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舛添「辞職」をめぐる核心 女性社長〈最後のブレーン〉激白100分「出版社社長」の正体「彼と舛添先生はパリ凱旋門賞で気が合った」

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 6月16日(木)09時40分15秒
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舛添「辞職」をめぐる核心 女性社長〈最後のブレーン〉
激白100分「出版社社長」の正体
「彼と舛添先生はパリ凱旋門賞で気が合った」


舛添氏辞任の流れを一気に加速させたのは舛添家の正月家族旅行に合流し、“会議”をしたとされる「出版社社長」の問題だ。舛添氏は頑なに名を伏せたが、小誌が特定した人物は既に死亡していた。二人の間に何があったのか。すべての事情を知る人物が口を開いた。

「なにか世間の目が逸れるような大きな事件が起きないかなあ」
 舛添要一都知事(67)が周囲に思わずこんな“本音”を漏らしたのは、一連の騒動が大きくなりはじめた五月中旬のこと。だが、今や、舛添氏本人が“大事件”の主役となった。
 六月十三日十四時半から開かれた東京都議会の総務委員会は、民放各局のみならずNHKまでもが、生中継する異例の事態。だが、
四時間半に及んだ集中審議において、舛添氏は「記憶にない」を連発、その成果は乏しいものだった。
 最後には、自ら発言を求めて、こう述べた。
「(不信任案可決で選挙になれば、選挙の時期がリオ五輪と重なり)国家的大事業である二〇年大会にとって極めてマイナスです。もちろん私の不徳の致すところなのは重々承知ですが、どうか少し猶予をいただきたい」
 だが懇願も空しく、この時点で舛添氏辞任の流れは不可避だった。

謎の「出版社社長」をめぐる攻防

 集中審議では小誌が先週号で報じた公用車に家族を乗せて、N響「第9」コンサートや巨人戦観戦のために東京ドームを訪れたことを認めた。その釈明はこうだ。
「音楽政策を東京都はやっていくのか、たとえばプロ野球が(五輪の)追加種目として加わる可能性がある。二〇二〇年に向けての準備を同時に懇談し、都としてのスポーツ政策、文化政策に大きく寄与している」
 ならば、こんな公私混同の“新疑惑”にはどうお答えになるのか。
 新党改革比例区第四支部の収支報告書によると、二〇一三年三月二十八日に伊勢丹新宿店で「備品」として、四万九千九百八十円を支出している。
「本館五階のダイニングフロアで十五点を約五万円で購入しています。お茶碗、お箸、ナイフ、フォークなどに加え、宮内庁御用達の専門店で作られた、漆のタンブラーを二つも買っています」(事務所関係者)
 高級漆タンブラーを政治資金で買う理由は何か。舛添氏ならこう言うだろう。
「海外からのお客様に、日本の伝統芸能を体験していただくため」
 要は、舛添氏に政治資金で買えないものなど何もないということだ。
 集中審議において、とりわけ質疑が集中したのが、小誌が報じた千葉県内の「龍宮城スパホテル三日月」問題。二〇一三、一四年の正月、家族で宿泊したにもかかわらず、政治資金の「会議費用」として処理していた件だ。
 発覚当初、舛添氏は会議の相手は「事務所関係者」としていたが、“第三者”である二人のヤメ検弁護士による「調査報告書」に突如、登場したのが「元新聞記者の出版社社長」だった。
〈付き合いが長く、かねてより相談相手としていた出版会社社長(元新聞記者)を客室に招き、政治家としての今後のことについて相談した〉(報告書より)
 集中審議で、繰り返し、出版社社長が誰なのかを問われた舛添氏だが「政治家の信義」を盾に、頑なにその名を明かさなかった。
 だが小誌取材班は、早い段階で、舛添氏の知人から、次のような証言を得ていた。
「舛添氏がいう『新聞記者出身の出版社社長』とは、T社の元社長で、サンケイスポーツ出身のS氏でしょう。舛添氏の周辺で、他に該当するプロフィールをもつ人間は見当たりません。たしかに長年、二人は知り合いだったことは間違いありません」
 舛添氏の政治資金管理団体である「グローバルネットワーク研究会」の二〇一一年度分の収支報告書には、同年九月七日に「ますぞえ政治経済塾」という勉強会がT社の会議室で開催されたと記載されている。
 また同日、T社のすぐそばの喫茶店「P」に対し、同研究会から一万八千円が支出されている。この支出については、コーヒー四十五杯分にあたり不自然と、指摘されていたが、前出の調査報告書では、勉強会の朝食のタマゴサンド二十数名分の代金だったと説明されている。

