「うわっ……だ、大丈夫?」  まるで本気で心配しているが如き柳井の細い声に、比嘉は一瞬痛みを忘れた。 「じ……自分で撃っといてその言い草……!」 「いやー、当てる気は無かったのよ、これホント。ヒトゴロシとか背負う覚悟無いしさぁ。せっかくキャリフォルニアあたりにイカすコンドミニアム買っても、悪夢とか見て飛び起きたりとかしたらウザイじゃん」  どうやら本当に本気でそう思っているのだ、と理解した途端、脱力感が倍増し腕から力が抜ける。いかん、と強く瞬きしてから、おそるおそる傷を確認する。  弾はどうやら、鎖骨のすぐ下に命中したようだ。痛みというより、凍るような麻痺感が右腕全体に広がり始めている。酷く出血しており、シャツはすでに脇腹あたりまで赤黒く染まっている。  現在の状況、及び今後の展開に対する恐怖が、ようやく比嘉の胃の下あたりに重く湧き上がりはじめた。歯を食いしばる比嘉を見下ろし、柳井はなおも喋り続けている。 「ほんとは、キミの作業をチョロっと妨害して、点検コネクタを破壊してから下のメインコントロールに脱出するつもりだったんだよねえ。ボクも帰りの潜水艦に乗せてもらう手はずになってるからさぁ。幸いラース側に死人も出なかったし、これでアリスさえ回収できれば、さわやかな結末だったのにねぇ」 「死人が……出なかっただって……?」  比嘉は再び怪我のことを忘れ、軋るような声を出した。 「……今、このチャンスに桐ヶ谷君の治療が出来なければ、彼の意識はもう二度と回復しないんだぞ! 彼の魂を殺すのは、アンタだよ柳井さん!」 「あー。あー……そーね……」  柳井は、不意にすっと表情を消した。オレンジの非常灯に浮かび上がる生白い頬を、かすかな痙攣が走る。 「うん……死んでいいや、あのガキは」 「な…………」 「だってさぁ、あの小僧は殺しちゃったんだよ。ボクのかわいいアドミーちゃんをさ」 「あど……みー……?」 「神聖教会最高司祭・アドミニストレータ猊下だよ。ボクはねえ、約束してたんだ。あの子のアンダーワールド完全支配に最大限協力するって。それに、もしサーバーが初期化されることになっても、あの子のライトキューブだけ保全してあげる、ってね」  比嘉は愕然と眼を見開いた。  神聖教会――というのは、アンダーワールド内の"人界"統治組織の名称だ。凄まじく厳密な法体系と、強大な武力であまねく人界住民を完全に支配していた。  比嘉たちが、高適応型フラクトライト"アリス"の出現を察知しつつも確保できなかったのは、時間加速下のアンダーワールドで、神聖教会が迅速な対応でアリスを連行し、そのフラクトライトに独自の封印処置を施してしまったせいだ。  そう、あまりにも素早すぎ、的確すぎる手際だった。  まるで、人工フラクトライトの何たるかを完全に熟知しているかのように。  そのとおりだったのだ。神聖教会は、少なくともそのトップであったらしい"アドミニストレータ"という人工フラクトライトは、世界と人の魂の構造を知ってしまっていたのだ。 「……アンタが、汚染したのか……」  比嘉が低く呻くと、柳井はツツっと小さく舌を鳴らした。 「おっと、最初にコンタクトしてきたのはあの子のほうだよ。ボクが当直のとき、いきなりスピーカーから声が聞こえたときはそりゃあ焦ったなぁ……。あの子は、自力でアンダーワールドの全コマンドリストを発見して、システムコンソールから外部コールしてきたんだ。リスト呼び出しコマンドをサーバーに残してたアンタのミスだよぉ、元を辿ればね」  んっふふ、と笑い、柳井は何かを思い出すように、とろんとした目つきになった。 「ボクも最初は、こりゃあ完全初期化だなぁと思ってさ。どうせみんな消されちゃうならまぁいいかって、こっそりSTLでアドミーちゃんのとこにダイブしてみたんだよね。そしたらさぁ……ああ、あんな綺麗な子、ボクは見たことなかったなぁ……。性格から、声から、口調から、何もかもボクの理想どおりで……あの子は、約束してくれたんだ。協力したら、見返りに、ボクを第一のシモベにしてくれるって。いろいろ……いろいろしてくれるってさぁ……」  ――違う。  汚染されたのは、この男のほうだ。  比嘉は、背中が総毛立つのを感じながらそう悟った。柳井は、馬鹿な裏切り者だが知能は高い。そんな人間を、ここまで取り込み支配する――アドミニストレータとは、如何なる存在だったのか。  と、回想に浸っていた柳井の顔から、不意に表情が抜けた。 「……でも、あの子は死んでしまった。殺されちゃったんだ。須郷さんの実験も邪魔した、あの小僧にさ。カタキ、取ってあげなきゃアドミーちゃんが可哀想だよね」  ちゃき、と金属音を立てて柳井は拳銃をまっすぐ構え直した。 「そうだよ……そうだ、やっぱりボクも一人くらいは殺さないと、あの子の供養にならないよね……」  柳井の細い眼は大きく見開かれ、小さな瞳孔が細かく震えていた。  ……やばい。今度こそ、本気だ。  比嘉は思わず目をつぶった。  ――間に合わないか。  リーファは、遥か離れた場所でアスナとキリトが陥っている窮地を感じ、強く唇を噛んだ。  眼前には、数千の黒い兵士たちがわだかまり、行く手を阻んでいる。  実はオーク族の長だったらしいリルピリンに要請し、アスナたちを助けるために南進をはじめたものの、やがて見出したのは目指す人界部隊ではなかった。  現実世界からのダイブ者と思しき軍勢に囲まれる、わずか数百の男女たちは、リルピリンいわくオークと同じ暗黒界軍の拳闘士団らしかった。それを聞き、一瞬も迷うことなく、リーファは救援を決めた。 「敵陣には、私ひとりが斬り込むからね。あなたたちは、拳闘士たちを守って、そっちに向かうヤツだけを迎え撃って」  そう指示すると、リルピリンは共に闘う、と猛然と抗議した。リーファは首を振り、五指にひづめの生えたオークの手をそっと押さえた。 「だめよ、あなた達に犠牲者は出したくないの。私なら大丈夫……あんな奴ら、何万人いたって負けないわ」  そう笑いかけ、リーファは単身、突撃を敢行したのだった。  自身のヒットポイントが、ほぼ無限の回復力を持つことはすでに実証されている。それに、前方のアメリカ人も、同じようにかりそめの命を持つ者たちだ。  キリト達の救援が間に合いそうもない以上、ここでオークたちの命を無為に落とさせることはリーファには出来なかった。  超ロングレンジからの二連斬を叩きこんだあと、リーファは脚を止めることなく、勢いのままに敵集団へと突入した。  いかなる理由によるものか、ALO内と比べて間合いが数倍に拡張されたソードスキルを、立て続けに放つ。地面を切り裂くような咆哮と、鮮やかな閃光が炸裂し、放射状に血風が巻き起こる。  しかし、連続技と連続技のあいだにできる隙までは消せず、わずかな硬直時間を狙って無数の剣が襲ってきた。