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性とナンパについて渋谷で考えた RSSフィード

2016-06-16

ナンパ講習という奇妙な仕事を3年半続けて思ったこと(1)

2015年末でマンツーマンのナンパ講習をおしまいにした。はじめたのが2012年の7月からだから、何度かの断続的なやっていない期間はあるにせよ、3年半これに自分のエネルギーを注ぎ込んだことになる。最初のうちは別の肉体労働を少しやっていたが、ほどなくして講習専業になった。職業:ナンパ講師。講習生のべ約300人。月の金銭収入は10〜60万円のレンジ。この間、平均するとだいたい週に3日は街に立っていた。この仕事のおかげで人のことを顔ではなく名前でもなく、後ろ姿で記憶するという癖を身につけてしまった。これはぼくが30年近く生きてきて、生まれて初めて着手した仕事でもある。


ナンパ講習とはどういう仕事か。

表層というか現象的に捉えるならば、「ナンパ講習というのは依頼してきた講習生と共に街に出て女と戯れる肉体/頭脳労働である」というのが講習をやめた時分での自分の認識であった。肉体と頭脳の割合は大体7対3くらい。要するにおおむね自分の肉体を使った労働である。ぼくの講習はだいたいいつも実地、すなわちストリートで行われた。講習の依頼が入るたびに、それなりのテンションでもって講習生と相対し、街と相対する。気分が躁っぽいときも鬱っぽいときも人と接したいときも接したくないときも、仕事の時間が近づくと身体がそれなりのふさわしいコンディションになるようスイッチをパチンと入れる。やっている間は無我夢中であるが、3〜4時間が過ぎて講習が終わると身体に疲労とストレスが蓄積していることに気付く。iphoneアプリのMOVESで振り返ってみると、1日のうちに小さなエリアをグルグルと1万歩近く歩いていたりする日もある。具体的に街で何をやるのかはその時その時で全然違う。出会ったばかりの講習生が見ているまえでナンパした女の子とセックスしたりすることもあれば、あらかじめ予定にあった彼のデートについていって一緒にご飯を食べてはみんなでセックスしたりすることもある。ぼくのセフレを紹介して一緒に飲んだりもする。カフェで2人で話し込んだり、洋服を買いに行ったり、美容室に行ったり、一緒に銭湯に行ったりもする。スポッチャに行ったこともある。女が絡んでこないこともけっこうあるけど、焦点は実は女にはない。ぼくの認識では、これは講師と講習生とが主体のアクティティなのである。

役割というか機能的にぼくがやっていることをとらえるなら、これは非常に危うい。ようするに確固とした役割を担っていたのかどうなのかわからない。ぼくは3年半の間、終始自分のやっている事に役割を見出すことに非常にこだわったが、結局のところ継続的にうまくいったのかは自信がない。最終的に自分の役割は「ナンパ技術の継承」ということでいこうという非常にベタで保守的なところにおさまった。この現代の社会においてナンパ、つまりセックス獲得の技術にはジェネラルな価値があり、それは人から人へと継承可能なものである。ぼくがそれでいこうと決めたのには、こういった仮定の前提がある。身近で似たようなものといえば受験予備校がそうである。ぼくはざっくりいうと異性獲得専門学校(男子校)になろうとしていた。

ナンパ講習は結局マッチポンプみたいなものといえばそうである。ゴミをまき散らした当の本人が「ほら、きれいに掃除したでしょ」とドヤ顔して見せたところでそれは役割を持ったということにはならないはずだ。おまえなんて最初からいないほうがよかったではないか。ナンパ講師は、インターネットで羨望を集めたり希望を語ったりして集客をする。もう少し煽り要素が増えると、誰かの不全感や劣等感をあえて引き出すように集客をする。だけどぼくが不全感や劣等感を煽らなくったって、社会全体がそういう構造になっているわけで、潜在的需要はたくさんあるのだから、この仕事を続けたいなら自らの手で煽ったほうが実はよっぽど効率がいい。講習に来る人で、成長する人は驚くほど成長する。しかし成長する人がそのナンパ講習のおかげで成長したのかというのは、実は非常に断定しづらいところなのである。その逆に、講師が余計な働きかけをして彼らに好影響どころか悪影響を与えてしまうという事例は非常にわかりやすく存在する。ぼく自身も不要に介入した講習がたくさんあったように思う。しかしそれでも彼らはその後もそれなりにやっていく。そういうわけで一回一回の「ナンパ講習」の中身というのは非常にボンヤリとしたものであると言わざるをえない。どれだけ自分で声高らかに講習の存在意義を主張したところで、それは非常にもろいものである。結局のところこの仕事がまがりなりにも3年半も成立していたのは、ぼくのところに人が来続けていたからだということに限る。ようするにぼくには実力に関係なく人気があった。意図的なマーケティング宣伝というものをほとんどやっていない(正確に言うと一度だけ恋愛工学生に対して見るに見かねてそれとなくアプローチしたことがあった)にもかかわらず、多くの講習生たちがぼくのブログyoutubeなどを見てやってきてくれた。そして彼らが賛否含めて講習の様子を記してはブログtwitterなどにアップしてくれたおかげで、さらにたくさんの人たちが集まって、それで講師としての腕を磨きつづけることができた。それらのフィードバックを読むのは自分にとってはいつも非常に苦痛に満ちたものであったのだが。(録音された自分の声を聴いてるような感じ)



