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正法眼蔵 古鏡 2

「古鏡」の巻、本文に入ります。

過去においてたくさんの先輩方が真実というものを把まれて、師匠から弟子へと一系に伝えて来たものを、ここで言葉で表現するならば、古鏡(永遠の価値を持った鏡)という言葉で表現することもできる。その古鏡に映る姿は、あの人の持っている古鏡とこの人の持っている古鏡は別だと言う事ではなくて、その姿も材料も同じである。同じ様にその境地というものを体験し、同じ様にそれを現実の場面において体験する事が出来る。

赤いひげの外国人がその鏡の前に立てば、その鏡の中に赤いひげの外国人の姿を映す。中国人がその鏡の前にたてば、その鏡の中に中国人の姿を映す。それは瞬間であり同時に永遠の意味を持った時間において行われる。過去が来れば過去を映し、現在が来れば現在を映し、真実を得られた方々が来れば真実を得られた方々を映し、仏教界の諸先輩が来れば仏教界の諸先輩を映したのである。



           ―西嶋先生の話―

私の話ではよく主観とか客観とかという言葉が出てくるわけでありますが、この主観とか客観とかいう言葉は非常に理屈っぽい哲学的な言葉で、あまり耳慣れないということがあろうかと思います。今日、新聞とか雑誌などを見てみても主観とか客観とかという言葉にはそう頻繁にお目にかからない。なぜ今日、新聞や雑誌で主観とか客観とかという言葉にお会いしにくいかというと、一つには今日の新聞とか雑誌で主に主張されている考え方というものは、主観だけを中心とした考え方だからであります。そのために主観と客観との関わり合いというものがあまり問題にならない。それからもう一つは、極端に客観だけを中心にした考え方がある。そこでもやっぱり主観とか客観とかという言葉はあまり出てこない。

ところが、この我々の住んでいる現実というのは、主観と客観との関わり合いというのが実体ということがあるわけで、そのことを主張されたのが釈尊だということにもなるわけであります。したがって仏教の教えというのは、主観と客観との関わり合いということが中心問題になるわけであります。だから「正法眼蔵」の中でも繰り返し繰り返し主観と客観との関係が取り上げられてくるということになるわけであります。

我々の住んでいる社会でも、もっと仏教的な見方が盛んになってきますと、新聞や雑誌でも、主観的な立場から見ればどう、客観的な立場から見ればどうというふうな問題の取り上げ方がおそらく増えてくるだろうと思うわけであります。その点では今日、仏教思想が盛んでない時代ということが言えようかと思うわけであります。ところがこの主観とか客観とかということは、我々が現実の世界、我々の住んでいる世界を論議しようとすると、必ず取り上げなければならない考え方で、早い話が我々の商売一つをとってみても主観と客観との絡み合いということが言えるわけであります。
                           つづく--


読んでいただきありがとうございます。


正法眼蔵 古鏡 1

「古鏡」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

この「古鏡」の巻も大変難しい巻。「古鏡」とはどういうことを言っているかというと、古い鏡ということで、古というのは永遠という意味を持っている。「古今」という言葉があると同時に、今と昔ということを含めて、永遠という意味を表わすときに、古という字を使う。だから古仏という言葉もあると同時に「古鏡」とは「永遠の意味を持った鏡」ということになる。この「永遠の意味を持った鏡」とは、どういうことかというと、我々自身と言う事も言っているわけ。

我々は自分自身の中に心というものがあり、その心が色々なものを考えたり、いろんなものを見たりするというふうに常識的には理解している。ただ心というものが単にものを考えたり、ものを見たりというだけではなしに、それ以上の様々な働きがある。そうすると、そのものを「心」という言葉でレッテルをはって、簡単に片付ける事が出来るかどうかと言う問題が出てくる。我々がふだん心、心と言っているものが、もっと範囲の広い、もっと大きな働きをするものではなかろうかという考え方も出てくる。

その非常に大きな働きをする、言葉では表現できない何かを「古鏡」という言葉で表現した。この「古鏡」の巻というのは、そういう人間の中に内在しているところの、レッテルでは表現する事の出来ない何かを説いておられる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道では、犠牲という事はどう考えているんですか。