かわしきれず、リーファの体からも大量の鮮血が飛び散る。 「ええ――いッ!!」  気合とともに、強く地面を踏む。足元から、ぶわっと緑の輝きが溢れ、全身の傷が一瞬で癒える。  四肢に反射するような痛みの余韻を振り払い、リーファは更に剣を振るった。  たとえ万の傷を受けようと、この場の敵だけは現実世界へ追い返してみせる。  ログイン座標ずれで意図せぬ場所に飛ばされてしまった自分に役目があるとすれば、それはきっと一人でも多くのアンダーワールド人たちの命を助けることだ。キリトが愛し、守ろうとしたという人々の。  左方向から、なかなかの速度で突き出されてきた剣を、リーファは腕を貫かせて止めた。 「せああ!!」  返す刃で、その持ち主を一息に切り伏せる。  リーファは、腕に突き刺さったままの剣を、口に咥えて抜き取ると、血のりとともに吐き捨てた。  第二射は、ほぼ同時だった。  二丁のアンチマテリアルライフルから放たれた巨大な弾丸は、ほとんど擦れるような距離ですれ違い、悲鳴じみた轟音とともに大きく軌道を逸らして飛び去った。  シノンは、今度は無様にくるくる回転することなく、両足で後方の空気を踏みしめながら反動を抑え切った。視線の先では、サトライザも有翼怪物を強く羽ばたかせて空中に踏みとどまっている。  このような、三六〇度完全なオープンスペースで、しかも対物狙撃銃同士で撃ち合うのはシノンには初めての経験だった。ガンゲイル・オンラインでは飛行はサポートされていないので当然と言えば当然だが、二脚を立てての伏射が常だったヘカートIIの、空中での反動の大きさは予想外だ。  この勝負――。  先に反動を抑え、同様に敵が静止した一瞬を照準できたほうの勝ちだ。排莢しながら、シノンはそう考えた。  つまり、敵にまず撃たせ、それを回避してのける必要がある。  同じことを、おそらくサトライザも考えているだろう。右方向へスライド飛行するシノンの逆へ、逆へと回り込んでくる。  何の合図が有ったわけではないが、まったく同時に、双方とも高速機動を開始した。  静止時間が発生しないぎりぎりの鋭角ラインを描きながら、ランダムに飛び続ける。銃口をぴたりと敵に追随させながらも、己もまた敵の射角に捉われ続けていることを強く意識する。  サトライザの構えるバーレットのマズルが、ついにシノンの動きを先読みしたか、ひゅっと霞むほどの速度で動いた。  ――来る!!  シノンは歯を食いしばり、眼を見開いた。  巨大な銃口から火炎が迸る。  限界速度でダッシュしつつ、体を右に捻る。  胸元が焦げるほどの距離を、致死の銃弾が擦過していく。群青色のアーマーが、ぴしっと音を立ててひび割れる。  ――避けた!  最初で最後の機会。サトライザが急制動し、静止する一瞬を撃つ!  ヘカートを構えかけたシノンが見たのは。  真正面から飛来する、二発目の銃弾だった。  連射――なぜ!?  ああ……しまった。  バーレットは、セミオートマチックライフル……。  その思考が弾けるのと同時に、シノンの左足が、太腿の中ほどから音も無く爆砕した。    絶望的状況に抗い、戦場に最後まで立ち続けたのは、スーパーアカウントに保護されたアスナと、そしてアンダーワールド人である整合騎士レンリ、及び彼の騎竜、更に騎士と竜に守られるかたちで剣を握る少女剣士ティーゼだった。  アスナは、極限の疲労と苦痛で霞む視界に、鬼気迫る闘いぶりを繰り広げる少年騎士の姿をとらえ続けた。  小柄な騎士は、前線に現れるや巨大な十字ブーメランを自在に飛翔させ、押し寄せる敵の波を片端から薙ぎ倒した。その凄絶なる威力は、怒りに燃える隣国人たちの突撃を、数分にせよ押し返したほどだった。また、巨大な飛竜が浴びせ掛ける熱線もおおいに敵を怯ませた。一人と一頭の戦いぶりは、彼らがまさしくアンダーワールドという異世界に生まれ育った本物の竜騎士なのだということを、十二分に証明していた。  しかしやがて、敵も気付いた。騎士レンリは、その武器を投擲・操作している間、本人はほぼ無防備になってしまうということに。  何十度めかにブーメランが放たれ、黒い軍勢の最前列を横薙ぎにしかけた瞬間、その後方から長槍が無数に投擲された。アメリカ人たちと戦ったとき、アスナが秘かに恐れた戦法が、ついに実行されたのだ。  槍は、黒い雨となって空を流れ、降り注いだ。  最初の投擲は、飛び出した飛竜が、広げた翼と胴体で受け、防いだ。  銀の鱗と赤い血を飛び散らせながら、竜は細い悲鳴とともに横倒しになった。  すかさず、第二陣の槍衾が投げ放たれた。  ざあっと重い音を立て殺到する黒い穂先を一瞬見上げてから、騎士レンリは振り向くと、背後に居たティーゼの細い体をぎゅっと抱きかかえ、自分の下に隠した。  甲高い無数の反射音に混じって、どかっ、どかっ、という鈍い音を二回、アスナは聴いた。  背中の装甲の継ぎ目に二本の槍を深々と受け、レンリはティーゼを覆うようにゆっくりと前のめりに倒れた。制御を失った十字ブーメランが、一瞬の光とともに二つに分裂し、離れた地面に突き刺さった。  その頃にはもう、戦域のほかの場所でも戦闘はほぼ終了していた。  力尽き、倒れた日本人プレイヤーに、黒い姿が一斉に群がり、我先にと武器を叩きつけていく。血と肉、かすかな悲鳴が振り撒かれ、やがて途絶える。  あるいは、高優先度装備をすべて強制解除された姿で、地面に突きたてられた長柄の武器に磔にされている者も数多く見える。彼らの傷から流れる血よりも、顔を伝う屈辱と無念の涙のほうが何倍も痛ましい。  コンバート者二千人の円陣がほぼ無力化され、いままでその中央に守られていた人界軍がいよいよ露出し始めていた。  非武装の補給隊、術師隊を守るように、約六百人の人界軍衛士たちが、ぐるりと密集して剣を構えている。どの顔にも悲壮なまでの覚悟が満ち、じりじりと迫る黒の軍勢に向け、決死の突撃をかけるその時を静かに待っている。 「……やめて……」  アスナは、自分の唇から零れた声を聞いた。  それは、全身に受けた傷の痛みではなく、ただ絶望と哀しみによって心が折れた音だった。 「お願い……もうやめてよ……」  呟きとともに、右手からレイピアが落ちて地面に転がった。その傷だらけの刀身に、頬から滴った涙の粒が小さく弾けた。  眼前に立ちはだかる大柄な男が、敵意に満ちた鋭い罵声とともに、両手剣を高々と振り上げた。  その刹那。  雷鳴にも似た大音声が轟きわたり、アスナに向けて振り下ろされんとしていた刃と、全戦場で進行中のあらゆる攻撃行為を停止させた。  スト――――――ップ!! と途轍もないボリュームで叫んだのは、これまで戦域を少し離れたところから見守っていた黒フードの男だった。