講習をはじめて1か月くらい経った頃、この仕事をきっちり安定的に継続していくには強固な信念が必要なのだなということに気づいてしまった。信念というとあれだけど、人間観と人生観というか。そういうものをみずからが信じたうえで、講習に対して強い想いがないならば、このアクティティは絶対に務まらない。これはもちろん、杓子定規な浅はかな信念ではいけない。現実に根差さない思春期特有の誇大妄想のような信念では数をこなすとすぐにボロが出てしまう。そんなんでは人と対峙することなんてできやしない。信念のないナンパ講習は脆い。逆にいうと、強固な信念さえあれば、それがいかに偏った、一般的には受け入れがたいものであっても、スクリーニング次第では講習は成立しうる。なぜなら講師はそういう類の信念でもってこれまでこの世の中を渡ってきたのだから。その事実こそが強い説得力になる。ぼくはもともと偏った人間で、ひとりよがりの信念があった。が、なにぶん社会経験が未熟すぎたために、この信念は非常に粗いものであった。ぼくはただただ信じていただけであった。くわえてそれを他人に伝える時の態度というものが非常に未熟であった。それが20代の間にやっていたナンパによって少しずつ磨かれ、圧し折られ、形を変え、耐久性を持ち始めた。ナンパという形で「対人関係」をこなし続けることで、ぼくの問題意識はよりミクロな個別の視点にのみフォーカスが当たるようになった。ぼくは社会全体に対する視座というものを少しずつ失っていった。要するにすべては各論になり、球状だった思想は分裂してアメーバー状へとなっていった。それからナンパ講習をはじめて、ナンパの時よりももう少し深いところで、ミクロな視点を維持したまま人と関わるようになった。そういうわけでぼくの講習生活は、ナンパ生活に続く、この対人に対する信念の変遷の歴史でもある。講習をやっている中でさらに少しずつ自分の人間観というものが磨かれていく。そしてこれは特筆するべきことだが、その多くは、一般にナンパする時によくみられる、何かを成し遂げ信念を強固にしていくという形ではなく、自身の信念の過剰を認め変形していくという形で磨かれていった。出会いというのは結局そういうことなのだろうか?そうしてそれによってぼくの講習のスタイルも変化していった。この先、何かを教えるということをあえて職業にすることはもうないだろう。




ぼくの講習スタイルの変遷

現在セミナー等いろんなところで話しているのだが、実はもともとはナンパを教えるつもりは一切なかった。どちらかというと苛立ちの心でもって既存のナンパ講習というものを外側から眺めていた。苛立ちの原因はそれらがぼくには非常に汚らしいものに見えたからだ。ぼくはただの野生のナンパ師だった。20代前半の頃はずっと一人でナンパをしていたが、ちょっとした虚栄心からこのブログ『性とナンパについて渋谷で考えた』を書きはじめたのが、2010年の夏。退屈していたのだろうか、USTREAMにてインターネットに顔を晒したのが2011年。2012年までには徐々にネットでナンパに興味をもつ男性たちの集まりがわかりやすく可視化されつつあった。狭い界隈ではあったがぼくはそこで名を上げるようになった。その頃にはぼくの関心はナンパとは違う別のところに移っていたが、自分のもとには「ナンパを教えてほしい」という直接的あるいは間接的要請が断続的に届いていた。けれどぼくはその声をずっと意図的に聞き流していた。人に何かを教えるということに直観的な忌避感があった。それはその時は言葉にはできなかった。なのでずっと「やらない」とやんわり断り続けていた。しかし2012年夏、宮台さん高石さんとのトークイベントがきっかけで講習に踏み切ることになる。自分自身の対人経験の未熟さというものを痛感しての決心だった。イベントが終わった後、自分は脊髄反射的に講習を始めたのだ。ぼくはより洗練された「他人と接する態度」というものを自分なりに模索していたのだと思う。自分の信念などは一度捨てさろう。講習は自分のためにやろうとひっそりと決意した。


出会いの指導

自分のためになにかをやるということが、そのまま仕事として成立するということはあるのだろうか?ぼくは暗中模索極まっていた。youtubeに声かけ動画を上げていたせいか、ぼくのところに来る人には声かけをやりたいという人が多く、最も初期の頃は、俗にいう「オープン講習」というものをやっていた。彼らと一緒に路上に出て、女性に声をかけるのを後ろからそっと見守るような。そうしてこれが時として奇跡的な効果を生むことがあった。講習を始めて、一番最初の人のことがいまだに忘れられない。彼とは2時間くらい街を彷徨った後、終わり頃の時間に彼はおそるおそる話しかけた外国人の女性と路上で出会って、そうして束の間身振り手振りで会話をして帰ってきた。彼はこれでもかとばかり目を輝かせていた。その間の15分ほどの体験の興奮と感動を隠そうとはしなかった。来たときの情けない不安そうな様子とはかけ離れた姿で彼はまばたきをしつづけた。これだ、これだ、これだ、これだ、ぼく自身が声かけにはまったのはまさにこれだった。ぼくはたぶんその時じぶんのことを思い出したのだろうか。これは最高だ。最高だ、最高なんだ。やるに値することかもしれない。調子に乗ったぼくは翌日に来た2人目の講習生を真夏の真昼間の渋谷で歩かせつづけた。彼はなかなかそういう女性とは出会えないまま、熱射病でぶっ倒れてしまった。

傍から見ていて、男と女が路上で確かに「出会ったな」と感じる瞬間がある。そういう時はいつだって当人もそれを感じている。人というのは、路上で誰かと出会うだけでこんなにも感動してしまうのだった。ぼくはそれが嬉しくて嬉しくて、誰かと誰かが出会うことだけを指導の目的にしていた。ただただ指導の時間内に誰かと出会うという体験をしてもらうこと。時間内に出会えたら指導は成功、出会えなかったら指導は失敗。そういう枠組みの中でやっていた。そしてうまくそれが起こるためには必要なコンディションがあるということに気付いた。それで自分は触媒的な役割に徹することにした。「あと少し柔らかくなると何かが起こるかもしれない」「今日は街の雰囲気が非常によい」「あと少しで何かが起こるはず」「あぁダメだ、なにか今一歩遠ざかった」ぼくは講習中に彼らを見ながらいつもそんなことを考えていた。そしてそういう状態に近づけるためにはどういう働きかけをすればいいのかなということを毎日考えていた。それには他人に対する持続的な集中力を必要とした。ぼくは4時間も経つと必ず疲れ果てていたが、「シンジさん、ナンパってすごいですね。」と言いながら帰っていく人たちを「おお、そうかそうかそうだろそうだろ」という具合に興奮しながら見送っていた。