伝説の競馬記者と舛添氏の“接点”

 いったいS氏とはいかなる人物なのか。
「彼は『伝説の競馬記者』なんです」と語るのは、サンスポ関係者だ。
「早稲田大学を中退後、家業である質屋の修業をしているうちに競馬にのめりこみ、専門紙の記者を経て、サンスポにアルバイトで入社。ほどなく記者採用され、競馬記者として数々のスクープをものにします。また九三年には競馬週刊誌『ギャロップ』を創刊し、初代編集長に就き、瞬く間にヒット雑誌に成長させました。その後、数々の雑誌を作り、局次長までのぼりつめるなど、サンスポの中興の祖といっていい存在です」(同前)
 競馬一筋のS氏と舛添氏の接点は何なのか。
「二人を繋いだのは、都内で翻訳会社Y社を経営するX女史です」
 と語るのは、前出の舛添氏の知人だ。
「徳島出身のXさんは、舛添さんが東大助教授だった頃の教え子で、若かりし頃は、ミス徳島に選ばれるほどの美貌を誇っていたそうです。都内の有名女子大を卒業後、一九八六年に翻訳会社Yを立ち上げます。父親が衆院議員の親戚だったため政治にも明るく、舛添氏が政界転身した後は、公私共に支える数少ないブレーンとなりました」
 一三年に設立された舛添氏が代表の政治団体「改革国際フォーラム」の会計責任者にはX女史、事務担当者はY社の社員が名を連ねている。
「一四年の都知事選でも、社員を選対本部に送り込み、マスコミ対応を担っていました。この選挙でX女史本人は、演説で聴衆を盛り上げるために、『そうだ!』などと声を張り上げていました」(X女史の知人)
 今回の騒動でも、進退窮まった舛添氏はX女史に頼りっぱなしだという。
「『何とか文春を止められないか』と、舛添さんはX女史に泣きついています。舛添事務所は、文春が事務所に送る質問状をX女史の元に転送し、どう答えるべきか、連絡を取り合っている。また第三者調査を依頼した弁護士の選定についても相談していたようです」(別の事務所関係者)
 一方、X女史とS氏との関係も、九〇年代にさかのぼる。
「Sさんが編集長を務めたギャロップ誌には海外の競馬事情を紹介するページがありましたが、翻訳を担当していたのがX女史率いるY社でした。当時ギャロップ編集部には、しょっちゅうX女史から電話がかかってきており、二人の男女の仲を疑う部員も少なくありませんでした」(前出・サンスポ関係者)
 〇七年に産経新聞を退社したS氏は、Y社の関連会社であるT社の代表に就任する。
「実態はSさんと数人がいる個人会社のようなものでした。T社でSさんは競馬情報サービスを手掛ける傍ら、競馬関連の書籍を編集したり、X女史と親しい劇作家の故・つかこうへいさんの全集などを出版するのです」
 果たして、このS氏が正月に「ホテル三日月」を訪れ、舛添氏と“会議”を行った人物なのか。
 残念ながら、本人にそれを確かめる術はない。というのも、S氏は昨年十一月、急逝しているからだ。
「クモ膜下出血でした。前日まで競馬関係のイベントに出るほど元気だったんですが……。青山葬儀所で盛大なお別れ会が開かれ、岡部幸雄元騎手、社台ファーム総帥の吉田照哉氏など三百人以上が弔問に訪れていました。舛添さんも秘書と一緒に来ていました」(参列者)
 舛添氏は、「出版社社長」について、存命かどうかさえ、答えることを拒否しているが、既に故人だとすれば、合点がいく。
 第三者の目で調査を担当した佐々木善三弁護士に、「出版社社長とはS氏のことか」と尋ねると、「取材にはお答えしておりません」との回答。