殺人ギルド・ラフィンコフィン頭首"PoH"――の亡霊。  隣国人プレイヤーたちは、おそらくマーカーによって黒フードを指揮官と認識させられているらしく、不承不承ながら徐々に武器を降ろしていった。アスナを斬り伏せようとしていた大男も、激しい舌打ちとともに剣を引き、代わりに無造作な足蹴を見舞ってきた。  黒い地面に倒れこんだアスナは、歯を食いしばり、萎えた腕で懸命に身体を起こした。  視線を巡らせると、黒革の裾を揺らしながらゆっくりと前進してくる黒フード男の姿が見えた。指揮慣れしたよく通る声で周囲のプレイヤーたちに何か声を掛けているが、韓国語なので理解できない。  と、周囲の黒い兵士たちが次々に頷き、周りの仲間たちに何かを伝えはじめた。  突然、傍に立っていた男がアスナの髪を掴み、引っ張りあげた。思わず細く悲鳴を漏らしてしまうが、男は聞く耳も持たず、ずるずるとアスナを引き摺っていく。  周囲でも、似たようなことが行われていた。どうやら、まだ生きている日本人プレイヤーを一箇所に集めるつもりらしい。複数人に蹴立てられ、あるいはポールアーム製の十字架に磔にされたまま、半死半生のプレイヤー達が次々と連行されてくる。  黒フードは、小規模な全周防御態勢を取る人界軍衛士隊の至近まで堂々と歩み寄っていくと、振り向いて片手を振り、再び何かを指示した。  自分を引っ立てる男に、乱暴に背中を蹴り飛ばされて、アスナは数メートルも吹っ飛んで地面に沈んだ。周りに、どさどさと立て続けに日本人が突き転ばされてくる。チェーン系の武器で磔にされた者は、そのまま一箇所にまとめて晒された。  生存者の数は、すでに二百を切っていた。  ヒットポイント量が生存率に直結したのか、やはりハイレベルプレイヤーが多く残っている。少し見回すと、すぐにALOの領主の面々や、スリーピングナイツのメンバーを発見できた。  しかし、彼らの姿に、かつての誇り高いおもかげはもう無かった。  すべての武装を強制解除され、ほとんど全員が身ひとつの有様だ。肌には惨い傷が縦横に走り、折れた刃が体に突き刺さったままの者も多い。だが、みなの顔に一様に浮かぶのは、苦痛でも怒りでもなかった。生気を失ったかのような、虚脱した絶望だけが色濃く漂っていた。  戦場に荒れ狂った憎しみの凄まじさ。  それに対してさして抵抗することもできなかった無力感。  いわば――魂に刻み込まれた、敗北という烙印。  もうこれ以上何も見たくなかった。地面に突っ伏して、最後の時まで瞼を閉じていたかった。  しかしアスナは、滲む涙をとおして、尚も仲間たちの姿を目に焼き付け続けた。  視線を一周させたところで、乱れたピンク色のショートヘアに気付いた。顔を両手に埋め、肩を震わせている。  アスナは脚を引き摺り、ゆっくりとその背中に近づくと、親友の体に両手を回した。  リズベットは一瞬全身を強張らせてから、がくりとアスナの胸に頭を預けてきた。血と涙に汚れた頬が引き攣り、掠れた声が漏れた。 「ごめんなさい……ごめんなさい、みんな……あたし……あたしが……みんなを……」 「違う……違うよ、リズ!」  アスナも、涙まじりの声で小さく叫んだ。 「リズのせいじゃない。わたしが悪いの……ちゃんと考えれば……予想できたはずなのに……」 「アスナ……。あたし……知らなかったよ。戦うこと……負けることが、こんなだって、知らなかった……」  返す言葉が見つからず、アスナは顔を上げると、ぎゅっと両眼をつぶった。零れ落ちた涙が、幾つも頬を伝った。  耳に届いた小さなすすり泣きに眼を開けると、地面に大の字になった褐色の肌の巨漢――エギルと、その隣にうずくまる小柄なシリカが見えた。  エギルは、よくこれで天命が残っているとすら思えるほど酷く負傷していた。おそらくはシリカを守り、よほど激しく戦い続けたのだろう。樽のような体にはスピアやハルバードが十本以上も貫通し、四肢はほとんど叩き潰されたような有様だ。髭の下で歯を食いしばっているのは、想像を絶する苦痛に耐えているからに違いない。  少し離れた場所には、背を向けて胡坐をかくクラインの姿もあった。こちらは、左腕が肩の下から斬り飛ばされ、傷口にトレードマークのバンダナが巻いてある。身体を丸め、俯いているのは、顔を見られたくないからだろうか。  生存者は皆、大なり小なり同様の状態だった。  武器も、鎧も、そして闘志も奪われ地に伏す二百人を、少し離れた位置に立つ黒フードの男はぐるりと睥睨し――そこだけ覗く口元に、にやりと大きな笑みを浮かべた。  再びぐるりと振り向き、アンダーワールド人部隊へと正対する。  右手が持ち上がり、皆殺しにしろ、という指示が発せられる瞬間を、アスナは恐怖とともに待った。  しかし、響いたのは意外な内容の日本語だった。 「武器を捨て、抵抗を止めろ。そうすれば、お前らも、後ろの捕虜も殺しはしない」  衛士隊長たちの顔に、一瞬の驚きに続いて、朱色の憤激が走った。 「……ふざけるな!! 今更我らが命なぞ惜しむと……」 「言うことを聞いて――ッ!!」  衛士の言葉を遮り、叫んだのは、アスナだった。  リズベットの身体を抱きしめたまま、涙に濡れた顔を上げ、アスナはさらに懇願した。 「お願い……あなたたちは生きて! どんな屈辱を味わおうとも、生きのびてください!! それが……それが、私たちの……たった一つの…………」  希望なのだから。  胸が詰まり、そこまでは言葉にできなかった。  しかし、衛士たちはぐっと歯を噛み締め、顔を歪め、やがて――ゆっくりと項垂れた。  がしゃ、がしゃんと音を立てて投げ捨てられる剣を見て、周囲の、いまだ三万以上残るプレイヤーたちの間から、高らかな勝利の叫びが湧き上がった。それらはすぐに、リズミカルな自国名の連呼へと変わっていく。  黒フード男は、さっと片手を上げて数人の黒い歩兵を呼びつけ、何かを指示した。即座に兵らは頷き、降伏した人界軍部隊のなかへと足音高く分け入った。  一体、何を……と思ったのも束の間、黒フードがざくざくと音を立てて歩み寄ってきて、アスナの視界を塞いだ。  目の前で立ち止まった男を、なけなしの力を込めた両眼で見上げる。  フードの奥の闇は、この距離でも見通せなかった。逞しく割れた顎や、首元にのぞく巻き毛がかろうじて見える。  その顎が動き、低く湿った笑いを含む声が漏れ出た。 「……よう、"閃光"」  ――やはり!!  息を飲み、アスナは胸の奥から言葉を絞り出した。 「……お前……PoH……!」 「おおっと、懐かしい名前だな。知ってたか? それ、"Prince of Hell"の略なんだぜ?」  そのとき、片手を地面に突いてにじり寄ってきたクラインが、燃えるような目で黒フードを見上げた。 「てめェ……てめェかよ。この……人殺しが!!」  