身体の使い方

しかし、そのうちにだんだんと「オープン講習」の限界が露呈するようになってくる。ぼくはそういう「出会いの体験」というものに価値を置いていたのだが、彼らにとっては、どうやらその価値が疑わしくなっていったようだった。ぼくの指導中にあきらかに感動して帰って行った人たちも、ほとぼりが冷めてしまうとナンパ自体をやめてしまうことも少なくなかったし、それならまだいいのだが、その後1人になった時に声がかけれないといういわゆる地蔵問題に悩まされているようだった。なまじ衝撃的な出会いを体験したがゆえにナンパにはまってしまった人たちを生んでしまった。もうこれはぼく自身いくところまでいくしかないなと思った。ぼくはこのあたりから「地蔵」というわけのわからないテーマへと没入していく。みんなが困っていることをおおまかに分けると、ひとつは身体の使い方の問題、もうひとつはトークスクリプトの問題だった。そうして、エネルギーが自然と外側にあふれて出て他人を震わせるような声かけ、それを達成する身体コンディションを指導の時間内に目指すことにした。そしてその必然として、身体の問題や自意識の問題にも取り組むことになった。特になにかしらの恐怖症を抱えてやってくる人と一緒に街に出て声かけをする時というのは本当に集中力がいるし刺激的で感動的な時間になることが多く、ぼくはいつもそれを楽しみにしていた。

地蔵問題について:http://d.hatena.ne.jp/qqille/20130603/1370270839


当時教える側として講習生にどのように働きかければいいのかわからず、よく読み実践していた3冊の本がある。


これは発声の仕方についての本、すごく読みやすかった。適切に声が出せないという人、過剰に緊張してしまう人に対する指示の出し方というものの基礎をこれで学んだ。


演技のインターレッスン―映像ディレクターの俳優指導術
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この本のとあるパートは自分にとって画期的だった。非常にテクニカルな本であった。演劇指導者(ディレクター)にむけた俳優への指示の出し方の本。当時はぼくは、ナンパ師と講師との関係を、俳優とディレクターとの関係に重ね合わせて考えていた。声かけは演劇の舞台であり女の子は共演者で通行人は観客である、とそんな風なことを考えていろいろなところで発言したりしていたら俳優の人たちが興味をもって何人か指導を受けに来てくれた。演劇のワークショップにもいくつか通ったりした。もちろんこのブログでずっと売れ続けている竹内敏晴さんの本、「からだ」と「ことば」のレッスンはいつも家に置いて定期的に読んだりしていた。


それから最後にアレクサンダーテクニーク。イメージと身体動作の関連性について常にウンウン悩んでいた時期だったので、この本は最初読んだときめちゃくちゃ感動して京都に住んでいる著者のもとに会いに行った。1度目、ぼくは彼女のワークをうけてみてピンとこなかった。なにかがある予感がしたが、いかんせん満たされなかった。ぜんぜんぜんぜん足りないと思った。もっともっといろいろ教えてくれと思いながら帰路についた。2度目に会いにいったときに、彼女はぼくのことを「非常にせっかちなひと」だとそれとなく伝えて牽制してくれた。たしかにそのとおりだった。当時はとてつもなく焦っていたのだろう。ぼくは血走った目で安易に既存のフレームワークに頼ろうとしていたのだ。はやくこの暗中模索なところから抜け出して、なにか見晴らしのいいところに立って口笛でも吹きたかったのだろう。

結局のところ他人に身体の使い方を指導するには、自分自身が身体鍛錬を地道に積んでいないといけない。働きかけ以前の問題である。しかしぼくのナンパ声かけがうまいのは、無意識にそういった身体の使い方ができたからであって、それは生まれ持った素質と経験の豊富さからくるものに過ぎなかった。ぼくができることと講習生ができることとのあいだにある深い溝はむしろ問題ではなく、誰かが何かを「できないこと」と「できるようになること」の間にある溝が問題であったのだ。こういう問題意識から、京都では1か月に1度、1年間にわたって自分の身体訓練のためにモチベーションワークというボディワークを開催した。また1週間に1〜2回の頻度で1年間奈良に「舞踏」を学びにいった。ぼくは自分の「できなさ」に焦点を当てることにしたのだ。今思うとぼくの企画はぜんぶがぜんぶ浅はかな思いつきで、そして荒削りなものだったが、いつも大きなベクトルの先を見据えていた。そしてその場その場で湧き出るエネルギーの多くをそこに注ぎ込んだ。ぼくは亀のような歩みながら少しずつ自分の目が啓かれていくのを感じていたし、それを講習で還元するのが楽しみでもあった。


