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私が尊敬する女性ミツコさん、先生も一度紹介されたクーデンホーフカレルギー伯の母。
お存知の方も多いと思いますが・・もし、知らない若い方達にぜひしっていただきたいミツコさんの生涯です。
長いので、興味ある方だけどうぞお読みください。
出所:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3045.html
・・以下、抜粋転載・・・
「ミツコ」の日本名は「青山ミツ」です。
そして東京青山の青山通りや、青山霊園なども、実は「ミツコ」がその命名に関わっています。
そこで「ミツコ」がどういう女性であったのか、歴史を振り返ってみたいと思います。
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明治25(1892)年、オーストリアハンガリー帝国から、外交官ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵が日本に赴任してきました。
その伯爵が、冬の寒いある日に、乗っていた馬ともども凍った道で滑って転倒し、大怪我をしてしまいます。
このとき伯爵の勤務する大使館に雇われていたミツコが、伯爵を献身的に看病したことから、二人は恋に陥ります。
二人は結婚を望みますが、当時の日本は、外国人との結婚は、彼らにあてがわれた「現地妻」という認識が強かった時代です。
というか、そういうケースの方が現実問題として多かったのです。
「どうしても」と結婚を望むミツコは、親から勘当されてしまいます。
当時の日本人女性にとって、親子の縁を切られるというのは、ありえないほど辛いことです。
ハインリヒ伯爵は、なんとかご両親に納得いただこうと、かなりの犠牲を払ったといわれ、
そのため後年、光子は日本に帰国しなかったといわれています。
それほどまでに、二人は大熱愛だったわけです。
反対したミツコの父は、青山喜八(きはち)といいます。
喜八はこの頃、骨董道楽が昂じて大借金を重ね、本家から勘当された身の上でした。
ところが、娘のミツコにハインリヒ伯爵が結婚を申し込み、そのために結納金として、かなり法外なお金を喜八に渡したのです。
おかげで、喜八は一夜にして大金持ちになりました。
そして自分が生きている間に、都内の霊園に、バカでかい自分のお墓を作りました。
このお墓があまりに大きかったことから話題を誘い、その霊園に向かう道が、青山さんのお墓のある霊園に向かう道として「青山通り」、
ついにはその霊園の名前までいつしか「青山墓地」と呼ばれるようになりました。
翌、明治26(1893)年、ミツコはハインリヒ伯爵と正式に結婚しています。
ちなみにこれが実は、日本政府に届け出された正式な国際結婚の第一号です。
この時代、日清戦争が翌1894年ですから、まだまだ日本は極東の貧乏な小国とみなされていた時代です。
そしてミツコは、そんな日本の、しかも平民の出身です。
一方、ハインリッヒ伯爵は、当時のヨーロッパにあって、伝統あるオーストリアハンガリー帝国の貴族です。
まるでシンデレラか、ポカホンタスのようなことが現実になったわけです。
この結婚に際しハインリッヒ伯爵は、東京・横浜に居留する全ヨーロッパ人に次のような宣言を伝えたそうです。
「もし、わが妻に対して、ヨーロッパ女性に対すると同等の取り扱い以外を示す者には、何人を問わず、 ピストルによる決闘を挑む。」
実に立派な男です。
ベルギー公使のダヌタン男爵は、次のように日記に記しています。
「決闘は一回も行われなかった。 だれも彼も
この新しいオーストリアの外交官夫人の 優美と作法に魅了された。
外交団全体が 彼女に対して尊敬の念を示した。」
明治29(1896)年、ハインリッヒ伯爵は足かけ5年に及ぶ日本滞在を終えて、帰国することになりました。
なんとこのとき、お正月の宮中参賀に、お二人は招かれています。
このときミツコは、皇后陛下から次のようなお言葉を賜ったそうです。
「遠い異国に住もうとなれば、
いろいろ楽しいこともあろうが
また、随分と悲しいことつらいこともあろう。 しかしどんな場合にも
日本人の誇りを忘れないように。宮廷衣装は、裳を踏んで転んだりすることがあるから気をつけたがよろしい」
なんとミツコをやさしく気遣い、思いやりにあふれたお言葉なのでしょうか。
そしてこのお言葉は、ミツコのヨーロッパでの生活に勇気を与えます。
ハインリッヒ伯爵の家はボヘミアとハンガリーにまたがる広大な領地をもつ伯爵家でした。
二人は、現在はチェコに属するボヘミア地方の広大な領地の丘にそびえる古城ロンスペルグに落ち着きました。
夫ハインリッヒは、父が他界したことから、外交官生活から退き、一族の長となって、
大地主の貴族として領地の管理に専念することなったのです。
ところが、夫の一族のひとたちは、東洋の未開国から連れられてきたアジア人女性に冷たい目を向けました。
光子の着こなしや立ち居振る舞いという末梢的なことを、チクリチクリとあてこすったのだそうです。
いまふうにいうならイジメです。 いつの時代も、どこの国でも、人の社会は同じです。