掴みかかろうとしたクラインを、男のブーツが無造作に蹴り飛ばした。たちまち、周囲の人垣から数名が走り出てきて、剣や槍でクラインの動きを封じる。  アスナはぎりっと奥歯を噛みながら、PoHに低く尋ねた。 「これは……復讐なの? ラフィン・コフィンを壊滅させた私たち攻略組への……?」 「…………」  PoHは、しばし無言でアスナを見下ろしていた。その肩が細かく震えているのにアスナは気付いた。  やがて、男は――ぷっ!! と盛大に吹き出した。  ポンチョの下で細い身体を折り曲げ、くくく、ひひひと笑い続ける。  発作のような嘲笑をようやく収め、ポンチョから細い右手を突き出すと、PoHは朗らかな声で続けた。 「あー、ええっと……こういう時、日本語でなんて言うんだったかな……」  くるくると回された指が、パチン! と鳴った。 「そうそう。"お目出度ぇな"? まったくウケるぜ。あのな……」  かくん、と膝を折り曲げた男は、至近距離からアスナを覗き込んできた。フードの奥に、ぎらぎらと輝く眸だけが見えた。 「……教えてやるよ。ラフィン・コフィンの隠れアジトを、てめぇら攻略組様に密告したのは……このオレなんだぜ?」 「な…………」  アスナも、クラインも、そして瀕死のエギルまでもが目を見開いた。 「なぜ……そんな…………」 「あのアホどもと付き合うのも飽きてたしなァ。サル同士殺しあうのが見たかったっつぅのもあるけど……一番の理由は、やっぱこれだな。オレはな……お前らを、"人殺し"にしてやりたかったんだよ。お偉い勇者ヅラして最前線に篭もってる攻略組ご一行様をよ。お膳立てには苦労したぜ。ラフコフの奴らにも直前に警告して、"逃走はムリだが迎撃は間に合う"タイミングをびったし作ってさ」  ――そうか。あのアジト急襲が事前に漏れていた形跡があったのは、そういう訳だったのか、とアスナは愕然としながらも思った。  そのせいで、戦闘の初期にはレベルで優る攻略組のほうが押され、数名の死者まで出したのだ。劣勢を覆したのは、当時すでに抜きん出た実力を示していたキリトの奮戦であり、彼がラフィンコフィンの切り込みプレイヤー二名を斬り倒したことで――状況が逆転し……。 「……あれが……狙いだったの?」  アスナは、ほとんど音にならない声で囁いた。 「キリトくんに……PK行為を、背負わせるために……?」 「イエス。アブソリュートリィ・イエス」  PoHの声も、熱を帯びた囁きにまでひそめられた。 「オレは、あの戦いを近くからハイディングして見てたんだよ。"黒"の熱血バカが、ブチ切れて二人もぶっ殺したときは、思わず爆笑してハイドが破れるとこだったぜ。理想としてはよ、のちのちあいつとアンタを無力化のうえ拘束して、あん時のことをロング・インタビューしてやろうと思ってたんだけどよ……まさか七十五フロアでエンディングとはなぁ」  瞬時に沸騰した怒りが、アスナに傷の痛みをいっときにせよ忘れさせた。 「き……キリトくんが、どれだけあの時のことを、悩んで、苦しんでると思うの!?」 「ほ、そりゃよかった」  PoHの声は、対照的に氷のような冷たさを帯びていた。 「でも、そいつは怪しいもんだな? ほんとに後悔してるならよ……普通、VRMMO辞めるんじゃねえの? 殺したヤツに申し訳なくてさぁ。分かってんだぜ、あいつも居るんだろ、ここに。感じるんだよ。なんで馬車に篭もってんのかは知らねえが……まあ、直接聞くさ」  言葉を失ったアスナの頬を、指先でそっと撫で、PoHは勢い良く立ち上がった。  いまだ周囲でうねり続ける大歓声の底に、低く湿った声が流れた。 「イッツ・ショーウ・タァ――――イム」  くるりと振り向いたPoHの向こうに――。  人界軍部隊をふたつに割って、黒い歩兵の手でごろごろと運ばれてくる車椅子と、拘束されたまま付き従う、灰色の制服姿の少女が見えた。  ああ……。  やめて。  それだけは。  アスナの胸中に、悲痛な懇願が溢れた。クラインが跳ねるように立ち上がろうとし、すぐに押さえつけられた。  PoHは、目の前まで押されてきた車椅子を、身体をひょいと傾けて覗き込んだ。 「……ンン?」  訝しそうな唸りとともに、つま先でこつんと、椅子からぶら下がる脚をつつく。 「何だこりゃあ……? おい、"黒の剣士"、起きろよ。"二刀流"、聞こえてんのかぁ?」  かつてのあざなで呼ばれたキリトは――しかし、まったく反応しなかった。  黒いシャツの上からも如実に分かる、痩せ細った体を背もたれに斜めに預け、顔をかくんと俯かせている。中身のない右の袖が風に揺れ、二本の剣をきつく抱く左手も、骨ばかりが目立つ。  アスナの隣に突き飛ばされてきたロニエが、真っ赤に泣きはらした目をしばたかせ、小さく言った。 「キリト先輩……戦いのあいだ、何度も、何度も立ち上がろうとして……そのうち、力尽きたみたいに静かになって……でも……涙が……涙だけが、いつまでも……」 「ロニエさん……」  アスナは左手を伸ばし、しゃくりあげるロニエの華奢な身体を引き寄せた。  きっと顔を上げ、PoHに鋭い言葉を投げる。 「分かったでしょう。彼は戦って、戦いぬいて、傷ついたの。だからもう構わないで! キリトくんをそっとしておいて!!」  しかし黒フードの男は、アスナの声など耳に入らぬ様子で、キリトの顔を至近距離から覗き込み喚き続けた。 「おいおーい、嘘だろ! 締まらねえよこんなんじゃよ! おい、起きろって! ヘイ、朝だよー! おーい!! グッド・モー……ニン!!」  突然、PoHは右足を銀の車輪に掛け、容赦なく蹴り倒した。  騒々しい金属音とともに横倒しになった車椅子から、痩せた体が地面に投げ出された。  アスナとクラインが、同時に立ち上がろうとして背後の剣に押し止められた。エギルも、血の泡が混じった低い怒りの声を漏らし、リズベットとシリカ、それにロニエが細い悲鳴を上げる。  PoHは、背後の様子にはもう目もくれず、キリトに歩み寄るとつま先で乱暴に身体を仰向けさせた。 「なんだよ……マジで壊れちまってるのかよ。あの勇者サマが、ただの木偶かぁ?」  いまだ、しっかりと二本の剣を抱えたままの左腕から、白いほうの鞘を奪い取る。じゃきっと引き抜かれたその刀身は、半ばほどで痛々しい折れ口を晒している。  盛大な舌打ちとともに、PoHは剣を鞘に戻した。と――。 「ぁ……。ぁー……」  キリトが、細いしわがれ声とともに、左腕を白い剣へと弱々しく伸ばした。 「おっ!? 動いたぜ!! なんだ、コイツが欲しいのか?」  PoHは、じらすように空中で白い剣を動かしてから、それを無造作に投げ捨てた。空中でそちらに動こうとするキリトの左腕を、ぐいっと右手で掴み、引っ張り上げる。 「ほら、何とか言えよ!!」  