スクリプト

もうひとつ、スクリプトの問題というのは、「何を話せばいいのかわからない」という講習生の悩みから端を発したものだ。もちろんぼくには答えがなかった。答えようがないのに開き直って講習をしていた。むしろひっきりなしに「何を話せばいいのかわからない」と尋ねられることに苛立ってさえいた。ぼく自身そんなこと今まで考えたこともなかった。よく考えたら自分が女の子と何の問題もなく話せるというのは驚きだ。いつからこうなったのかもよくわからない。やはりぼくは自分の中にある「うまく話せる」と「うまく話せない」の溝に意識をむけていればよかったのかもしれない。振り返ってみると、ぼくもトークイベントで自分が思ったことがうまく伝えれなかったことがあった。そこにヒントがあった。昨年末にはLAに行ってナンパをしたときに言葉がうまく口からこぼれ出てこないという屈辱的な体験をした。久しぶりにぼくは自分が日本でナンパの初心者だったときのことを身体で思い出したのだった。しかし講習生からそういう相談を受けたときはそういうことに気づけないでいた。それで「よし、おれが連れ出しまでのトークスクリプトを全部用意する」という非常に浅はかな発想でルーティン稽古というものを始めることにした。当時の恋人や知人の女性がそれを手伝ってくれて、渋谷の宮下公園で講習生たちと一緒になって演劇の練習のような形で会話の出稽古をやったりした。ひとつの実験的な企画ではあったが、この試みは控えめに言っても失敗に終わった。しかしぼくはこの稽古によって、同じ初めてのセリフであってもそれを自然と口に馴染ませることができる人とできない人とに分かれるということに気付いた。口に馴染ませることができる人というのは、すでにメンタルにそのセリフの準備ができている人だった。それから同じセリフを言っても、連れ出せる人と連れ出せない人が外見や雰囲気によって顕著に分かれるということにも気付いた。そして連れ出せる人というのは、そのセリフを吐かなくても連れ出せてしまうのだということも。こうして少しずつ、ぼくは会話の実際の内容よりも、講習生の外見とそれからメンタリティの成熟度というものを重視するようになっていく。

ルーティン稽古:http://d.hatena.ne.jp/qqille/20130707/1373222503


アスペルガー

スクリプトと関係することだが、その頃講習生に多かった悩みに「シンジさん、ぼくはアスペなんじゃないかと思うんです」というものがあった。正直ぼくはアスペルガーについて何も知らなかったが、彼らの話を聞いているうちに、なんと自分にもそういう部分はおおいにあるなと思い、俄然興味を抱くようになった。彼らのコミュニケーションの特徴は他人を不愉快にさせることにある。いわゆるKY、空気が読めないというやつだ。たとえば「シンジさんの彼女ってどんな人なんですか?」と尋ねてきて、写真を見せたらガッカリしたように「シンジさんの彼女にしては普通の人ですね。」と言ってきたりする。それならまだいいほうで、一度など嬉しそうにはしゃぎながら「正直勝ったと思いました!」などと言われたこともあった。これはさすがにイラっとしたが、「ふざけんなよこの野郎」と本気のトーンで言ったら深く傷ついてしまったりする。菩薩のような心を持っていないにもかかわらず、やすやすと無防備に写真を見せた時点でぼくの悪手なのである。ぼくは彼らに対する働きかけ方を模索するようになった。

アスペルガー症候群への解決志向アプローチ―利用者の自己決定を援助する
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一度実際に障害者認定を受けた人が講習を受けにやってきたことがあって、そのときにぼくは彼の他人との接し方に感嘆させられた。しかし生活は困難を極めているようだったし、周りからも驚くほど傷つけられていた。ぼくは彼をきっかけに上記の本を読むようになった。これはアスペルガーを治療するための本ではなく、彼らに対する働きかけ方について書かれた本である。しかし彼のような人間はそうめったにはいない。アスペというのは程度の問題なのである。誰もがそれぞれの程度においてアスペであると言ってもよい。心配性の人たちは若い頃からちょっとした他人との軋轢などをきっかけに真剣に対人コミュニケーションについて悩み始める人もいる。あの時あのタイミングでされたそこまで仲良くない同級生からの舌打ちなどが喉の奥にささった小骨のようにジンジンしている、というのはよくある話だ。反面、おおらかでゆったりしている人たちは、なし崩し的に迎えていた恋愛や結婚などの人生の一大イベントが決定的にうまくいかなくなり自分の人生の行く先に暗雲に立ちこめるようになって、はじめて他人というものを意識しはじめる。そこではじめて自分のコミュニケーションのやり方を疑問視しして、やっと重い腰を持ち上げるのだ。30を越えてナンパを教わりにくる人たちにはこういう人が多い。彼らは集団において空気を読むという感覚に非常に不安があるため、1対1のアドホックな関係に救いを見出すようになりストリートに流れ出す。そういう人たちが自分のことをアスペなんんじゃないかと疑うわけだが、しかしアスペというの自己に対する巧妙なレッテル張りである。ぼくが見てきた自称アスペのほとんどは、ただただ他人に慣れていないだけで対人集中力が圧倒的に低いことに問題があるだけであった。KYというのは現代の病のように言われているが、これは地道な訓練によって改善するということである。この信念はぼくが講習を続けていくうえで非常に大きな励ましになり、これまでの声かけ重視の講習から声かけ以降の対人プロセス、いわゆるなごみというものに目を向け変えるきっかけにもなった。


指摘、アドバイス

路上に出る前はカフェで1〜2時間ほどじっくりと話をするのが初期のぼくのスタイルだった。なぜそれをしたかというと、ぼく自身が不安だったからだと思う。最初に会話を重ねることでその人の内面を最初に少しでも実感としてもっておきたかった。ある程度の信頼関係を築いておきたかった。それからこれは後から気付いたことだが、じゅうぶんに会話を重ねるとどんな不愉快な態度をとる人であっても、その人自体のことは嫌いにならずに済んだ。彼らは本当のことも嘘のことも含めてたくさんのことをぼくに話してくれた。ぼく自身はそれに熱心に耳を傾けた。短期間のうちにこんなにたくさんの男の人たちの話に真剣に耳を傾ける機会はもうこの先ないだろう。聴いてみると、みんなそれぞれ生活の中で不全感を抱えていることが明らかになった。こうしてぼくは彼らの生活へと立ち入っていくことになる。さらに話を聞くことに加えて、ぼくはいつも彼らに自分が思ったことを指摘したり、さらには踏み込んでアドバイスしたりするようなことをしていた。これこそが今思うと神をも恐れぬ所業であった。これは彼らが概ね非常に望んでいることではあったが、いわばぼくの無意識の癖でもあった。しかもぼくの底の浅い人間性がそのまま相手に露呈するような癖であった。彼らがぼくのアドバイスをありがたがっている様は一歩引いてみると非常に滑稽だった。ぼくのアドバイスはいったいどのような形で機能しているのか、てんで見当もつかない状態だったが、はたしてそれではアドバイスの代わりにいったい何をすればいいのかもよくわかっていない有様だった。