“最後のブレーン”X女史との一問一答

 かくなるうえは、真相を知り得る立場にいるのは、ただ一人しかいない。
 小誌記者は「舛添氏の最後のブレーン」であり、S氏とも深い交流があったX女史に話を聞くべく、自宅を訪ねた。
 ピンクのシャツを身にまとって姿を見せたX女史は、開口一番、こう叫んだ。
「ふざけるな! アポイントを取らずに自宅へ来る、あんたの取材方法を世界四十二カ国にネットで配信しよう!」
 それでも記者が「Sさんの話を聞きたい」と食い下がると、「まあ、いいや。入れ」と記者を部屋に招き入れた。
――舛添氏とSさんの関係は。
「舛添先生は馬が好きで、馬主をしていたし、ギャロップに連載を持っていたから知っていたのよ。あとSさんは二年に一回くらい凱旋門賞を見にパリへ行っていたの。競馬、パリ、凱旋門賞の三つで二人は気が合ったのよ」
――舛添氏が雇った佐々木善三弁護士から、Xさんに聞き取り調査はあったのか。
「全然、彼とは喋っていないし、会社にも来ていない」
 そして舛添氏がいう「出版社社長」がS氏かどうか尋ねると、「私、Sさんと近いからいうけど、あんた間違うよ。文春は誤報になるよ」と全否定。
 しかし時間が経つにつれ、X女史は「Sさんではないか」と口にし始める。
「Sさんは政治というよりも世相を読むのが上手かった。だから『相談する』という意味ではぴったりの人だよね。私が政治家になるとしても、Sさんに相談する。舛添先生は評判がよくないから誰も相談に乗ってくれないでしょう。緊急事態で相談に乗ってくれるのはSさんのような優しい人だよ」
「考えてみればSさんの可能性は高いかもね。普通、正月に人を呼ぶのであれば一流ホテルでおせち料理を出して、車代を渡すはず。舛添先生はお金を払っていれば、絶対に領収書をもらうから、領収書がないということはタダで来てもらっている。舛添先生の周りでタダで来てくれるのはSさんくらいだよ」
――実際、ホテル三日月で会議はあったと思うか。
「あんたはどういう会議だと思う? 私はね、子供を育てながら仕事をしてたの。そうしたら子供が遊んでる横で仕事相手と会議をすることもあるじゃない。舛添さんは正月でも(公私が)ぐちゃぐちゃなのよ。それで『遊んで来い』と、奥さんと子供はプールに行くじゃん。そこへ誰か(客室に)来て、ちょっとしたテーブルでコップにお茶入れて『実は……』としゃべったことはあったかもね。その程度よ。やったとしても一時間くらいやったかな。それは可能性ゼロじゃない。Sさんだったら普段着で飄々と来るでしょうしね。ひょっとしたら、Sさんだったらあり得るかなあとも思うよね」
――「死人に口なし」という状況だが。
「本当にSさんが生きてたらよかったよね。死んでいる場合じゃないよ」
――亡くなっているからこそ、Sさんにしたのでは。
「ただね、舛添先生はそんなところに知恵が回るかなあ。知恵が回るタイプだったら、週刊文春の記者ともっとうまくやらない? あれだけ叩かれるなんて、よっぽど人徳がないんだよ」
 X女史へのインタビューは百分に及んだが、舛添氏が会議の相手として想定した相手がS氏であることを暗に認めるような発言を繰り返した。
 一方で、S氏を知る人々は、取材に対して「彼が、正月に会議に行くわけがない」と口を揃える。
「Sさんは『大の会議嫌い』で有名でした」
 と語るのは、サンスポ時代の後輩記者だ。
「会議をボイコットしたことは数えきれないし、極度の出不精で、競馬場にさえあまり足を運ばなかった。そんな人がわざわざ木更津まで行くわけがないでしょう。舛添氏は故人のSさんを利用すれば嘘がばれないと思っているのでしょうが、本当に酷い」
 S氏の内縁の妻も「会議をした可能性はゼロです」と断言する。
「Sさんは生まれが横浜で、一三、一四年の正月はご両親の墓参りなどで横浜に帰っていたはず。木更津に行くわけがありません。Sさんの口から舛添さんの名前を聞いたこともありませんし、競馬以外には映画、お芝居が好きでしたけど、政治の話は聞いたことありません」
 Sさんとの間に二人の子供をもうけた元妻も、次のように語った。

