自らの政治とカネの問題で追い込まれ、舛添要一東京都知事が任期途中で辞職する。二代続けてのトップの空回りは残念である。東京は教訓を学ぶのか。
都議会が足並みをそろえて辞職を促しても、リオデジャネイロ五輪の終了後まで不信任決議案の提出の猶予をと懇願した舛添氏。給与の全額返上を持ち出して「東京の名誉を守ってもらいたい」と述べた。あきれるばかりである。
◆怒り招いた“独善性”
確かに、この時期に知事が代われば、二〇二〇年東京五輪と知事選が重なる恐れが生じる。次期五輪の開催都市のトップとして、大会旗を受け取る役目が残されているとも訴えたかったのだろう。
しかし、ごく普通の社会感覚からすれば、都民の信頼が失われているのに、世界の祭典の引き継ぎ行事へとのこのこ出かけようとする心情は、およそ測りかねるのではないか。知事失格を自認していたのなら、なおさらだ。
こうした言動に、都民の強い怒りを買った大きな要因が象徴的に表れたと言えるのではないか。
航空機のファーストクラスや高級ホテルのスイートルームを利用しての豪華海外出張。必要な場合もあるだろうが、批判に対しての反論は「トップが二流のビジネスホテルに泊まりますか。恥ずかしいでしょう」。居直りである。
あるいは、公用車を使っての神奈川県湯河原町の別荘通い。それへの釈明は「公用車は『動く知事室』。緊急の連絡態勢があり、危機管理上も問題ない」。
さらに、家族旅行の宿泊代に政治資金を充てた公私混同ぶり。支出の事実を認めながら、開き直ったように「客室で事務所関係者らと緊急かつ重要な会議をした。これは政治活動です」。
◆議会機能の再構築を
舛添氏の一連の発言を振り返れば、自己正当化を繰り返し、保身を図ろうとする意図がくっきりと浮かぶ。そこには都政も、都民も不在だった。都民の常識はそれを見逃さなかったのである。
自らの政治資金疑惑の調査を弁護士に委ねたことは、信用失墜を決定的にしたと言えるだろう。
「不適切な支出はあったけれども、違法性はない」といった結論は、一人舛添氏にとどまらず、すべての政治家とカネの問題へと憤りを向かわせたに違いない。
折しも、建設会社から不適切な経路で六百万円を手に入れながら、刑事責任を問われないという不条理が発覚した。渦中にある甘利明前経済再生担当相側は、いまだに説明責任を果たしていない。
不適切であることと違法であることがかみ合わない。ましてやうそを言えば、政治家失格となる。
政治とカネの問題は、政治資金規正法や政党助成法、あっせん利得処罰法といった法の支配が及ばない“聖域”と化している。政治活動の自由を守りつつも、双方が適合する仕組みづくりが緊要だ。
加えて、舛添氏の振る舞いに学ぶとすれば、カネの動きが適切か、不適切かの線引きは、おおよそ都民、国民の常識に沿ったものでなくてはならない。
無論、地方議会議員に支給される政務活動費であれ、公用車や出張旅費であれ、税金のみならず公共性の高いカネの出入りと中身はもはや細大漏らさず、常時ガラス張りを義務付けるべきである。
医療法人グループから五千万円を受け取った問題で辞職した猪瀬直樹前知事のケースを併せ考えると、都議会によるチェック機能の劣化も目に余る。メディアの報道が熱を帯びてきて初めて、腰を上げる傾向にあるのではないか。
都道府県議会では最高額の報酬や政務活動費などをもらいながら、首長監視の気構えがさして感じられない。猪瀬氏、また舛添氏との議場でのやりとりを見ても、多くは報道を下敷きにしていた。
地方自治には首長と議会の緊張関係が不可欠だ。二元代表制ではどちらも直接選挙で選ばれる。
とりわけ与党が首長の暴走を許しては、その政治的、道義的責任は自らに跳ね返ってくる。今度の騒動で証明されただろう。
◆責任の重い権力監視
もっとも、舛添氏の問題は、週刊文春の調査報道によるところが大きかった。自戒を込めて、新聞の使命と役割をあらためて銘記したい。権力の監視は、私たちメディアの大事な仕事でもある。
多くの教訓を残して、政界は間近に迫った参院選、そして都知事選に向けて走りだしている。
首都のトップが相次ぎ、政治とカネの問題で足をすくわれたという負の歴史を深く胸に刻まなくてはならない。政治家選びで二度と失敗を繰り返さないために。
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