とある講習生との出会いをきっかけに、ぼくはじぶんのこのスタイルにはっきりと疑問を抱くようになる。彼らに何かを指摘するとき、ぼくは別に彼らの鼻を明かしてやるというような気持ちはなかったはずだ。しかし信頼関係がない状態で力関係が圧倒的に強い人間が弱い人間におこなうアドバイスというのには害があるということをそのときに強く思い知らされた。言ってみればそれはただの強い北風である。それを力でもってゴリ押ししてしまうと関係はこじれ相手はふさぎ込んでいくばかりであると。「指摘」や「アドバイス」という形で無意識のものを意識の俎上にあげるということの意味をぼくは意識的に根本から捉え直す必要があった。いくばくかの時間を経て出した結論は、それには全く意味がないということだった。ぼくはそれ以降、カフェで指摘やアドバイスを無意識にしてしまったとき、自分を恥ずかしく思うようになった。もっと根本に立ち返ってぼくがやるべきことはなんなのかを考えたとき、きちんと信頼関係を結ぶことがそれだと思った。しかし、信頼関係を築くためにはぼくはもっと自分のことをちゃんと話さないといけなかった。少なくとも彼が望むレベルまでは、正直に話さないと話にならない。ぼくは講習生からの話には丁寧に耳を傾けたが、彼らが知りたがるような自分自身の話をとりだすのは非常に困難な作業だった。そして初対面の人間全てにそれをするという精神的キャパシティも、人をみて選択的にそれをするという技術的キャパシティも、ぼくにはまだないかもしれないと不安に思った。なので、それのかわりに講習のフォーカスは「ナンパの技術を叩き込む」という側面に傾きだしたのである。つまり人格の信頼ではなく、技術の信頼を目指すことにした。それによって仕事はより機械的なものへとうつっていき、それに応じてカフェでの対話の時間というのも少しずつ減っていった。今思うとこのあたりから「教える人間」としての堕落が始まっていたかもしれない。


選別と育成のはざまで

どんなバックボーンの人であれ、根本的な悩みは「自分に力がない」ということに尽きる。特に男子は最低限の力すらもてないなら、恋愛の土俵にすら上がれない。まともな賃金すら得れない。自由を手にすることはできない。ここに非常にわかりやすく問題が集約されているなと思った。俗にいう「非モテ問題」である。非モテ問題は個人によってさまざまな形で顕在化する。けれどもぼくはもう個別にはそこまで立ち入らなかった。なぜならみんな原因は同じ「力の無さ」にあったからだ。ぼくはインフラを担おうと思った。人格を売りにするのではなく、技術を売りにしたかった。そして自分の役割を明確に限定したかった。能力が限定されている以上、役割も限定しないといけないのは当然のことだ。そしてインフラを担うという一見地味だが大変な作業を引き受けているときが、自分が一番充実した時間を過ごすことができた。

「この人は一体どういった選択をすればナンパがうまくなっていくんだろうか。」そのことにフォーカスをあてるようになって、ぼくは現場での戦術から大域の戦略面にまで躍り出て口出しするようになったのである。うまくいく人はぼくがちょっと働きかけただけでうまくいくようになる一方で、ダメな人はぼくがどれだけ手を尽くしても手ごたえがないこともあった。これは個人の素質の問題なのか?それとも僕と彼との相性の問題なのか?ぼくは当時は前者であるという判断を下した。講習中に彼らのナンパの素質について陰に陽に彼らに言及することがあったが、しかし自らの講師としての素質については言及したことはなく、後に彼らからブログtwitterなどで無能さを暴露され断罪されることも多くあった。しかるに素質というものが絶対の指標ではないということもぼくは信じていた。そこに自分のリソースをじゅうぶんに注ぎ込めば克服できるものに違いない。ぼくは誰よりもあきらめの悪い講師であった。彼らが取り組み続けるかぎりは限られた時間の中で根気よくつきあうつもりでいたが、なにぶん圧倒的に働きかける時間が足りないと感じていたし、結局そのような人たちは講習になにか齟齬を感じたのか2回目以降には来ることも少なかった。もちろん2回目以降も来続ける人はいた。ぼくは技術を伝えたかったが、彼らが必ずしもそういうものを求めているとはかぎらない。そういうわけで少しずつ、自分がやっていることは結果的には人材の育成ではなく選別になっているのではないかという懸念にさいなまれるようになった。会社や軍隊などという目的ありきの組織においてなら、適切な人材の配置という意味では人を選別をすることこそが重要なのかもしれないが、ナンパ講習で人材を選別をしてやっていくというのは本末転倒すぎないだろうか。インフラを担うという大きなことを考えていたくせに、結果的には、ぼくは費用対効果の経済活動の中に自らが少しずつからめとられるはめになっていた。ぼくの講習はもはやビジネス活動というよりほかになくなっていたのである。それでぼくはツアーを始めることになる。

また自分の講習がそういったビジネス的なものへと徐々にシフトするようになってから、ぼくは自分の「ナンパ師」としての能力の欠陥のようなものが気になるようになった。ぼくは明らかにナンパ師として偏っていたが、その偏りを今までは特に気にしたこともなかった。能力的な欠陥すらもどうでもいいものだった。しかし一度気にすると周りの優秀なナンパ師たちのことが気になってくるようになる。それでぼくは自分の中の不安要素を消したいがために、たくさんのナンパ師たちに会うようになったし彼らと一緒にナンパをするようにもなった。強い目的意識があれば多少の違和感に目をつぶりながら人と接することなど容易いものだ。流星さんという、その道の職人のような人のところへ門を叩いて教わりに行ったこともあった。そうしていく中で、いいことなのか悪いことなのかわからないけれど、ぼくはこのマーケットの要請にさらに耳を澄まし始めた。自分自身という限られた人材を使って大きくナンパ講習の成果を出すためには、育成よりも選別のプロセスを重視したほうがよいのは明らかだった。つまりは量産型ナンパ講師への道をたどる腹を少しずつ決めるようになったということだ。そしてそれに応じてインターネットでは少しずつ沈黙することが多くなっていった。もはや不特定多数にむけて伝えることが何もなくなってしまっていたのだ。