先生
犠牲と言う事は、仏道ではあまり好まない。自分をなくす、自分を無理すると言う事はあまり現実にはないという考え方が強いです。世の中と言うのはそういう形に出来ていない。自分を減却して人のために生きると言う事が、現実の生活の中で果たしてあるかどうかという考え方が仏教の中にあります。

だから、自分のために一所懸命やっているようでも、人のためになっている事もあるし、人のために一所懸命になって、自分の事は全然顧みていない様でも、長い目で見ると自分のためになっていると言うのが現実のあり方であるというが仏教のとらえ方です。犠牲というのは、自分と他人を二つに分けて、自分を「零」にして、相手を「百」にするという考え方があります。しかし、そんな考え方があるかどうかという疑問は、仏教の思想の中にはありますね。

質問
いかにすれば、仏祖の心と私の心が一緒になれるのでしょうか。やはりそれは坐禅とか、そういったものによってのみ・・・。

先生
そう。それはあせって努力しても到底できることではない。だから、釈尊の体の格好と同じ格好をする事が最大の決め手だと言う事が仏道の信仰です。坐禅をなぜするかといえば、足の格好・手の格好・体の背骨の格好も全部、釈尊と同じ格好にする。そうすると否でも応でも、釈尊と同じ気持ちになるとそういう考え方です。


読んでいただきありがとうございます。


正法眼蔵 心不可得(後) 23

「心不可得」について道元禅師が注釈されます。

またある時、大証国師に僧問う「過去の真実を体得された先輩方がもっておられた心というのは、一体どういうものでしょうか」と。大証国師言う「垣根であり、壁であり、瓦であり、小石である」と。この問答も「心というものはとらえることが出来ないもの」と言う事を、問答の形で説かれたものに他ならない。

またある時、別の僧大証国師に問う「真実を得られた先輩方の普段の気持ちというのは一体どんなものなのでしょうか」と。大証国師言う「今お前は一所懸命に私の弟子として、わしの寺で仏道修行をしておるではないか。過去の先輩方もお前と同じように毎日一所懸命やっていただけだよ」と。この問答もまた「心というものはとらえることが出来ないもの」と言う事を、問答の形で説かれたものに他ならない。

またある時、大証国師に帝釈天問う「何らかの為にする行動というものから、どうしたら離れる事が出来るでしょうか」と。大証国師言う「何が真実かと言う事を頭において一所懸命やりさえすれば、為にする行動というものを離れることが出来る」と。そこでさらに重ねて帝釈天問う「ではその真実というのは、一体どういうものでございましょうか」と。大証国師言う「日常生活の瞬間瞬間で一所懸命に明け暮れしている心というものが、真実そのものだ」と。帝釈天問う「ではその日常生活の瞬間瞬間の心とは、一体どういうものですか」と。すぐ目の前を指差して大証国師言う「人間の周囲どこを見回して見ても、近くも遠くも、すべてが真実そのものだ」と。これを聞いて帝釈天は大証国師を礼拝した。
  
一般的に言って、釈尊の説かれた教えの中においては、体の問題を論じ、心の問題を論ずることは、真実を得られた方々のおられる寺院や教団においての例が多い。そして体の問題、心の問題を学ぶに当たって、凡夫とか悟った偉い人というふうな区別を立てて、その心の中身や外界のものをどう受け入れるかという心の動きだけを基準にするのではない。その問題になっている心不可得( 心というものはとらえることが出来ないもの)という大原則を十分に学ぶ必要がある。

               「正法眼蔵心不可得」
               1241年 夏安居の日
               興聖宝林寺の内でこの巻を書写した。

※西嶋先生解説
ここで書かれていることは、我々は普通、心というものは誰でもつかまえることが出来ると思っている。つかまえることが出来ると思っている証拠には「心」という言葉がある。また我々は「心」という言葉があるから、つかまえることが出来るか出来ないかという問題について、考えたことさえない。心というものはもう誰でもわかっているものとしていろいろな論議をする。そういう根本の問題に触れないで、その上っ面にある表面だけの問題として、いろいろな問題を考えるとどんな考え方もできる。本屋さんに行くと、ほとんど無限と言っていいほどの本が並んである。あれはみんな人間が考えたこと、だから人間というのはいろんなことをたくさん考えられるわけだ。