出版社社長と会議は「架空の物語」?

「あの人が舛添さんと付き合いがあるなんて初めて聞きました。競馬一筋の人ですから政治の話をするとは思えません。私が知る限り、選挙の投票にさえ一度も行っていません」
 舛添氏が「死人に口なし」とばかり、架空の会議の相手として、S氏の名前を挙げたとすれば、大きな問題だ。神戸学院大学の上脇博之教授が指摘する。
「『出版社社長』がホテルに行っていないとなると第三者の弁護士の調査は、全く信頼できないことになります。もしS氏が『出版社社長』なのであれば、客観的に見て都知事選の立候補について相談する方とは思えません。その方以外に候補がいないとなると、『出版社社長と会議』云々が架空の物語ではないかという疑いすら出てきます」
 X女史は、インタビューの中で、こんな“舛添批判”も展開した。
「猪瀬(直樹)前知事が突然辞職して、競馬でいえば『内ラチが開いた』状態だったから、先生が出馬したわけよ。運よく棚ぼたで努力もせずに都知事になったけど、神様は許さなかったというわけよね。舛添先生は人を大事にしない。利権も作らないし、嘘もつかないけど、ケチなのよ。羞恥心というものがないし、人への思いやりがないのよ。今回も普通の人なら心が折れるけど、あの人は感受性が違う異星人なのよ」
 実は、この証言を裏付けるようなことが六月初旬にあった。この騒動のさなか、舛添氏は同じ世田谷区内で“引っ越し”を敢行しているのだ。
「六月五日の夜中、夜逃げみたいに、突然、荷物を運び出していました。そして新しい家の前に、警官が立つようになった。何か事件が起きたのかなと思っていたら、七日にはポリスボックスが作られ、二十四時間警官が立っています。近所の人たちは舛添さんが住んでいると気付いていますが、引っ越しのあいさつはまだありません」(近隣住民)
 もっとも、この引っ越しは、“夜逃げ”ではなく、旧宅の耐震補強工事のための仮住まいだというが、都庁内からはこんな声も聞こえてくる。
「五月頃から、旧宅から少しずつ荷物を運び出していたんですが、その引っ越しを都庁職員に手伝わせていたのです。この期に及んでまだ公私混同しているわけですから、都知事の側近たちは、皆呆れ返っていました」(都庁関係者)
 集中審議の翌日の朝、新居を訪ねると、舛添氏が現れた。
 小誌記者が「出版社社長とはS氏のことではないのか」と問いかけると、舛添氏は無言で公用車に乗り込み、走り去って行った。
 この日の午後、舛添氏は都議会議長の川井重勇氏から、不信任決議より先に辞職するよう勧告されたが、「今は応じられない」と拒否。さらに議運理事会で、前日の集中審議と同様、「不信任案提出は九月まで待ってほしい」と懇願、あくまで続投に固執した。だが自民党が不信任案提出を決めて、舛添氏の命運は尽きた。
「集中審議の出版社社長をめぐる攻防がマズ過ぎた。七月の参院選への影響を考え、自公は守りきれなかった」(自民党関係者)
 かくして、舛添都政は二年四カ月で終焉を迎えたのである。