そして二人は、その後、三男ゲオルフほか4人、合わせて7人の子宝に恵まれました。
夫、ハインリヒは、子供たちが完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ、
光子に日本語を話すことを禁じました。
子供達への教育については、もちろん光子も納得したことです。
けれど多忙な夫以外に、心を打ち明けられる人がいない光子は、この頃、強烈なホームシックにかかります。
いまのように飛行機でひとっ飛びという時代ではありません。
夫のハインリヒも日本への里帰りを計画してくれたのですが、当時は船旅です。
アフリカ大陸の南端の希望峰をまわり、インド洋を延々と航海して、日本まで渡るわけです。
それは、まる半年がかりの旅です。 そんなに長い間、幼い子供たちを放置することはできません。
夫婦仲は良かったけれど、問題もありました。
充分な教育を受けた夫と、骨董屋の娘で尋常小学校を出ただけの妻では、まるで教育レベルが違ったのです。
ある日のことです。
子供が教科書を開いて自習していたとき、
「お母様、これは何でしたっけ」聞いたのだそうです。 ところが光子には答えられない。
「これではいけない」と光子は思ったそうです。
ヨーロッパ人の母なら当然心得ている事を自分が知らないでは済まされない。
そこで光子は、自分も家庭教師について、子供より先に勉強して、子供から何を聞かれても答えられるようにしておくことにしたそうです。
次男のリヒャルトは、自伝でこう回想しています。
「母は一家の主婦としてよりも、 むしろ女学生の生活を送っていて、
算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、 フランス語、歴史、および地理を学んでいた。
その外に、母はヨーロッパ風に座し、 食事をとり、洋服を着て、
ヨーロッパ風に立ち居振る舞いすることを学ばなければならなかった。」
それは、寝る時間を削ってまでして行う勉強でした。
立派な母親となるために勉強に打ち込むミツコの姿は、子どもたちの心に深い影響を与えています。
子は親の背中を見て育つといいますが、こういう光子の態度は、本当に立派だと思います。
日露戦争における日本の勝利によって、あらためて立場が強化された光子ですが、
残念なことに、翌明治39年5月に、夫ハインリヒが心臓発作で急死してしまいます。
わずか14年の夫婦生活でした。
異国に一人残された光子は、今まで二人で築いてきた世界が足もとから崩れ去っていくような気がしたそうです。
けれど、光子に、悲しみに浸っているひまは与えられません。
夫は遺書で、長子ヨハンをロンスペルグ城の継承者とする他は、いっさいの財産を光子に贈り、
子どもたちの後見も光子に託されるべし、と書き残していたのです。
広大な領土と厖大な財産です。 その一切の管理を、
「未開国から来た一女性に任せるなどとんでもない」、
「日本人に先祖伝来の財産を奪われてなるものか」とミツコは親戚一同から糾弾されてしまうのです。
しかしこのとき、ミツコは断固として言いきったそうです。
「これからは自分でいたします。 どうぞよろしくご指導願います」
日本女性がこのような任につくには不適当だと、ミツコは裁判まで起こされています。
しかしミツコは、弁護士を雇い、時間はかかったが、とうとう訴えを退けました。
問題は他にもありました。
遺産を相続したということは、その経営も受け継いだということです。
ミツコは、法律や簿記、農業経営などを、必死で勉強することで、領地財産の管理を自ら立派にこなしました。
馬鹿では勤まらないのです。
さらに亡夫の精神に沿って、立派なヨーロッパ貴族として子どもたちを育てようと、育児にも打ち込みました。
このとき、長男ハンスは13歳、次男リヒャルトは12歳でした。
表面はけなげな伯爵未亡人として、領地の管理や育児に忙しい毎日を送っていたミツコも、望郷の念はやむことがありません。
それでも、「日本に帰ることは子どもたちが成年に達するまであきらめよう」と心に誓いました。
光子は、ときおり日本の着物を着て、ひとりで何時間も鏡の前に座ることがあったそうです。
それは、望郷の念に駆られて、ひとり涙を流していたときだったのかもしれません。
次男のリヒャルトは、後年、
「そんなときの母が、最も美しく見えた」と回顧録に書いています。
リヒャルトが部屋にはいってきたとき、きっと光子は息子に澄んだやさしい笑顔を向けたのでしょう。
悲しみを知るものは、やさしさを身につけることができるのです。
光子は、涙を我が子に見せなかったそうです。
光子は、正座して毛筆で巻紙に両親宛の手紙を書くことが唯一の楽しみで、毎週一通は出していたそうです。
年老ひて髪は真白くなりつれど
今なほ思ふなつかしのふるさと
これは、光子の老年になってからの和歌です。「私が死んだ時は、日の丸の国旗で包んでもらいたい」
それが、光子の遺言でした。
大正3(1914)年、第一次世界大戦が始まりました。
このとき、オーストリアハンガリー帝国と日本は敵国になりました。
両国間で実際の干戈を交えることこそなかったものの、開戦当時はヒステリックな反日感情が沸き上がりました。