ただ我々が人生問題を考えていく上においては、心というものがつかまえることが出来るのか出来ないのかということは、やっぱり十分考えておく必要がある。初めからもう心というものはわかるものだと考えて、いろいろと本を書かれても根本問題に触れていないと、読んだ人も本を読むことが迷いの種になる。ますます迷いを詰め込んでいくという結果になる恐れがある。その点ではこの「心不可得」の巻というのも、仏教哲学の一番基本の問題に触れた、興味のある巻ということになろうかと思うわけであります。


読んでいただきありがとうございます。


正法眼蔵 心不可得(後) 22

大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張はまだ続きます。

先に述べられた長年の修行を積まれた五人の方々は、そろいもそろって五人とも大証国師の持っておられた性質、実体というものがはっきりわかっていない。釈尊の教えを勉強する上で、まだ力が足りないように思われる。はっきり知っておかなければならないことは、大証国師はあらゆる時代を通じて真実を体得した人として通用する方であり、正法眼蔵(釈尊が説かれた正しい宇宙秩序の眼目)というものを明白に正しく伝えられている。理屈や文字で経典を勉強していこうとする人々には、大証国師の端にさえ理解が及ばないと言う事は大証国師と大耳三蔵との問答によってわかる。

大耳三蔵の言う「人の気持ちがわかる」と言う能力は、大証国師の坐禅の立場から考えるならば、その一本の毛の端、半本の毛の端にも達することのできない能力であるから、大証国師の心がわかるという理解をしているとすればそれは誤りである。坐禅をする事によって仏道を勉強して、坐禅の立場と理屈の立場とが違うということをはっきり知るようになった人々は、理論だけで勉強している人々は、大証国師の持っている性質がどのようなものであるかという事を全く見ることが出来ないと勉強すべきである。

仮に大証国師のおられる場所が、先の二度は大耳三蔵にわかって、三回目だけがわからなかったのであるならば、大耳三蔵は三回のうち二回まではわかる能力があったのであるから、叱るべきではない。そして仮に叱ったとしても全部が全部欠けていたということではない。仮に三のうちのニだけが正しかったというのであるならばこれを叱った場合、大証国師が正しいと言う事を誰も信ずるはずがない。大証国師が三耳三蔵を叱ったその訳は、大耳三蔵が三回の質問すべてにおいて、釈尊の説かれた教えを基準にした体や心、つまり坐禅をやっている時の体や心を持っていないということを叱ったのである。

また、この五人の先輩方は、いずれも大証国師の行動がどういうものであるかという事がわかっていなかったから、十分な批評ができなかったのである。この様な理由から、自分(道元禅師)は釈尊の説かれた教えの中における心不可得(心と言うものは、つかまえる事が出来ないものである)という理論を説明しているのである。この釈尊の説かれた教えにおける、心不可得という教えに通達することが出来ない人々が、この他の原則に通達していると言う事は信じ難いことである。過去の大先輩方においても、このように間違いは間違いとしてはっきり認識しなければならない場合があることを知るべきである。



          ―西嶋先生の話―

日本の国は仏教国と言われておりますけれども、私はどうも現代の日本は仏教国と言われていいのかどうか、甚だ疑問のような気がするわけであります。なぜかと言いますと、仏教国と言われる以上は仏教という考え方を信じる人が多い、国民のかなりの部分の人々が仏教という考え方を信じている、それで仏教国だというふうに感じるわけでありますが、今日の日本の社会の実情を見てみますと、仏教的な考え方を信じている人は非常に少ないんじゃないか、そう感じられる面が非常に多い。

なぜそういうことを言うかと言いますと、たとえば現代の我々の住んでいる社会には、偉い人がたくさんいる。それから自分はだめだと思っている人がたくさんいる。つまり、今日の我々の社会には、「自分は偉い」と思い込んでいる人と、「自分はダメだ」と思い込んでいる人の二種類の人が非常に多い。ところが仏教という考え方は、偉いとか偉くないとかという事とは別の考え方である。偉いとか偉くないとかという事はあまり大した問題じゃない。むしろ仏教が問題にしているのは、自分自身というものがよくわかっておるかどうか、自分自身の本領を日常生活において十分発揮できているかどうか、という事が仏教という考え方の基本である。