コミュニティ、ツアー

後期のころは、長期的に面倒を見る講習スタイルと、「ツアー」との2段構えでやっていた。講習ではもう以前に比べて彼らの内面や生活にはあまり深く立ち入らないようになっていた。技術向上の意図があるもの、もしくはその可能性を感じれるものだけをひきうけ、1回限りの講習では目に見えた安定した成果は見出しづらいため長期的に面倒を見ることができる人だけをなるべく選別することにした。「技術を叩き込む」というかなり機械的なプロセスを担当するようになったのだが、これも人によって扱い方に柔軟さが要求された。どういった段階でどういった技術を叩き込めばよいのか、個人のメンタルの成熟度に応じて、その手順・アルゴリズムといったものにぼくは敏感になっていった。ネットナンパ、クラブナンパ、合コン、バー、納涼船、早朝のストリート、そして合宿。場合場合におうじて、ぼくは時間効率を重視して必要だと思うものはなんでもやるようにした。ぼく自身は時間効率を度外視したナンパをしてきたというのに皮肉なことだ。長期戦略の見通しは少しずつよくなっている自負はあったが、それでもやはりぼくのナンパ講習はずっと肉体労働の要素が大きかった。愚かにもぼくは基本的には全部ひとりでやった。後継の講師を育成することに失敗したというのが原因のひとつだが、自分が街に出ていないと安心できなかったというのもある。

クラブナンパ講習:http://d.hatena.ne.jp/qqille/20150311/1426072530


また複数人を長期的に面倒見るということは、コミュニティ形成を担うということを意味している。ぼくはなにかしらの一連の技術獲得においてコミュニティがなす重要性というものを初期の段階でしっかりと認めていた。しかし、自分が中心になってコミュニティを作るということがどうしてもできずにいた。なぜだか人は集まってくる、だけどそれをキープできない。正確にいうとそれはぼくにキープ欲がほとんどないからなのであった。というわけで、最初のうちは一度面倒をみた講習生たちを既存のコミュニティに放り込むことを心がけていた。毎週末金土の夜になると渋谷六本木の街に出てナンパに励むような、すでに存在するナンパ師コミュニティのなかでうまく適応してくれたらありがたい、という非常に浅はかな願望であった。これはたまにうまくいくこともあったが、多くの場合はうまくいかずに終わった。ぼくのところに来る人はゆるやかな横のつながりを築くことに難がある人が多かったのだ。それは面白いほどにぼく自身の気質を反映していた。無理にコミュニティを作ろうとしたこともあって、自分で言うのもなんだが、なんだか非常に寄せ集めの何の統一感もないような集まりができてしまったことがあった。到底コミュニティと呼べた代物ではなく、誰も何も存在感を発揮しなかった。ぼく自身も存在感を発揮していなかった。すぐに「これはちがう、コミュニティというのはこういうものではない」と考え直し解散するに至った。そういう失敗を2度ほど繰り返した。半分くらい冗談で宗教法人を作ろうとも考えたが、ぼくごときが必死に頭をふりしぼって教義や経典をつくったとして、その思想が10年も生き残っているとは思えなかったし、ぼくはどのような既存思想にも系譜していなかった。「経典の寿命は人の一生より長くなければ宗教としての意義は皆無である」というマジの意見を友人から吹聴され、たしかにそれは尤もなことだと思った。ぼくはコミュニティ形成の面においては非常に出来の悪い講師であった。

それからツアーについてである。前述したとおり、長期講習には「明確に技術向上の意図があるものだけをひきうけよう」という意図があったのだが、しかしぼくのところに来る人たちというのは、実はその意図が明確にないものがほとんどだった。彼らにはもっと漠然とした不全感しかなかった。くねくねしていた。彼らはナンパの技術を身につけるにいたるまでに相当な労力をかけることが必要だと思われる人たちだった。ぼくはいつのまにか、そういう人たちにナンパを盲目的に勧めるということができなくなっていた。今はもっと違うことをやったほうがいいのではないかと思うようになっていた。かといって彼らを突っぱねるということがぼくにはなぜかできなかった。結果として「体験をうながす」といったような、ものすごく微妙な、働きかけを試みるにとどまった。「微妙な」というのは、その価値に定量性がないということだ。定量性がないと不安になる。プラス周りからの批判にもさらされかねない。そういうわけでぼくはツアーを発明するにいたった。ツアーは名目上はぼくといっしょにいる時間を売るということになっている。ぼくは講習とはちがい、自分の費用対効果を度外視して彼らにとことんまでつきあう。ぼくはなるべく素の状態でいることを心がける。ナンパの技術は気分が乗らないと教えない。ツアーは具体的には、女の子と飲んだりセックスしたりする以上に、山に登ったり、温泉につかったり、ヒッチハイクをしたり、舞踏をしたり、ホームレスと飲んだり、ギャンプルをしたりと、ぼくがそのとき興味を持っていた九州の探索につきあってもらうといった具合で進行することが多かった。実際、3回にわたる九州ツアーはぼく自身の「体験をうながす」という役割も担ってくれたし、非常に深く満足のいくできばえであった。ナンパ講習を始めた頃の、やばい!!これはなんだ!!という感覚をこのときもたしかに味わったのだった。しかしまた時間が経つにつれて、自分のなしたことがどういった価値をもつのかを疑問視するようになった。興味深いことにツアー参加者たちは、帰ってきてからナンパに従事しなくなることも多く、それならそれで別にいいのだが、それなら、彼らはツアーに行く前とでは一体何が変わったのだろうかと。そして、ぼくはツアーだとか大層なことを言ってるが、もしかしたらこれはただただ俗にいう「友達になる」というプロセスなのかもしれないなということにも気づき始めていた。講習生はぼくと友達になりたい人が多かった。友達になる仕事だなんて馬鹿げている。「果たしてツアーとはなんなのか?」まだまだ追求の可能性がある。