ウィーンにいた日本人の外交官や留学生などは、みな国外退去しました。
光子は、広大なオーストリアハンガリー帝国にただ一人残る日本人となりました。
日露戦争の時は、オーストリア・ハンガリー帝国はロシアに威圧されていたので、
日本の連戦連勝に国中がわき上がっていたものです。
ですから仲間の貴族や領民たちは、次々と光子のもとにお祝いにかけつけてくれました。
けれど今度は敵国です。 人々は警戒の目を向ける。
そんな中で光子は、長男と三男を戦線に送り、自らは3人の娘を連れて、赤十字に奉仕しました。
黒い瞳の光子やその娘たちの甲斐甲斐しい看護に、人々は好感を抱きました。
さらにこのとき、光子は領地の農民を指揮して、森林を切り開き、畑にして大量の馬鈴薯を実らせています。
収穫した馬鈴薯を、借り切った貨車に詰め込み、男装して自ら監督しつつ、国境の戦線にまで運ばせました。
前線でロシア軍に苦戦していたオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士達は食糧難に悩まされていたのです。
ですから、そんな光子の姿に兵士達は、「生き身の女神さまのご来臨だ」と、塹壕の中で銃を置いて、光子を拝みました。
光子の馬鈴薯作りは終戦まで続き、周囲の飢えた民を救うのにも役だっています。
大正7(1918)年に戦争が終わったとき、次男のリヒャルトが13歳も年上の女優イダ・ローランと結婚すると言い出しました。
光子は反対しました。
するとリヒャルトは家を飛び出してしまいました。
飛び出したリヒャルトは、「汎ヨーロッパ主義」という本を著し、一躍ヨーロッパ論壇の寵児となりました。
長男ハンスも平民のユダヤ人女性リリと結婚し、ピクシーという女児をもうけて家を去りました。
子供たちが次々と去っていく光子に、追い打ちをかけたのは、第一次世界大戦におけるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊でした。
この敗戦によって、クーデンホーフ=カレルギー家も、過半の財産を失ってしまいました。
光子は、大正14(1925)年に、脳溢血で倒れました。
なんとか一命はとりとめたものの、右半身不随となりました。
以後の光子は、ウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガに介護してもらいながら、静養の日々をすごしています。
この頃の光子の唯一の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、
日本から送られてくる新聞や本を読むことだったそうです。
昭和16(1941)年8月、第二次世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子はオルガに見守られながら67歳の生涯を閉じました。
渡欧して45年、結局、光子は一度も祖国の土を踏むことはありませんでした。
次男のリヒャルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵は、その著作で「欧州統合」を主張し、先ほども書いた“EU”の概念を打ち立てた人物です。
リヒャルトのこの大胆な提案と思想は、敵対と対立、対立と闘争という概念に支配された当時の欧州において、
実に東洋的な「和の精神」がもたらしたものです。
そして、リヒャルトの母が日本人であるという事実に、さまざまな新聞が当時、光子に新しい名称を贈りました。
その一例を示すと、
「欧州連合案の母」
「欧州合衆国案の母」
「パン・ヨーロッパの母」等々です。
リヒャルトの生涯をかけたた理想と運動は、その後もヨーロッパの政治思想に大きな影響を与え、
第2次大戦後のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、
そして現在のヨーロッパ連合(EU)に至っています。
リヒャルトは母・光子についてこう述べています。
「彼女の生涯を決定した要素は
3つの理想、すなわち、
名誉
義務
美しさ
であった。 ミツコは自分に課された運命を、
最初から終わりまで、誇りをもって、
品位を保ちつつ、かつ優しい心で甘受していたのである。」
狼に育てられた子供は、狼のままで人に戻ることはなかったといいます。
人は、人として躾けられて、はじめて人になります。
知識偏重で、人とのしての躾のない人は、もはやどこかの国と同じ、人ではなく「人の皮をかぶったケモノ」です。
ケモノではなく人であることを、社会全体で目指していたのが、戦前までの日本社会です。
私たち日本人は、いま、国全体で、人ではなく、ケモノつくりに励んでいるように思います。
・・・転載終わり・・・
アフリカの大地に一人立つ創価の同窓生、ご主人を亡くし、一人で子育て、大学教授として
戦う婦人部の方がいますが・・女性は剛し。
いつの間にか、獣たちに乗っ取られてしまった、
我が学会組織・・学会再建には女性会長、また女性副会長を待望。
少なくとも、SGI理事長は女性を・・
広布一筋・・
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