ぱし、ぱしん! と音を立て、PoHの左手がキリトの頬を張った。  アスナの視界が、憤怒のあまりか薄赤くそまった。しかし、再び立ち上がろうとするより早く、クラインの血の滲むような絶叫が響き渡った。 「てめえが!! てめえがキリトに触るんじゃねえ――――!!」  片腕で掴みかかろうとするその背中を、背後から太い剣が貫き、容赦なく地面に縫いとめた。  がっ、と大量の血を吐き出し、突っ伏してなお、クラインは己の身体を引き裂きながら、前に進もうとした。 「てめえ……だけは……!! 許さ……ね……」  どかっ!!  と鈍い音が響き、二本目の刃がクラインを貫いた。  いまだ枯れないことが不思議なほどに、止め処も無い涙がアスナの頬に溢れた。  片脚がまるごと吹き飛んだ痛みより、はるかに強く濃い恐慌を、シノンは感じた。  これまでシノンは、脚で空気を蹴る感覚で随意飛行を制御してきたのだ。はたして、右脚だけで試みた急速回避は、ぶざまな錐揉み旋回へと変わってしまった。 「く…………」  歯噛みをしながら、シノンは唯一可能な機動、つまりひたすら真っ直ぐな後退に移った。空中に、左脚から漏れ出る血が鮮やかな赤のラインを引く。  可能な限りの速度で距離を取りつつ、サトライザを照準し、三発目の弾丸を発射した。  しかし、まったく同時に、余裕の表情で追ってくる敵のライフルも火を吐いた。  同一直線上を突進するふたつの12.7ミリ弾は、交錯した瞬間、甲高い不協和音と鮮やかな火花を撒き散らして軌道を逸らし、それぞれ遥かな虚空へと飛び去った。  胸中に忍び込む懼れを、ボルト操作で薬莢と一緒に払い捨て、シノンは第四射を敢行した。  またしても、二つの雷鳴が重なって轟く。弾丸たちは齧り合った瞬間、巨大なエネルギーを空しく宙に放散し、螺旋を描いて飛び去っていく。  第五射。第六射。  結果はまったく同じだった。サトライザが、わざとシノンの射撃にあわせて自らもトリガーを引き、弾丸を相殺させ続けているのは明らかだ。  現実世界ではもちろん、GGO内でもこんな芸当は出来るまい。しかし、この世界ではイマジネーションが全てに優先する。意図しているサトライザはもちろん、シノンまでもこの結果を予想してしまっているゆえに、超音速で飛行する弾丸の相撃ちという有り得ない現象が現実となるのだ。  それでもシノンにはもう、ボルトを引き、照準を合わせ、トリガーを絞るという三動作以外のことは何ひとつ出来なかった。  七発目の弾丸が、哀切な悲鳴を撒き散らしながら大きく右へと逸れ、消えた。  排莢。照準。  ――カチン。  かちん、かちんと、シノンの指の動きに合わせて撃針が空しく鳴った。  ヘカートIIの装弾数は、ワンマガジン七発。予備の弾倉は無い。  対して、バーレットの装弾数は十。まだ、あと二発残っている。  百メートル離れた場所で、サトライザが浮かべた冷たい笑みを、シノンははっきりと視認した。  構えられた黒い銃が、ぱっと炎を吐いた。  シノンの右脚が付け根から吹き飛んだ。  途端、一直線の飛行すらままならなくなり、シノンの身体は徐々に落下し始めた。  反動を抑えたサトライザが、最後の一撃を放つべく、右眼をスコープに当てた。レンズいっぱいに広がる青い硝子のような虹彩が、シノンの心臓をまっすぐに射抜いた。  ――ごめんね。  ごめんね、アスナ。ごめんね、ユイちゃん。ごめんね……キリト。  シノンが口の中でそう呟いた直後、バーレットが十発目の弾丸をそのあぎとから解き放った。  赤い炎の螺旋をあとに引き、サトライザの視線を正確にトレースして飛来した弾が、シノンの青い装甲を粉砕し、上衣を蒸発させ、その捻転する尖端を肌に――。  バチッ!!  と、再びあの火花が迸った。  閉じかけた両眼を見開いたシノンの目の前で、高速回転する細長い弾丸を、ちっぽけなアルミのメダルが食い止めていた。  渦巻く白いスパークの中心で、厚さ一ミリもない円盤が、断固たる意思を示して光り輝いているのを見た瞬間、シノンの両眼から涙が溢れた。  ――諦めない。  絶対に諦めたりしない。信じるんだ。私を。ヘカートを。そして、このメダルを通して繋がる、ひとりの男の子を。  一際激しい閃光とともに、金属円盤とライフル弾が同時に蒸発した。  シノンはヘカートIIを力強い動作で構え、トリガーに人差し指を掛けた。  たとえイマジネーションによって変形したとは言え、この武器に与えられたシステム上の性能は持続しているはずだ。周囲の空間からリソースを自動吸収し、攻撃力としてチャージする"ソルスの弓"の力が。  ならば撃てる。マガジン内の弾が尽きていようが、絶対にヘカートは応えてくれる。 「いっ……けええぇぇ――――!!」  トリガーを引いた。  発射されたのは、金属をまとった徹甲弾ではなかった。  無限のエネルギーを凝縮した純白の光線が、マズルブレーキから七色のオーロラを放散させながら、一直線に宙を疾った。  サトライザの顔から笑みが消えた。右へとスライド回避しかけた瞬間、白い光線がバーレットの機関部を直撃した。  オレンジ色の火球が膨れ上がり、サトライザを完全に飲み込み――。  轟音。爆発。  押し寄せる熱い突風を肌に感じながら、シノンは石のように落下し、数秒後、岩だらけの地面に激突した。  もう、飛ぶことはおろか、這いずることも出来そうになかった。吹き飛ばされた両脚の痛みは凄まじく、意識を保つことすら至難だった。  それでも、シノンは瞼を持ち上げ、かすむ視界を懸命に見通そうとした。  遥か中空にわだかまる黒煙が、徐々に風に運ばれていく。  やがて現れたのは――いまだホバリングを続ける、サトライザの姿だった。  しかし無傷ではない。ライフルの爆発に巻き込まれた右腕は完全に消し飛び、肩口から薄い煙がなびいている。滑らかだった顔の右側も焼け焦げ、唇からひと筋の血が垂れている。  サトライザの顔に、ついに凶悪な殺意が浮かんだ。  ……いいわよ。何度だって相手してあげるわ。  シノンは、残された全ての力を振り絞り、ヘカートを持ち上げようとした。  数秒後、サトライザの視線がふっと外された。有翼生物がぐるりと向きを変え、黒衣の男は細い煙の筋を引きながら、一直線に南に向かって飛び去った。  シノンは、もう保持しているのも限界だった巨大な対物ライフルを、そっと地面に降ろそうとした。接地した瞬間、それはもとの白い弓へとその姿を戻した。  最後の力で、シノンは右手を持ち上げ、胸元に残されたチェーンの切れ端に触れた。 「……キリト」  呟くと同時に、涙が頬にすうっと流れた。  身体に突き立つ幾つもの刃を、抜き捨てる余裕すらもうリーファには無かった。  全身の痛みが融けあい、まるでむき出しになった全神経を直接針で突き刺されているかのようだ。  