命救急センターでとりあえず命びろいした後、父が最初に入院した病院(A病院とする)は、都心にあった。まだまだ予断を許さぬ状況なので、入院治療が必要だったのだ。
A病院は様々な設備が整っている先端的な病院だった。その病院での父の主治医は、青いスクラブが似合う若い先生だった。まだ20代だと言っていたが、仕事柄、表情を顔に出さない練習をしているのだろう。いつも話し方が淡々としていて、それが私としてはどんな時も心乱されず、良かったように思う。
その青スクラブ先生が、一度だけちょっと複雑な表情をしたことがあった。同じ病院には、基本的に三カ月しか入院できないというルールがあるらしい。父はA病院での治療で少し回復の傾向が見えたので、私としてはまだ入院を続けてほしかった。先生に「どうして転院しなきゃいけないのでしょう…」と聞いた時、先生は一瞬複雑な表情をした後、いま父は体力の回復をはかった方がいい状態なので、それに適した別の病院でいったん養生した方がいいと思う、と言った。

入院三カ月という決まりに抗議をしたいわけではない。滅多に表情を変えない先生が、少し複雑な顔をしたことが印象に残っているのだ。先生の本当の気持ちは分からないけど、できるなら続けて入院させてあげたい、自分が担当していたいという気持ちがあったのかな…? と思った。
すべての患者やその家族にいちいち感情移入していたら、やっていけない仕事だろうと思う。迷ったり考える時間などないことも多そうだ。だからこそ、その一瞬の表情の変化が印象に残った。
ちなみに次の病院で父は実際に体力を回復し、あらたな治療に取りかかれるようになったので、先生の見立ては正しかったのだが。

父の転院が近づいた頃、青スクラブ先生は、「退院の日に立ち会えないから」とわざわざ電話をくれ、「いずれ外来でお会いしたいですね」と言った。その頃の父は、自分で歩けもしない状態だったので、そこまで回復することを願っている、という意味だ。


先生が病院ではいてた靴、ニューバランスだったな、ということをときどき思い出す。

 

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次の病院(B病院とする)は私の自宅からまあまあ近くにあり、もうちょっとこじんまりとしていた。そこでは医師が二人、ソーシャルワーカーが一人、ST(作業療法士)が一人、チームのようになって父に対応してくれた。
私は、親族が遠方にいることもあり、「キーパーソン」として、ほぼ一人でB病院へお見舞いに通っていた。A病院からB病院へはもちろん引き継ぎ資料が来ているが、起きたことの細かいニュアンス、父や親族の既往歴まで具体的に話せるのは、私だ。先生たちと面談を続け細かい質問に答えるうち、なんだかチーム的一体感が出てきた。(ちなみに父本人は、この頃の病気の状態から、まだチームの外にいた)

私は「皆さんが前向きに治療にあたってくれるに越したことはない」と思ったし、自分も父の回復を目指すチームメンバーだと思った。しかし、ど素人の私ができることといったら応援ぐらいしかない。だから、いつも、面談で「本当にありがとうございます」「私は親戚も側に居なくて、困ったら相談できる皆さんがいることが本当に助かります」「信頼しているのでお任せします」みたいなことを口にしていた。当時、下の子がまだ赤ん坊だったこともあり、心身ともにかなり参っていたので、お世辞でなく本当に感謝していた。

私は仕事でも、できることなら、チームが気持ちよく楽しく働けるよう、その雰囲気づくりをしたいと思っている。面談では、それと同じような感じで振舞っただけなのだが、なんだか先生も他の皆さんも、いつも、ちょっと驚いたような嬉しいような、照れるような…という顔をしていた。
あれ、もしかして先生たちって、日頃あんまり「ありがとうございます」とか言われてない…?

