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【千葉】<土の記憶 成田空港閣議決定50年> (5)動きだした新滑走路
成田空港に囲まれた成田市東峰の共同墓地に「よねさん ここにねむる」と記された墓碑がある。一九七一年九月、土地を強制的に収用する第二次代執行により、唯一自宅を奪われた故小泉よねさんの補償問題が、四十四年を経て解決した証しだ。昨年十二月、養子の英政さん(67)が建てた。 英政さんは七〇年冬、よねさんと出会った。「貧しいけど、自然のまま生きる姿が魅力的だった。僕もここで生きたいと思った」と振り返る。 よねさんはその後、がんを患い七三年、「家に帰りたいよ」との言葉を残して亡くなった。直前に妻の美代さん(67)とともに養子になっていた英政さんが、補償問題を引き継いだ。 長く棚上げされていた補償問題は二〇〇〇年十二月、政府側が強制的手法を謝罪したのをきっかけに動き始めた。 翌年、英政さん夫妻が強制収用に関する行政処分の取り消しを求めた訴訟が最高裁で和解。当初「問題放置はやむを得なかった」と主張していた県も最終的に「よねさんにつらい思いをさせた。申し訳ない」と謝罪した。 英政さん夫妻は昨年二月、政府、県、成田国際空港会社(NAA)=旧・新東京国際空港公団=と問題解決へ協議を進めることで合意。五月にNAAから補償金を受け取ることが決まった。金額の八割は「よねさんからの寄金」として、米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の名護市辺野古(へのこ)への移設に反対する辺野古寄金など九団体(他一団体と調整中)に寄付。残りの一部を墓碑建立などに充てた。 「この問題は国が目的のため法を恣意(しい)的に解釈し、運用することを示した。秘密保護法や集団的自衛権も同じだ」。補償問題は解決したものの、英政さんは胸のつかえが取れない。NAAとは「よねさんに対する手法は繰り返さない」と約束しているが「本当にそうだろうか」とも感じる。 「国の方針が変わり、また同じことを繰り返さないか。見届けるため、この地にとどまりたい」 ◇ 当初は、三本の滑走路を計画していた成田空港。反対闘争によりA滑走路一本での開港を余儀なくされたが、閣議決定から五十年となる今、三本目の建設議論が本格化している。 昨年九月から始まった政府と県、NAA、周辺市町による「成田空港に関する四者協議会」は、B滑走路南側に三千五百メートルの滑走路を建設する案が最有力としている。 四者協は「地元の理解と協力が必要」と強調する。昨年十一月の第二回会合では成田市と芝山町、多古町の騒音下住民三団体の意見表明の場を設けた。三団体は、空港の機能強化に反対しないものの、成田市の団体会長が「これまでの機能強化は結論ありきで、住民に不信感を与えた。地域としっかり向き合ってほしい」と訴える一幕もあった。 元成田市長の小川国彦さん(83)は「場を設けただけだ。住民は議論に実質的には加われていない。不公平だ」と批判。第三者組織が参加する必要性を指摘する。反対派と政府、公団が一緒に空港問題を議論した「成田空港問題シンポジウム」やその後の「円卓会議」を主宰した隅谷三喜男東京大学名誉教授(故人)ら学識経験者による「隅谷調査団」をイメージしている。小川さんは先月、第三者組織の四者協への参加などを求めた請願書を国会に提出した。 自らは社会党の県議、衆院議員として闘争を支援し、市長就任後は空港建設推進の立場となった。「四者協が本当に公平な議論の場になってほしい。成田問題の教訓を生かすのは今しかない」 (渡辺陽太郎) =おわり PR情報
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