「週刊文春」2016年6月23日号



ポスト舛添に急浮上 〈櫻井翔パパ〉に出馬の可能性を直撃

「もうパフォーマンス知事には懲り懲り。手堅い行政手腕で都政を任せられるし、何しろ、子どもの“七光り”があるから」(自民党東京都連幹部)
 舛添要一東京都知事の辞任が不可避となり、後継候補に急浮上したのが、今月中に退官する櫻井俊総務省事務次官(62)。あの「嵐」櫻井翔(34)の父である。

 櫻井パパは、群馬の名門・前橋高校、東大法学部を経て、一九七七年に郵政省に入省した。同期には日本郵便社長の高橋亨氏ら優秀な人材が多く、「花の(昭和)五十二年入省」と言われた。郵政相を務めた深谷隆司元代議士が語る。
「私が逓信委員長を務めていた三十年ほど前、幹部から『いずれ役所を背負っていく男』と紹介されたのが若き日の櫻井氏でした。目立たず実直なタイプで、息子の名が知られるようになってからも『芸能界で活躍するなら、学校を卒業してから』と言っていましたね」
 ただ、権謀術数渦巻く霞が関にあってマジメさだけで上り詰めたわけではない。
「息子の存在は名前を覚えてもらうには打ってつけで、それをネタに実力者に近づくこともあったそうです。郵政族議員にぴたりと寄り添い、かつては野田聖子元郵政相と近かったが、安倍政権誕生以降は疎遠になっています」(総務省関係者)
 今回、櫻井氏の名前が挙がるのも、翔の父親という話題性に加え、政権との近さが関係しているようだ。
「民主党政権下で周波数帯をオークションに掛ける『電波オークション』の導入が検討されましたが、櫻井氏が中心となって阻止しました。それが総務相経験者の菅義偉官房長官、NTT出身で通信分野に強い世耕弘成官房副長官から信頼を得るきっかけとなったといいます」(政治部記者)
 当の世耕氏は、
「櫻井さんと親しいと言われますが、大して接点ないんですよ。都知事候補なんて全く決めていません」
 と静観の構え。こうした中、櫻井氏の人柄を象徴するようなエピソードも。
「公用車で頻繁に湯河原の別荘に行った舛添氏と対照的に、櫻井次官は自宅に公用車を乗りつけないのです。自宅の最寄り駅まで歩き、そこから地下鉄駅まで電車で移動。公用車を使うのはその駅から役所までの十数分だけ。帰りも同様の使い方です」(総務省関係者)
 タネを明かせば「省の規程により、通勤での公用車の使用は山手線内しか使えません」(広報室)と規則を守っているだけではあるのだが……。
 父の教育方針通り、慶応大経済学部を卒業した翔は、〇六年から日本テレビの夜の報道番組『NEWS ZERO』の月曜日キャスターを務めている。メディアの中でも、パパの動向から目を離せないのが同局だ。
「幹部の間で『出馬となれば考えないと』と話題になっています。櫻井氏の立候補の可能性を報じる段階で『翔の父親』と言わざるをえないので、少なくとも選挙期間中はキャスターから外れることになるでしょう」(日テレ関係者)
 果たして出馬はあるのか。櫻井氏を自宅で直撃した。
――都知事選への打診は?
「全くありません」
――退官後に政治家になるつもりは?
「ないですね」
――都知事選に出馬する可能性はZERO?
「(即答で)ゼロです」
 パパの出馬は、翔クンがスクープすることになる?

「週刊文春」2016年6月23日号
 
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