幾つかの傷は、明らかに致命傷と呼べるものだった。腹部を貫く二本の剣は動くたびに内臓を切り刻み、背中から胸に抜ける一本は確実に心臓を直撃している。  しかしリーファは止まらなかった。 「う……おおあああッ!!」  大量の鮮血とともに気合を迸らせ、何十度――あるいは何百度目かのソードスキルを開始する。  長剣が黄緑の輝きを帯び、縦横に空を裂く。身体の周囲に留まった幾つもの光の円弧が、一瞬の溜めのあとにパッと周囲に拡散し、それを追うように無数の敵兵がばらばらっと身体を崩壊させる。  大技を放ったあとの硬直時間を狙い、数人の敵が殺到してきた。ぎりぎり飛び退き、攻撃の大半は避けたものの、長いハルバードの一撃に左腕を叩き斬られた。  勢いで倒れそうになるのをぐうっと踏みとどまり、 「ぜあああッ!!」  横薙ぎの一閃で三人の身体を分断する。  リーファは、地面に落ちた左腕を拾い上げ、傷口に押し当てながら強く右足を踏んだ。  緑の閃光とともに、地面に草花が萌え出で、消えていく。天命が上限まで回復し、惨い傷は残ったものの、左腕も再度接続される。  この状況では、テラリアに付与された無限回復能力は、もう神の恩寵などと呼べるものではなかった。  むしろ、呪いと言うのが相応しい。どれほど傷つき、激痛を味わおうとも、倒れることは許されないのだ。不死ではあるが不可侵ではない矛盾ゆえの、想像を絶する責め苦。  リーファを支えているのは、ただひとつの信念だけだった。  ――お兄ちゃんなら。  絶対に、こんな傷くらいで倒れたり、しない。  なら、私も倒れない。たかが三千人、一人で斬り伏せてみせる。だって私は……お兄ちゃんの…… 「――――妹なんだからああああッ」  左手につがえられた長刀の切っ先が、真紅の輝きを迸らせた。  がしゅっ!! という重い金属音とともに突き出された刀から、巨大な光の槍が解き放たれ、百メートル以上もまっすぐに戦場を貫く。ばしゃあっ! と円状に敵兵の身体が捩れ、引き千切られ、飛散する。 「……はっ……はあっ…………」  荒く吐いた息は、すぐに大量の鮮血へと変わった。  口元を拭い、ふらりと立ち上がったリーファの左眼を、唸りを上げて飛来した長槍が貫き、後頭部へと抜けた。  数歩後ろによろめき――しかしリーファは倒れなかった。  左手を後ろに回して、槍を一気に引き抜く。頭の内側を、痛みとはちがう異様な感覚が突き抜ける。 「う……うううおおお!!」  だん、だん!! と足踏みし、天命を回復させる。欠けた左の視界が、テレビのようにぶつっと音を立てて復活する。  見れば、いつしか敵はもう百人ほどしか残っていなかった。  にやり、と笑いながら、リーファは血まみれの左手を持ち上げ――掌を上向けると、そろえた指先をくいくいと動かした。  やけっぱちな雄叫びを上げて突進してくる集団に向け、ずうっと重い動作で長刀を振りかぶる。 「いぇ……ああああああッ!!」  一閃。  鮮血を吹き上げ、分断された敵集団のただ中へ、リーファは恐れることなくその身を投じた。  約三分後に、最後の敵兵が倒れたとき、リーファの身体に突き立つ金属は十本に増えていた。  四肢から力が抜け、後ろに倒れこんだが、背中に貫通した剣や槍がつかえて途中で止まった。  悲鳴のような声で名前を呼びながら駆け寄ってくるオークたちの足音を聞きながら、リーファは瞼を閉じ、小さく呟いた。 「私……がんばったよね……、お兄ちゃん……」  左耳のインカムから、低い囁き声が聞こえたのは、柳井の銃のトリガーが動き始めたのと同時だった。 『比嘉君、避けて!!』  え。  避けてって……弾を?  と間抜けなことを考えた直後に、ずっと高いところから、何かが空気を切り裂いて落下してくる音を比嘉は聴いた。  ガァン!!  と響いた音は、拳銃の発射音ではなかった。遥か頭上の、ケーブルダクト進入口から投げ込まれた巨大な何かが、柳井の脳天を直撃した音だった。  柳井の見開かれた目が、ぐりんと上を向いた。ステップを握っていた左手が、ずるりと滑り落ちる。 「うわ……ちょっ……」  比嘉は、肩の痛みも忘れて右腕を上げると、両手でステップを握り、限界まで身体をダクトの壁面に押し付けた。  まず落下してきたのは、一体どこから持ち出したのかと言いたくなるほど馬鹿でかいモンキーレンチだった。続いて、まだ硝煙の匂いをこびり付かせた小型の拳銃が目の前を横切った。  最後に、意識を失った柳井の身体が、ずぼっと比嘉の身体とダクト壁の間に挟まり、停まった。 「ひ……ひぃっ!」  思わず肩を縮め、一層身体を引っ込めてしまう。  柳井の身体が徐々にずれ始め、汗とコロンの匂いを擦りつけながら眼前を通過し――。 「…………あ」  比嘉が呟くと同時に、足下に五十メートル続く空間へと落下していった。何度か、壁やハシゴにぶつかる音が響いたのに続いて、最後にどすんという一際重い衝突音が伝わってきた。 「…………うーん……」  死んじゃった……かな? いや、あの感じだと骨が二、三……いや五、六本イッたくらいかな……。  という、半ば停止気味の比嘉の思考を、インカムからの悲鳴じみた声が破った。 『比嘉君……ねえ、比嘉君!! 無事なの!? 答えてよ、ねえ!!』 「…………いや、ちょっと、ビックリして……。凛子さんでも、そんな声出すんスねえ……」 『な……何のんきなこと言ってるの!! 怪我は!? 撃たれてないの!?』 「あー、えーっと……」  比嘉は、あらためて肩の傷を眺めた。  出血量はちょっと恐ろしいことになりつつある。右腕は、動くものの表面感覚はないし、それにやけに寒い。思考もちょっといつもどおりではない気がする。  しかし、比嘉は大きく息を吸い、腹に力を溜めてから、可能なかぎり元気そうな声を出した。 「いや、ぜんぜん平気ッス! かすり傷ッスから。僕はオペレーションを継続します、先輩はキリト君のモニタリングのほう、よろしくッス!!」 『……ほんとうに、大丈夫なのね? 信じるわよ!? 嘘だったら許さないからね!?』 「いやもう……ばっちり、バッチグー、ッス」  比嘉は上を仰ぎ、はるか頭上に見える小さなシルエットに向けて慎重に手を振った。この距離でこの暗さなら、神代博士からは出血の様子までは確認できないはずだ。 『じゃあ……私は戻るけど、グラフに変化があり次第飛んでくるからね! 頼むわね、比嘉君!!』  シルエットが引っ込みかけた瞬間、比嘉は思わず小さく呼びかけていた。 「あっ……り、凛子さん」 『何、どうしたの!?』 「いや……その、ええと……」  ――学生時代、茅場先輩や須郷サンだけじゃなく、僕もあなたに夢中だったって知ってました?  と、比嘉は言おうとしたものの、そんなことを口にしたら生還の確率が大幅に減少する気がしたので、かわりに適当な台詞でお茶を濁した。 