ところが今日では、大抵の人を見る場合に、「偉い人」とか「偉くない人」とかという、そういう二つのレッテルを張って人間というものを評価していくということが盛んである。このことは、仏教という考え方を信じている人が今日の日本においては非常に少ないということの、はっきりした証左ではなかろうかと、そういう風に思うわけであります。仏教という考え方が日本の国内でもう少し理解されてくるようになると、日本は仏教国だとか、仏教国でないとかということが言われる段階に入ってくると思いますが、今日のところでは、遺憾ながら仏教的な考え方というものが我々の住んでいる社会には極めて少ない。

だからそういう点では、日本の国が現在はたして仏教国と言われていいのかどうか大変疑問だと、そういう感じを最近非常に強く感ずるというのが実情であります。


読んでいただきありがとうございます。


正法眼蔵 心不可得(後) 21

大証国師と大耳三蔵の問答について道元禅師の主張は続きます

この玄沙師備禅師の言葉を聞いて、雪竇明覚禅師は「敗けた、敗けた」といった。つまり玄沙禅師の言葉の境地が非常に高いから「自分はとてもかないません」と言う事を言った。この「敗けた、敗けた」という言葉は、玄沙師備禅師の言葉が真実であるという見方をした時にこのように言うべきである。もし雪竇明覚禅師がもう少し力量があって、玄沙師備禅師の言葉がどうも本当ではないということがわかっていたならば、このように「敗けた敗けた」という言葉は言わなかったであろう。

また海会守端禅師が言われるには「大証国師が仮に大耳三蔵の目と鼻の先にあったならば、どうして見ることが難しいという事があり得たであろう。大証国師が大耳三蔵の目の玉の中に入ってしまっていたという事を、趙州従諗禅師は知っていなかった」と述べている。海会守端禅師の言葉も、また三番目の答えについてだけを論じている。前の二度も見ていなかったという事を叱るべきでありながら、これを叱っていない。大証国師の目と鼻の先にあったという事がどういう意味であり、目の玉の中にいたという事がどういう事か実情がわかっているはずがあろうか。



          ―西嶋先生の話―

こういう難しい本「正法眼蔵」を何のためにやるんだという疑問が当然起きてくると思うわけですが、この本を読んで読めるようになると、仏教というものが理論的にわかるようになる。仏教というのは理論でわかるものでないという原則があるわけですが、幸か不幸か、我々は理屈がないと納得しない。現代人の特徴というのは、「いや、それは理屈じゃないよ」なんて言ったって納得しない。何とかして理屈があるはずだということで、人生のあらゆる現実を理屈で説こうという強烈な態度を持っている。

これは非常に大切な事。今日の我々の文明が偉大であると言う一つの理由は、理屈で全部説き明かそうとした努力の結果である。つまり、人間が月に行ける様になったと言う事も理屈を尊重したからの話。「世の中、理屈じゃないよ」と言っていたら、未だに月には行けない。理屈を大切にして、一所懸命勉強したから月に行けるようになった。その点では、今日の文明の基礎に理屈というものがあると言う事、これは非常に貴重な事である。

ところが、そういう時代を経た我々は、何についても理屈で解明しようと言う、いい意味でも悪い意味でも特徴を持っている。だから今日以降、仏道というものを勉強していこうとするならば、坐禅と同時に理屈が必要になってくる。「仏教は理屈じゃないよ」と言う事では、仏道を今日以降、社会に広めることはまったく不可能である。それと同時に、この「正法眼蔵」というの本の中には、理論的に仏教とはこういうものだということが書いてある。だからこの本を読んでいって、「なるほど」ということがわかってくると、理論の上でも理屈の上でも仏教というものがどういう思想で、現代においてどういう意味を持っているかということがわかってくる。

このことが今日以降においては非常に大切。理屈を大切にする世の中に我々は生きるようになったのであるから、仏教と言えども理屈を通して納得できるような形になっておらないと、教えとしては広まらない。そう言う理屈を述べておられる唯一の本が「正法眼蔵」なのである。この本は、非常に難しい本だけれども、仏教を今日以降盛んにしようと思うならば、否応なしに勉強せざるを得ない本になる。そしてまた我々も現代人である以上、やっぱり理屈でわかりたいという抑えがたい望みというものもある。そのことを満足させてくれる唯一の本がこの「正法眼蔵」と言う本にならざるを得ない。だから苦心惨憺して勉強せざるを得ないと言う事になろうかと思います。


読んでいただきありがとうございます。


プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問ありがとうございます。
夫と二人暮らし。66歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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―坐禅の勧め― 坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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