わたしがこの記事に反応したのは、つい先日、祖母の最期についていくつか記事を書いたからで、なんとなくわたしのことを言っているような気がしたからだ。また、これまでに不遇な老人と接する機会が多くあったこともあり、その度にいろいろと思うところがあった。それを「日常」という言葉を使って論ずる氏の見解になにひとつ合点できるところがなかったからだ。
たまにネットなんかを見ていると高齢者の話題がでていることがあり、そういうのに「高齢者は死んでほしい」というようなコメントを寄せる人がいるが、そういう人はおそらく若いのだろうが自分と年寄りが地続きであるという視点が欠けている。
記事の冒頭はこうだが、まず言っておきたいのは、わたしは「高齢者には死んでほしい」というようなことは思っていない。ただ、身内または近しい人物が、高齢からくる、または手の施しようのない病に伏せたとき、当人とその介護、後始末にあたる人物は、どのようなモチベーションを持って事にあたるのか、それを維持していくのか、という点で、死を受け入れることも、ひとつの仕方なのではないかと思う。そしてその葛藤は、その逡巡は、日常だ。
日常とは今現在のことである。
氏の記事は、こう締めくくっている。誰に対しての主張なのかはわからないが、わざわざ改行をして文末に持ってきているので、この記事で一番言いたかったことなのだろうと思う。「そうですね」としか言えないような表現で、何が言いたいのかがいまいちつかめない。今、この瞬間を指して「それがあなたの日常です」と言われても首をかしげてしまう。一見してトートロジーのようだが、これはトートロジーですらない。言葉のニュアンス、意味合いの次元が低くなっているからだ。例えば朝に起きて、食事をして、身支度をして、学校に行く、仕事に行く、そこで同じ人と会い、同じような会話を交わし、同じようなことをする。日常とは、このような生活における繰り返し性をもった行動であり、事柄である。その瞬間瞬間を切り取って見たとき、それは「現在」と言うことができるだろう。しかし現在は日常ではない。
氏の記事に出てくる老婆の話で例えよう。
手押し車を押しながら、よろよろと前屈みになりながらのろのろ歩く老婆を見て、
「どうしてこんな醜態をさらしてまで生きるのだろう」
と疑問に持つ人もいるようだが、やはりそういう発想の人は子供っぽいというか、世界の人々はぜんぶ自分の複製と思っているのではないか。複製ではないのである。それに、なにも高齢者だけが老いているわけではない。
このよろよろ歩く老婆を見た瞬間は、観測者にとっても老婆にとっても、まぎれもなく現在だ。しかし日常は違う。この老婆の日常とは、慢性的な腰痛であり、腰が曲がっているために満足に台所に立てないことであり、トイレに行く動作にすらいちいち痛みを覚えることであり、手押車の車輪にガタがきているが直すに直せない悩みであり、病院に通ったり、買い物をしたりするのも苦痛な毎日のことなのである。そして、観測者は、腰の曲がった老婆を見て、そのような痛ましく煩わしい日常に思いを馳せたからこそ「どうしてこんな醜態をさらしてまで生きるのだろう」と思ったのだろう。本当にこんな風に意地悪な疑問を持った人がいるのか、ということのほうが疑問だが、それは言葉や考え方の品の問題であって、慈悲深い人と比べても、老婆を見てその日常を想像しているという点において、その想像の方向性において、近しい存在である。もちろん両者が他人を自分の複製と思っていないことは明らかで、むしろそれがわかっているからこその疑問なのだ。
もうひとつ、一般的に使用される「日常」という言葉は、最大公約数的な共感性を帯びている。「あるある」的なニュアンスを含んでいる。例えば、学校に行って、会社に行って、やることや起こることを「日常」と言うことに、誰も違和感を抱かないだろう。例えば、覚せい剤で逮捕された清原和博は、その体液から一般的な使用者の7倍もの麻薬成分が検出されたそうだが、これは日常的に服用していたと考えていいだろう。これを一般的な「日常」の定義に当てはめて考えてもよいだろうか。少なくとも、わたしにとってはそんなものは「日常」でもなんでもない。たとえ清原和博にとっての「日常」であったとしてもだ。
つまりわたしは、日常とは現在ではない、ということが言いたい。そして「どうしてこんな醜態をさらしてまで生きるのだろう」という疑問が子供っぽいかどうかは別として、そのような見解は、その日常を思う心がなければ思い浮かぶことすらない、ということが言いたい。寝たきりになった人を「それも日常である」などとは、わたしには思えないし、思いたくない。なぜなら他人事ではないからだ。わたしもいずれそうなるだろうし、そうなったときの「日常」がどのようなものかを想像したら、そんなに淡白ではいられない。
人間は器用でもなければ賢くもない。慈愛に満ちているわけでもない。知りたいと思わなければ、疑問は出てこない。疑問は歩み寄る姿勢の現れだ。たとえ、その疑問に品がなかったとしても、なにも疑問を持たないよりはましだ。