講習の終わり

2014年の夏にふとしたことから恋人と別れて対人に対する情熱というものを失ったとき、ぼくは講習を3か月ほどストップしている。その間にたくさんの講習メールがきたが、どうしてもそれらのメールをみることができなかった。これはもうダメかもしれないと心がグシャグシャだったが、自分の生活を立て直すためにもなんとか仕事だけは続けなくてはいけないと思った。しかし潮時が来ていたのは明らかであった。たくさんの講習生たちと中長期のあいだ関わらせてもらう中で、ぼくには男性が経ていくプロセスというものが局所的に見えてくるようになった。そしてその局所局所をつなぎ合わせたときに立ち現れるパターンというものが明確にあった。他人に働きかける技術というものには限りがなかったが、成長プロセスのパターンには限りがあった。量産型の講習においては、この人はどれだけのものを投下すればどのように変わっていくかという見積もりを出して、あとは相手モチベーションを高めながら柔軟性をもって毎度それに対峙していくだけだった。ぼくは予備校をやることにやる気を出すのが困難になっていた。それからいわゆる「弟子」が増えていくことにも不安感があった。「技術の継承」というものをぼくの講習の中核においていたものの、結局それは建前であって、現状はそういうプロセスと同時並行して、「精神的な支柱」の役割も担っていた。ぼくは講習生から「師匠」とよばれることも多く、それはナンパに限定したものなら全然よかったのだが、影響は広範囲にまで及んでいた。全国にぼくの弟子を名乗る人間が少しずつ増えていった。ぼくの発する一言は、それがたとえナンパに関係ないものであっても、彼らにとっては非常に重いものになっていた。もちろんぼくは自分が実際に彼らのロールモデルになっていると勘違いするほど自惚れてはいない。ぼくが懸念していたのは、ぼくに対する精神的な想いの強さであった。ぼくは愛されていたし憎まれてもいた。彼らの想いは少しずつ少しずつぼくにのしかかっていき、ぼくはだんだんと自分が鈍重な人間になっていくのを危機感を持ちながら感じていた。

そして2015年の夏、ついに「今年いっぱいで講習をやめる」と宣言することになった。次に何をするのかも全く決めていない状態だったが、公に宣言しないと抜け出せそうになかったのだ。半年間という猶予を設けたのは、ぼく自身がどっぷりと構築していた講習生との関係を少しずつ解消していくためである。案の定、何人かからは大きな抵抗にあった。最後の半年間は自分にとっては地獄であった。さながら後味の悪い撤退戦のような日々だった。ぼくはこれまでの3年半を何度も振り返った。そして最後の最後に異様な好奇心が頭をもたげた挙句、講習生飲み会を東京大阪福岡の3都市で4度にわたって開催することにした。そこでぼくは自分がしてきたことを目に見える形で確認したかったのだろう。集まってくれたのは講習生のごくごく一部であったが、飲み会を催したのは本当によかったと思う。別に特筆するようなことは何もなかったが、彼らのなにげない様子を見てなにか肩の荷がふっと降りたような気がした。もしあのとき夏にスパッと講習をやめていたらどうなっていたのだろうかと時々考えたりする。

講習中は無理にアッパー系を装っていたが、この3年半ベースの気分は常にダウナー系であったように思う。そういうよくわからない不規則なリズムの中で生活をしてきた。もともと人から精神的なものをもらいやすい人間だが、今まではそれを自然にうまく回避してきたのだろう。しかし講習生からはあえていろいろ精神的なものをもらってぼくはそれを自分の中にしこたま蓄積させてきた。たまにオーバーフローして活動フルストップ、そしてまた復活という具合。陰鬱だが非常に充実した日々であった。好奇心でどれだけ太いうんこが出せるか知りたくてアナル拡張を長期間やり続けてきたようなものだとも思っている。ぼくの焦点の一端は拡張にあったと言っても過言ではない。今年の1月、講習をやめた直後というのは頭部が石のように重かった。次は一体何をしようかという手探りの状態で、毎月台湾に行ってぼんやりしているうちに徐々に頭が軽くなっていった。そのうちにいろんなことをするエネルギーがどこからともなくモリモリと沸いてきたとき、これはようやく尻が洗われたんだなと思うに至った。ぼくはひとつのアクティティというものをスッパリきれいに終えれない人間なのだろう。それが深くコミットしたものであればなおさらのことそうだ。おしまいの事実を受け入れるのに膨大な時間を要する。未練がましい粘着体質ということである。出会いには必ず別れがあるとぼくは舞踏で教わった。出会いの瞬間と同じくらい、別れの瞬間を大切にしなさいと。しかし少なくともぼくの中では出会いと別れというのは対をなすものではない。別れの瞬間などはなく、それはいつも「もうやめて」とばかりの多重グラデーションでやってくる。やめる準備をして、やめて、やめたことを徐々に受け入れていく。それでもまだ完全にはピンとこないからこのブログを書いている次第である。現在セミナーをしながら成果物を吐き出しているのもそういうことなのかもしれない。



