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ぐりぐりさんによる法華経の解釈のほとんどが須田晴夫著『新法華経論』のパクリではないかと指摘しました。匿名だからといって、人が考察した内容をいかにも自分が考えたものとして発表するのはまずいのではないでしょうか。ぐりぐりさんが『法華経の智慧』や須田氏の本をベースにするのはもちろん差し支えありませんが、先人の業績と自分の考察を区別するのは最低限のルールではないでしょうか。
ぐりぐりさんが真剣に教学を研鑽されている努力は素晴らしいものと思っています。ぐりぐりさんに対して悪意を持っているのではなく、健全な言論のためにも、パクリと言われてもやむを得ない行動は今後避けてほしいという趣旨です。
具体例として、ぐりぐりさんの投稿【如説修行と不軽菩薩の実践】2/9(投稿日:2016年 6月13日)と須田氏の本(『新法華経論』)を並べてみました。同一ないしは酷似している表現があまりにも多く、論旨も全く同一です。
【ぐりぐりさん】
不軽菩薩が伝統的な修行法である経典読誦を用いず、礼拝行に徹し抜いたということは、経典の表面的な意味に囚われることなく、経典の真髄を直接、相手に示すという革新的な手法ともいえます。
【須田本】
彼が経典の読誦という伝統的な修行を用いず、礼拝行に専念したということは、経典の表面的な意味に囚われることなく、経典の真髄を直接相手に示していく革新的な手法を採用したことを意味している。
【ぐりぐりさん】
また、人を礼拝するという行為は〝万人の生命に仏性が内在する〟法理を観念的・抽象的に語るのではなく、現実の行動によって実践しているといえます。
【須田本】
人を礼拝するという行為は、万人に仏性が内在するという法理を具体的な行動の上で示すものである。不軽は、法理を観念的・抽象的に述べるのではなく、現実の行動によって「仏性の内在」という法理を人々に訴えかけた。
【ぐりぐりさん】
しかし、増上慢の比丘、比丘尼、また在家の男女は、この不軽菩薩の言葉を受け入れず、反発して「杖木瓦石(肉体的暴力)・悪口罵詈(言論の暴力)」という迫害を加えました。
【須田本】
しかし、増上慢の比丘と比丘尼および在家の人々は、この不軽菩薩の言葉を受け入れず、かえって反発して、いわゆる杖木瓦石の迫害を加えた。
【ぐりぐりさん】
不軽品の後半・偈頌では、この迫害を加えた人々について「彼らはそれまでに形成されてきた形式的な教義や言葉に執着し囚われていた」と記されています。それに対して、既成観念に囚われない不軽菩薩は、万人に仏性が内在することを「礼拝・賛嘆」という具体的な行動によって、相手に理解させようとしたのです。
【須田本】
この迫害を加えた人々について、後半の偈頌では「法に執着していた」と説かれている。すなわち彼らは、それまでに形成されてきた形式的な教義や言葉に囚われていた。それに対して不軽は、万人に仏性が内在することを礼拝・讃嘆という具体的な行為によって相手に理解させようとしたのである。
【ぐりぐりさん】
考えてみれば、仏の教えが形骸化し、しかも増上慢が勢力を誇っている像法時代に、不軽菩薩の観念に囚われない修行法を用いれば、経典の権威に執着する勢力からは、強烈な反発や迫害があるのはむしろ当然といえます。しかし、不軽菩薩はあらゆる迫害を耐え忍び、難を受けるという「逆縁」の方法によって、人々を最終的に救済していったのです。これは従来の伝統的な救済法とは対極にあるものです。
【須田本】
既成観念に囚われない不軽菩薩に対して、従来の経典の権威に執着する勢力から強烈な反発・迫害が生ずることはむしろ当然といえよう。しかし、不軽はあらゆる迫害を耐え忍び、難を受けるという「逆縁」の方法によって人々を仏法に縁せしめ、最終的に人々を救済していった。
【ぐりぐりさん】
そもそも法華経における基本的な救済方法は〝逆縁〟ではなく〝順縁〟です。つまり、相手の機根(能力)や志向性に応じて法を説き、迫害を招くことを極力回避するものです。釈尊も多くの迫害に遭いましたが、その教化方法の基本は、相手の機根に応じてなされていました。しかし不軽菩薩が実践した方法は、相手の機根や志向性を配慮せず、迫害を恐れず、むしろ迫害を通して、相手に「仏縁を結ばせる」という逆縁の手法を用いたのです。
【須田本】
このような不軽の救済方法は、従来の伝統的な救済方法とは対極的なものである。従来の方法とは、基本的には相手の機根(能力)や志向性に応じて法を説いていくことで、迫害を招くことを極力回避するものであった。(中略)機根に応じて法を説く「順縁」の方式が法華経の基本的な在り方であった。歴史的釈尊も多くの迫害に遭遇したが、その教化の方法は基本的には相手の機根に応じてなされてきた。それに対して不軽が行った方法は、相手の機根や志向性を配慮せず、迫害を恐れず、むしろ迫害を通して相手に仏縁を結ばせるという逆縁による手法であった。
【ぐりぐりさん】
不軽品には「不軽菩薩は釈尊の過去世における姿である」と記されていますが、やはり不軽菩薩の行動は、釈尊の化導法とは対極にあるものです。これらのことから不軽品で説かれている仏道修行は、法華経全体の中では極めて異質なものといえます 。
【須田本】
不軽品では、不軽菩薩は釈迦仏の過去世における姿であるとされているが、不軽の行動はむしろ釈迦仏の化導法とは対極をなしている。不軽品の説く実践は、法華経全体の中では極めて異質なものとなっている。
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