「いやー、こんなに感謝されることってあんまりないですから」お寿司キャラが電車のように並ぶTシャツ、の上に白衣を着た先生1が言う。えっ、そうなの…?! まあ、病気や治療にもいろいろあるだろうけど、私と父からすると献身的かつ魔法的な治療を、保険のおかげでかなり安く受けられて、私自身のこともワーカーさんが心配してくれて、本当に助かるのだけど。
どこの病院にも必ず入り口に「患者さまからの金品などは受け取れません」と書いてある。だから、口で言うとか手紙でお礼ぐらいしかできない。

B病院では「あんまり人手が足りてない」ということで、看護が行き届かないかも、と言われていた。でも、さらにその次のC病院から、父が歩けるようになってB病院に戻ったとき、「歩いてる!」と、看護師さんら皆さんが拍手で迎えてくれたりした。気持ちは十分行き届いている。

ある時、お寿司先生がB病院で講演をするというので、聞きに行った。先生は自己紹介で、自分が小さい頃におばあちゃん子だったから、いまこういう仕事をしているのかも、と言っていた(B病院は高齢患者の割合が多い)。趣味は薔薇を育てることと言っていて、講演のあとで私は、「薔薇って、育てるの難しいんじゃないですか?」「そうでもないですよ」とか、そういう立ち話をした。
言われてみれば、見るからに「おばあちゃん子」感のある先生だった。

いつも、着てるTシャツがちょっと変だったの、あれは、おじいちゃんおばあちゃんのツッコミ待ちなんだろうか。





B病院で体力を回復させた父は、A病院で良い兆しのあった治療と、マニアックな検査が両方できるという理由で、C病院に転院した。そこの検査担当の医師は、なんだか偉そうな人だった。まあこういう人もいるわな、と思っていたのだが、その先生の見立てをB病院に運んだ時には、「私は飛脚か…」と思ったりした。なぜ郵送じゃなかったのか忘れてしまったが。
先生達のやり取りする封筒には「○×先生御机下」とか書かれていて面白い。机の下に引き継ぎ資料を入れるのか。それは引き出しのことなのか。
C病院は、カルテが電子化されていて病院の中にスタバが入っているような、大きくて真新しい病院だった。でも検査担当の先生は、私をチームの一員とは思ってないように感じた(飛脚と思っていたかは分からない)。

人も病院も、見た目では判断できない。

病院の見た目、と書いたが、患者が自分自身で病院を探せない場合、ソーシャルワーカーさんと相談するのは当然キーパーソンになる。ワーカーさんは幾つか候補を挙げてくれるのだが、その中から病院を決めるのはけっこう荷が重い。もちろん選ぶ余地がない場合もあるし、基本的には「標準治療」を受けるのだから、病院によって大きな差はないはずだ。でも、見学に行くとやっぱりなんとなく、病院ごとの違いを感じるのだった。

あの、病院ごとの「感じの違い」は、何処から来るのか。

C病院の主治医は、AやB病院の先生達からの引き継ぎ資料を見て「全くもって正しいですね」と言った。命をつないでくれる机下の資料なのだった。
父はC病院でマニアックな検査をし、以前にA病院で効果のあった治療を含めて色々やって、結果…元気になった。私も驚くぐらいに回復した。

いろんな病院へ足を運ぶ、私のお見舞いの日々も終わった。



さいきん、近所の本屋で、B病院のソーシャルワーカーさんに声をかけられた。お会いするのは久々だったので、すっかり元気になった父の近況などを話した。そういう時も、立ち読みしている私にわざわざ声をかけるワーカーさんなのである。しかも仕事帰りで、疲れているだろう時に。面倒くさくないんだろうか。


本当に、お医者さんや、病院で働く人たちに恵まれた父と私であった。彼らの机下連携プレーで「救命」してもらった、としか言いようがない。ベタな感想であるが、日本の医療と保険制度は凄いと思った。

ところで、最初の救急センターのある病院へ、入院費を支払うため、ちょっと高額のお金を持っていったことがあった(高額医療費の制度で、ほとんど戻ってきた)。
お金を渡したら、事務の方が私の目の前で、それをもの凄く美しく数えた。お札が孔雀の羽根みたいにサッと広がって、軽やかに数え上げられ、パッと閉じた。私は心の中で「ほぉ…」と感心した。

あまりに突然で、救命救急センターの頃がいちばん辛かったのだが、そういう日々の中にもこんなことがあって、覚えているのだった。そのときも私の心はちゃんと動いていたらしい。事務の方はいつも通り仕事していたんだろうと思う。

 

 

 

 

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