その在り方を損なわないようなやり方

最後に一人だけ個別の講習生の話をする。初めてぼくの講習に来たとき、彼はまるで正気を失っていた。渋谷ハチ公前にて待ち合わせをしたのだが、彼はハチ公銅像の上に便所座りで座って皆を見下ろしながらぼくを待っていた。講習の序盤、彼はぼくからの働きかけのほとんどに反応しなかった。そこには抵抗というものすらなかった。言葉が通じないというと、外国人との会話を想定するかもしれない。しかし外国人ともなにかしら通じ合う感覚というのはある。彼との場合、同じ日本語を話しているはずが外国人よりもさらに一段階深いレベルで通じなさがあった。しかしごくたまに何かが彼の中に入っていくときがあって、そういうときはたどたどしい反応がかえってきた。またあるパターンをもった言語的な働きかけには自動的に身体が反応する習性をもっていた。ふとぼくは彼の瞳を覗き込んだ。そこでぼくは瞳の奥に非常に柔らかい光を見た。目を見て話しているとごくごく稀に彼の中で何かが反芻されて、非常に大きなリアクションが返ってくることもあった。カフェの店内や路上で急に大声で「ハーッハッハハハ」と笑い、まわりの人間を驚かせたりもした。ぼくは自分が恐怖を感じていることを悟られないようにするのに必死だった。半端なことをやったら返り討ちにあってしまうだろうなという直観があった。それでぼくは彼の瞳の優しさだけを頼りに街中で誠司さんに教えてもらった舞踏の鏡のワークをやった。このときほど自分が身体の鍛錬を積んでいてよかったと思ったことはない。終盤の頃には、当初は破片のように分裂したようにしか見えなかった彼の心とぼくは戯れるようになっていた。原始のコミュニケーションである。壮絶な時間であった。形こそ指導の形をとってはいたが、もはや教え教わりの関係と言えるかすら甚だ疑問であった。自分自身生き延びたという感覚を持ったと同時に、かなり奇跡的なところで彼と少しだけ出会えたなという感覚を持ったのだ。

おそらく同じような感覚を持ったのだろうか、それから彼は何度かぼくの講習を受けにくるようになる。彼は毎回、あの壮絶な時間を味わおうとして講習にやってきていたのだろう。ぼくも彼には少し愛着がわいていた。しかし、ぼくは控えめに言っても、ただのドエムの凡人である。毎回あんなことをしていたら体がもたなくなってしまう。ぼくは言語レベルでの穏便なコミュニケーションを望んだが、もちろん会話はぜんぜん成立しなかった。信頼関係は築かれ始めていたが言語での誘導はいまだにまったくもって不能だった。いろんな講習生や友人に引き合わせたりもしたが、彼の琴線が動いたことは一度もなかった。ある日彼がちょっとした迷惑行為で警察に捕まって夕方ごろに電話をしてきたことがあった。彼は受話器の向こう側で狂ったように叫んでいた。ぼくは何か言うべきだったのだろう、しかし腹から笑いが溢れてきて特に気の利いたことは何も言えなかった。警察云々はまったくもってどうでもいいことだったが、彼にとっては自分自身のコントロールを一時的にでも少し緩めて自由に振る舞うことができる唯一の場がストリートだったのだ。ぼくは彼に何かを言う立場にあったが、それを奪うようなことはとても言いづらかった。それでまたしても彼の瞳に賭けることにした。彼は電話越しに「人に迷惑はかけたが、けっして人を傷つけることはしなかったことを褒めてほしい」と咆哮した。

今ならはっきりとわかることだが、彼はまだ社会性だとか社交技術だとかを身につけるといった段階ではなかった。誰かと思いっきり戯れたかっただけなのかもしれない。しかし残念なことにぼくはそれには付き合えなかった。それどころか自分の思い通りにならない彼に少しずつ苛立ちを感じるようになっていった。何度も何度もぼくのところに腑抜けた顔をして何をするでもなくやってくる彼を憎たらしく思うようになった。ぼくはおまえの母親か?今度はおまえがぼくに応える番じゃないのか?これは忌々しきレベルでの精神搾取だと思った。それでぼくは講習にくるたびに彼をネグるようになった。今だからこそ振り返って反省もできるかもしれないが、そのときはそれ以外には何も思いつかなかった。彼のことを完全に拒絶するということもどうしてもできなかった。ぼくの歪んだ精神が、彼を受け入れては部分的に拒絶するというかなり捻くれたことを断続的に繰り返した。それ以降、彼はぼくが企画するイベントやツアーをドタキャンしたりするようになった。彼の不安の心中は非常によくわかった。言うまでもなくぼくは優しくなかった。とある日の夕方、電話がかかってきて彼がまた要領をえないことを滔々と言った。耳を澄ましたが内容があまりはいってこなかったので、ぼくはいつもやるように仕切り直して、それで自分の言葉でもって強引に解釈をし彼に確認をせまった。それによると「ぼくはもう自立を諦めたから、シンジさんに命をあずけるので使ってほしい」というとんでもない時代錯誤な内容だった。ぼくのナンパ講習は現代の都市生活の要請にこたえるような形で「ひとりの個人が力を蓄えて、精神的にも経済的にもある程度の自立を目指す」というような近代チックな命題を謳っていたはずだ。要するにこれはぼくのナンパ講習の挫折だった。人間の生き方に優劣をきめて成長だのなんだの勝手に型に嵌めようと実践していたのだから遅かれ早かれいずれ必ず挫折を認識する羽目になったはずだ。しかし驚いたことに、屈辱はまったくなく、むしろすがすがしい気分であった。これでまたひとつナンパ講習をやめる決意が固まった。だがそれとはまったく別の話で、ぼくには彼の命を扱えるだけの才覚はないだろう。電話で「とりあえず話をきこう」と言って漠然と後日会う約束をしたが、ぼくの声には戸惑いと躊躇いとが明確に表れていたはずだ。そして彼はその震えを間違いなく察知しただろう。結局彼はぼくのもとには現れなかった。ぼくは自分の震えを棚に上げて、自分のもとに現れなかった彼を直接たっぷりと非難した。自分の無能さを隠し偽りの抱擁でもってまた人に余計な介入をしてしまった瞬間であった。



次回予告:

1、ぼく個人が抱えていた課題について

2、仕事論 

3、総括

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