「デウス・エクス・マキナ(Deus ex machina)」。紛糾した局面に舞い降りる絶対的力をもった「機械仕掛けの神」。それはしばしば悲劇に登場するという……。
目次
『エクス・マキナ』感想とイラスト かくあれかしなる幻想スポンサーリンク
簡単な作品データ
『エクス・マキナ』Ex Machina
2015年/イギリス/108分/R15+
監督・脚本:アレックス・ガーランド
撮影:ロブ・ハーディ
音楽:ジェフ・バーロウ/ベン・ソーリズブリー
出演:ドーナル・グリーソン/アリシア・ヴィキャンデル/オスカー・アイザック/ソノヤ・ミズノ
予告編動画
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適当な解説
コミュニケーションの限界か、技術的特異点か、はたまたジェンダー論かと、ない脳ミソを悩ませるSFスリラーです。第88回アカデミー賞の視覚効果賞受賞作。監督は『28日後…』の脚本家として知られるアレックス・ガーランドで、これが記念すべき監督デビュー作。主演は『レヴェナント:蘇えりし者』のドーナル・グリーソンと、『コードネーム U.N.C.L.E.』のアリシア・ヴィキャンデル。
共演に『X-MEN:アポカリプス』のオスカー・アイザックと、日系イギリス人のバレリーナ、モデルとして活躍していたソノヤ・ミズノ。この『エクス・マキナ』が女優デビュー作となります。
あらすじ
世界最大の検索エンジンを運営するブルーブック社でプログラマーとして働くケイレブ(ドーナル・グリーソン)。社内抽選の結果、社長であるネイサン(オスカー・アイザック)の自宅に1週間滞在できる権利を獲得する。意気揚々と人里離れたネイサンの自宅へとやって来たケイレブ。そこは「家」というよりかは何かの研究施設のようで、いぶかしがるケイレブに、実はここで人工知能の開発にいそしんでいることを告白するネイサン。
ケイレブがここへと呼ばれた理由は、人工知能の知性と感情を判断するためにチューリング・テストを行うことにあった。そしてケイレブのもとに、“エヴァ”と名づけられた女性型ロボット(アリシア・ヴィキャンデル)が姿を現すのだったが……。
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勝手な感想と評価/ネタバレ多少
オスカー受賞作だというのに上映館数がやたらと少ない本作。地味SFだから?R15+指定だから?登場人物が突然踊り出すから?冷遇の理由はよくわかりませんが、おかげで極度の出不精だというのに遠出を余儀なくされてしまった。見知らぬおじさまの体臭に鼻ではなく目をやられながら四角い箱に揺られ、虫の息でたどり着いたテアトル梅田。入口の張り紙には「満席」の文字。ほらね。タイトルの意味はよくわからなくてもみんな観たいのよこの映画。ほらね。ほらね。
『エクス・マキナ』の意味とは?
ところで『エクス・マキナ』とはなんぞや?どうやら現実世界にブルーブックは存在しないようなので、苦虫かみつぶしながらGoogleさんで検索。「デウス・エクス・マキナ」。演出技法のひとつで、ラテン語で「機械仕掛けの神」だとさ。古代ギリシャ劇の終幕で、無理から大団円に持ち込むために機械仕掛けで登場し、紛糾した事態を神の威光でなかったことにしちまうんだってさ。いつの世でも神様ってご無体ね。最近でも『神様メール』でゲスな神様が登場しなすっておりました。
「デウス」が「神」なので、「エクス・マキナ」は「機械仕掛け」の意。あえて神様を抜いているのは意図的なのでしょうね。神は不在なのか?これから誕生するのか?それではようやく、やっとこさ、忘れぬうちに、映画本編の感想をば。
SFとは「画」である
脚本家出身の監督であるアレックス・ガーランド。ということは脚本ね、物語ね、ストーリーね、ダイアローグね、なんて思っていたら、思いのほか「画」がいい。個人的にSFの命は画であると思い込んでおりますので、すでに肛門が引き締まる想い。老いさらばえた括約筋をギリギリと軋ませるものの、ヨーロッパ的なアート臭が漂う静謐なビジュアルにボクの肛門はゆるみっぱなし。放屁を尋常ではない胆力によってなんとか押しとどめながら、この静謐な画のコントラストに思いをはせる。
自然とテクノロジー。ありゃ、なんと陳腐な表現。お恥ずかしい。『惑星ソラリス』なんて言っちゃったら言いすぎだけど、SFと美しい自然とのコントラスト。この動きの少ない静謐な画の繰り返しがいい。静謐すぎて屁もこけやしない。
なんの映画なのやら?
転じて脚本のほうはどうかといえば、近年でも『チャッピー』や『her/世界でひとつの彼女』などで方向性は違うといえ、人工知能をテーマとした物語はそれこそ掃いて捨てるほどあり、「あなた、いつかどこかで会いしましたよね?」感はぬぐえない。だがしかし、大枠の物語には「あら、また会いましたね」と懐かしさを覚えるものの、それによって何を描こうとしているのか、狙いはなんなのかがどうにも見えづらく、最終的には「あれ?もしかして人違い?」と首をかしげざるをえないのです。
その主たる原因は印象操作、目くらまし、化かし合いにあるわけなのですけど、ではそれによって描こうとしたものが来たるべき未来予測なのか、コミュニケーションの限界なのか、ジェンダー論なのかが頭の悪いボクにはいまいちわからない。
ウィトゲンシュタインを引用しているあたりコミュニケーションの話だったような気がするし、最終的な勝者を見ると技術的特異点映画だったような気もするし、エンディング曲を聴くとジェンダーについて論じられていたような気にもなってくる。
ちなみにエンディングで使用されている楽曲は、イギリスの女性ポストバンクバンド“Savages”の『Husbands』。自分が敬愛するWireを彷彿とさせるサウンドに一発で惚れ込んでしまいましたね!
理解できなくて当然?
結局のところこの『エクス・マキナ』はなんについて言及した映画だったのか?それを容易には悟らせない難解さが長所であり短所でもある。実は途中まで書いた感想を全消しして再度の挑戦を試みたのですけど、やっぱり無理でしたね。わからないことに無理から答えを出そうとしても知恵熱が出るだけ。名前ぐらいしか知らなかったルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン。せめて彼の『青色本』でも読んで再挑戦してみようかな?しかし映画の前に『青色本』自体が理解できるのか?
っていうか他人の言っていることなんて、本質的な意味では自分も向こうも理解なんかしとらんよ、ってな映画だったのではないかこれは?いや、そのことに自覚的であるかどうかか?そこが見えてないと簡単に印象なんて操作されちゃうよってこと。
かくあれかし…
でもね、人間って、男って、「かくあれかし(こうあってほしい)」と思っちゃうのよ。この期に及んでも幻想のもとに物事を見ようとしてしまう。それが操作され、植えつけられた印象だということを最後の最後まで認めることができない。きっとこっちに来るはず。振り向くはず。微笑むはず。おそらくは彼も、ボクも、薄々この現実なるものを認識し出しているはずなのに、心のどこかでそんなはずはないという甘い幻想をぬぐい去ることができない。決定的にシカトされるまで。
やっぱり「人の心」みたいなものを作り出すのはそれこそ神の領域なのだね。そんな生暖かいものが存在していない事実は、あのナイフが、あのスーーーーと挿入されていくナイフが雄弁に物語っておる次第。ああ~コワ。おお~イタ。
個人的評価:7/10点
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