「あの、この大騒ぎが全部片付いたら、食事でもどうッスか?」 『……分かったわ、マクダでも星牛でも奢ってあげるから、がんばって!!』  そして、神代博士の姿が比嘉の視界から消えた。  ――やっすいなぁ。  て言うか、"死ぬやつが言うっぽい度"では大差なかったなあ。  比嘉は苦笑し、端末のモニタに視線を戻した。指先の痺れた右手をキーボードに載せ、慎重にコマンドを打ち込み始める。  三番STLに……四番を接続。五番、六番……接続。  ふっ、とフォントが二重に霞み、比嘉は両眼をしばたいた。  さあ……キリト君、そろそろ起きる時間だぜ。  アスナは、涙のベールを通して、ただひたすらに愛する人の姿を見つめ、祈った。  お願い、キリトくん。私の心も、命も、なんでもあげるから……だから、目を覚まして。  ――キリトくん。  ――キリト。  ――お兄ちゃん。  ………………キリト……。  キリト。  誰かが、名前を呼んだ気がして――  俺は、浅いまどろみから引き戻された。  瞼を持ち上げると、オレンジ色の光の帯に浮かぶ、いくつもの粒子が見えた。  朧な視界が、徐々に焦点を結んでいく。  揺れる白い布。カーテン。  銀色の窓枠。古びたガラス。  揺れる梢。傾き始めた太陽の色に染まる空に、ゆっくりと伸びる飛行機雲。  埃っぽい空気を大きく吸いながらのろのろと身体を起こすと、深緑色の黒板を大儀そうに擦るセーラー服の背中が目に入った。しゅっと音を立てて滑った黒板消しが、白いチョークで大きく書かれた文字の最後のひとつをかき消した。 「……あの、桐ヶ谷君」  再び名前を呼ばれ、視線を動かすと、気後れしたような、苛立ったような表情で俺を見下ろす、別の女子生徒が目に入った。 「机、動かしたいんだけど」  どうやら俺は、ホームルーム中に居眠りして、そのまま掃除時間へと突入してしまったらしい。 「ああ……悪い」  呟き、机にぶら下がるぺたんこのザックを指に引っ掛けると、俺は立ち上がった。  頭の芯が重い。  長い――とてつもなく長い映画を見たあとのような疲労感があった。筋もなにも思い出せないのに、巨大な感情の残滓だけが身体の中にこびり付いている気がして、強く頭を振る。  訝しそうな顔つきになる同級生から視線を外し、教室の後ろの出口に向けて歩きだしながら、俺は小さく呟いた。 「なんだ……夢か…………」  学校を出て、青みを増しはじめた空に浮かぶ黄色い雲を見上げると、ようやく僅かばかり思考が冴えた。ひんやり乾いた秋の空気を、大きく吸い込む。  毎朝四時にベッドに倒れこみ、八時には起床して登校、その後ひたすら続く授業中に補填的な睡眠時間を稼ぐ生活を送る俺にとって、一日がピークを迎えるのは夕刻以降のことだ。秋分の日が過ぎ、夜が長くなるこれからの季節は気分も軽くなる。逆に、明かりを消す頃にはすでに窓の外が白み始めている六月、七月などは、寝入り端の憂鬱さを日中も引き摺ってしまう。  と、言ってもべつに、再来年に待ち構える高校受験の勉強に明け暮れているわけではない。  前後を歩く中学生たちの、夢と希望、恋と友情に溢れた会話を遮断するためにオーディオプレイヤーのイヤホンを両耳にねじこみ、背中を丸めて、俺は家路を辿った。  途中にあるコンビニで、これから朝四時まで続く戦いのための補給食を買い込み、ついでに電子マネーアカウントに幾らかチャージする。  ゲーム情報誌をぱらぱら捲ってから自動ドアを抜けると、駐車場のすみの薄暗がりに輪になって座り込む四、五人の同級生の顔が見えた。周囲にはカップ麺やおにぎりの包装が散乱し、傍若無人な笑い声を響かせている。  無視して通り過ぎようとしたとき、中の一人が俺に向けた、すがるような視線と目が合った。  ブレザー姿でなければ小学生にしか見えないその男子生徒とは、去年一年間そこそこ仲良くしていた。当時、同じネットゲームにハマっていたせいだ。  そして、いかにも文科系の極みのような二人組に、不良連中が目をつけるのも当然の流れと言えた。今、彼の周囲で馬鹿話に興じている連中だ。使いっぱしりを強要するところから始めて、ジュースやパンを奢らせるようになり、やがてダイレクトに金銭を要求し出すに及んで俺は行動に出た。剣道場から持ち出した竹刀で、リーダー格をしたたかブチのめしたのだ。  たった二年で辞めてしまった剣道だが、思わぬところで役に立ったものだ。双方の親が学校に呼ばれ、大ごとになりかけたが、俺が超小型レコーダーで録画しておいた恐喝シーンを会議室の大モニタで再生してやったら即座にウヤムヤな決着を迎えた。  その後、ヤンキー連中はしばらく大人しくしていたようだが、どうやら懲りずにパシリだの恐喝だのを再開したらしい。  脚を止め、顔を向けていると、しゃがみ込む一人が鼻筋に皺を寄せて唸った。 「んだよキリガヤ、何見てんだよ」  俺は肩をすくめ、答えた。 「別に」  そして、そのまま歩行を再開した。かつて友達だった生徒の視線を強く背中に感じたが、もう二度とあんな面倒な真似をする気はない。今年になってからは話もしていない相手だし、そもそも武闘派のネトゲ廃人なんて笑い話にもならない。  白いビニール袋をほとんど空のバックパックに押し込み、インナーヘッドフォンのボリュームを上げて、夕暮れに染まる世界を掻き分けて歩く。こっち側で誰かとルーティーンではない会話をしたあとは、決まってこんな乖離感覚が押し寄せてくる。  早く接続したい。世界に繋がりたい。  強い焦燥に急かされるように、ダークグレイとオレンジに塗り分けられた住宅街をひたすら歩く。  やがて、古めかしい竹垣に囲われた自宅が、設定視野に入った地形オブジェクトのように前方に浮かび上がる。  屋根つきの門をくぐり、砂利を踏んで玄関へ向かう。  と、鋭く空気を切る音と、歯切れのいい掛け声が耳に届いた。  裏手の広い芝生のうえで、竹刀の素振りをする緑色のジャージ姿の女の子が目に入る。短く切りそろえられた髪、飛び散る汗、見事なまでに制御された動作のすべてが眩しく、思わず歩みを止める。  俺が立ち尽くしていると、女の子はすぐに気付き、素振りをとめてにっこりと笑った。 「おかえり、お兄ちゃん!」  屈託無く掛けられた言葉に、反射的に視線を逸らせてしまう。  凄まじい隔絶感。俺が遠ざけてきたあらゆるものが、薄膜一枚へだてた向こうに光り輝いている気がする。いったいいつから、こんな感覚が生まれてしまったのか。同時に習い始めた剣道を、俺だけさっさと辞めてしまった時だろうか。それとも――その少し前、生前の祖父にしたたか叱られた時か。  あれは何が原因だったんだっけ。  祖父の道場に通っていた、年上の近所の男の子に、ネットで調べた立ち関節技を使って勝ったせいだったか……。  瞬時の物思いに囚われた俺を、ジャージの女の子は大きな瞳でじっと見つめ続けている。 「……ん」  挨拶にもならない短音を返し、俺はすぐさまきびすを返した。玄関に向かう背中に、やはり物言いたげな視線だけが残った。  広い家のなかは無人だった。  父親は海外に赴任中だし、母親は仕事柄、俺より不規則な生活を送っている。そのことに文句はまったくない。むしろ有り難いほどだ。  ネクタイを引き抜きながら階段を駆け上り、自室へと飛び込む。ふう、と大きく息を吐き、ザックを放り出す。  ほんとうに中学二年男子の部屋か、と言いたくなるほどに殺風景だ。シンプル極まるデスクには自作のパソコンとELモニタ。本棚にはプログラミングやアプリの解説本。あとはタンスとベッドしかない。  そのベッドの上に鎮座するモノが、この部屋と俺の生活を支配する主だ。  艶やかなダークブルーの外装をまとうヘルメット型ヘッドギア。  そしてもう一つ、細いケーブルで接続するキューブ型のマシン本体にマウントされた、一枚の光学ディスク。  "ナーヴギア"と、"ソードアートオンライン・βエディション"。  俺は制服を蹴散らすように脱ぎ捨て、楽なスウェットに着替えると、コンビニで買ってきたブロック栄養食を一本貪るように胃に詰め込んだ。水分を取り、トイレを済ませ、ある種の中毒患者のように息を浅くしながらベッドへと倒れこむ。  ナーヴギアを被り、ハーネスをロックして、電源を入れる。かすかなドライブ回転音。ファンの排気音。  遮光シールドを降ろし、スタンバイ完了を示すビープ音が鳴るや否や、きょう一日に出したすべての声のなかで、もっとも明確な発音で接続プロセス開始コマンドを口にする。  リンク・スタート。  俺が降り立ったのは、当然ながら、昨日――正確には今朝ログアウトした座標だった。  浮遊城アインクラッド最前線、第10層主街区。その中央に高く聳える、鐘楼の最上部。頭上には、くっきりと上層の底が見える。  俺は、目の前の窓ガラスに映る自分の姿を確認した。  現実の俺より、二十センチは背が高い。胸も腕も逞しく、しかし腹は削いだようにくびれている。その完璧なバランスの身体を包むのは、純白の地にコバルトブルーのトライバルパターンが入った華麗なハーフアーマーだ。メンテしたばかりなので、ワックスを掛けたような光沢が日光を眩く反射している。背中に流れるマントは純銀の毛皮製。腰には、クリスタルのように透きとおる柄を持つ大型の片手剣。  すべての装備が、現時点で入手可能な最高性能を備えている。とは言え、週末には次の層が開通するだろうから、また一式更新する必要があるだろう。どうせ、金(コル)は口座に腐るほど溜まっている。  最後に、これも瑕疵ひとつ無いデザインの顔を確認する。βテスト開始当初に、無限とも思えた数値パラメータをいじり込んで造り上げた自信作だ。実は"かわいい女の子"を作るよりも、"かっこいい男"を造るほうが十倍は難しい。ここまでのレベルに達している男アバターは、アインクラッドには存在しない確信がある。  背中に垂れる青銀の長髪を一振りし、俺はガラスから視線を外した。  黒のレザーパンツのポケットに両手を突っ込み、鐘楼の手すりに白いブーツを乗せ――ひと息に空中に飛び出す。  眼下の中央広場までは、たっぷり三十メートルはあるだろう。その高度を、マントと長髪をなびかせながら、俺は矢のように落下する。敷石に衝突する直前でくるくると二回転し、物凄い大音響とともに両脚から着地する。  高い敏捷度、筋力パラメータおよび軽身スキルはもちろん、熟練のプレイヤースキルとおまけに度胸がなくてはできない芸当だ。俺のステータスでも、この距離を頭から落下したらヒットポイントが吹っ飛び、はるか下層の黒鉄宮で気まずい蘇生をすることになる。  見事着地を決め、立ち上がった俺を、周囲で目を丸くしていたプレイヤーたちが笑顔で迎えた。「キリト、おはー!」「キリトさん、こばーっす」と次々に掛けられる統一感の無い挨拶に、こんばんはーっす! と、現実世界の俺が口にしたこともない元気な声を返す。  たちまち殺到するパーティー狩りの誘いを、一つずつ丁寧に断り、俺は街区のはずれにある宿屋へと向かった。  事前に指定されていたのは、二階の一番奥の部屋だった。カウンターのNPCから古めかしい真鍮のキーを貰い、素早く階段を登ると奥の扉の鍵を外す。  中で待っていたのは、俺に負けず劣らず高価かつ派手な装備に身を固めた、二人の男性プレイヤーだった。一人が大柄な両手剣使い、一人は華奢なナックル使いだ。 「ちわ」  と、短く頭を下げたのはナックル戦士のほうだった。俺も、どもっすと答え、ドアを閉める。ロックされたのを確認してから、索敵スキルを使い、部屋と壁の向こうを丹念にチェックする。 「やー、ハイドしてる奴なんかいないっすよー」  と苦笑する男に、俺も薄く笑いながら肩をすくめて見せた。 「念のためですよ。それと……もちろん、記録系クリスタルも無しですよね」 「もち、当然っす。キリトさんを引っ掛けるようなこと、うちのギルドがするわけないっすよ」  鵜呑みにするわけには行かないが、それでも俺は一応納得し、空いている椅子に腰を下ろした。  それを待っていたように、これまで無言だった両手剣が、ずいっと身を乗り出してきた。 「改めて、はじめまして、よろしくです」 「はじめまして」  俺も再び頭を下げる。  初対面ではあるが、互いに知らない間柄ではない。この二人は、SAOβで現在最大勢力を誇るギルドの、副長と参謀なのだ。そして俺は、つい二週間前まで第二勢力ギルドに属していた。  フリーになった途端、数多のギルドから加入の誘いが舞い込んだが、たっぷりともったいつけた上で今日この二人との会談に応じたのには、訳があった。  しかし俺は、内心を隠したままポーカーフェイスで交渉に就いた。  二人は、準備金として用意できるコルの額や、ギルドで蓄積しているレアアイテムの一覧などをウインドウで示し、熱心なリクルートを開始した。それをひととおり聞いたところで、俺は脚を組み、にこやかに言った。 「うーん、正直、金には困ってないですし、アイテムもこれと言って……って感じですかねえ」 「いや、勿論これは叩き台ってことで、ここからも交渉の余地は……」  早口でそう言い募る副長の目をじっと見て、俺は囁いた。 「金とかアイテムはいらないです。ただ……たった一つだけ、条件を飲んでくれれば、あとは何も無しで加入しますよ」 「じ……条件……とは?」  つり込まれたようにひそひそ声になった男に、俺はニッと片頬を歪めて笑いかけ、言った。 「おたくのギルドのリーダー職に、すごい地味な装備の片手剣使いの男がいるでしょう」 「え……、ええ」 「あいつ……狩らせてもらえませんか」