フロリダのテロが示す、宗教規範と世俗・リベラルな規範の間の「葛藤」

池内恵
執筆者:池内恵 2016年6月15日 無料
カテゴリ: 国際 外交・安全保障
エリア: 北米 中東

犯人自身もゲイだった?

 6月12日のオーランドのゲイが集まるナイトクラブへの銃撃事件で死亡した犯人のオマル・マティーンは、自身がゲイで、襲撃したナイトクラブPulseでも過去に目撃されていたと報じられている。

 これは、過去の米国内でのローン・ウルフ型のジハードを行った事件との共通性が見出せるかもしれない。自身の資質・性向と、イスラーム教の啓示に由来する(人間の側での変更がほぼ不可能な)規範との間の葛藤を抱えた挙句、暴発したと見られる点だ。オマルの父はアフガニスタンの価値観を保持した人物で、ゲイを罵る言動があったとされる。また、ゲイの間ではゲイに敵対的なイスラーム教を揶揄する言動があり、それに対してオマルが激昂したことがあったとも伝えられる。米国でゲイであることとイスラーム教徒であることを両立させて精神的な安定を保つことは、それほど容易ではないだろう。

米軍精神科医の葛藤

 2009年11月5日に、テキサス州フォート・フッド基地で銃を乱射し30名を殺害したニダール・マリク・ハサンの場合は、軍の精神科医として志願したパレスチナ系アメリカ人のニダール・マリクが、イスラーム教では異教徒に対する軍事的なジハードが義務づけられるが、米軍のイスラーム教徒の兵士はこの義務を果たせないどころか逆にイスラーム教徒と戦わないといけないため、精神的な問題を生じさせる可能性がある、との問題意識を軍内部の学会のプレゼンテーションで吐露していた(パワーポイント・ファイルが残っている)。イスラーム教徒に課されたジハードの義務、それが米国民・米軍人としての立場との間でもたらす葛藤という問題設定は、ある程度イスラーム教を知っている人間からは当然のものと感じられるが、米国の支配的価値観からは理解不能であったようで、ニダール・マリクは不審な研究報告を行ったものと問題視されつつ、単に疲労が溜まったとして放置された。その後間もなく、彼自身がまさにこの葛藤に押しつぶされたように、フォート・フッド基地での銃乱射を行った。

 ニダール・マリクの事件は精神的な異常によるものとする見方が、事件当時はかなりあった。また、通常の職場での銃犯罪として理解されてもいる。そのような側面が否定できるわけではなく、そもそも銃乱射を行う瞬間の人間が正常であるとは考えにくいが(また「通常の」銃犯罪という観念自体が、米国の外からはそれほど理解しやすいものではないが)、精神異常が原因で銃撃を行ったと短絡的に断定するよりも、価値規範の間の葛藤が精神異常をもたらす引き金となったのではないかと検討する必要があるだろう。単に支配的な米国の価値規範から見て理解あるいは正当化できない動機を「精神異常」と片付けるか、あるいは他の銃犯罪と一緒くたに扱ってしまい、問題の発生メカニズムを解明できていない可能性がある。

認知されなかったテロ?

 なお、過去のグローバル・ジハードに触発された米国内の事件の中には、「単なる銃犯罪」あるいは(例えば、往々にして標的になるユダヤ教徒に対する)一般的な「ヘイトクライム」であるとか、あるいは実行犯の側の「精神異常」に由来するとして、宗教と政治に関わる意味を認識されずに片付けられてきたものがありそうだ。

 2006年7月28日にシアトルのユダヤ人連盟(Seattle Jewish Federation)で銃撃が行われ1名が殺害された事件の際に、私自身が偶然現地滞在中だったが、現地の新聞では、精神異常者によるヘイトクライムと断定され、それ以上分析されていないことを不審に思った。当時、まだ米国では、一般にジハード思想の存在が認知されていなかったため、通常のヘイトクライムとして認識され、犯人の精神的な問題が原因と推定されたのだろう。

 この事件も、南アジア系でイスラーム教徒出身の犯人の抱えた葛藤が背景にあるものとみられる。犯人のナヴィード・アフザル・ハック(Naveed Afzal Haq)は父はパキスタン系のイスラーム教徒コミュニティの指導者だった。ナヴィード本人は失敗続きで、一時はイスラーム教で絶対的に禁じられる改宗を試みるなどした挙句、ユダヤ教徒の施設に押し入って銃撃を行った。いずれも個人的な資質・性向と、米国社会の規範や、イスラーム教の価値規範との間の葛藤を抱えていたことは確かだろう。

 葛藤が反社会的な暴発に帰結する際に、ジハードや勧善懲悪といった観念を採用すると、それは過激主義と自他共に認知されることになる。アラビア半島のアル=カーイダ(AQAP)や「イスラーム国」など、米国内に届く宣伝手法を用いた勢力が出てきたことで、グローバル・ジハードの思想が一般にも知られて、問題の所在が認識され、テロ事件として認知されやすくなったといえる。

「教義」の介在

 テロには複雑な要因が絡まるが、価値規範の対立・摩擦の問題は家族や職場の摩擦や葛藤に深く関わり、結果として生じる暴発の方向性や手段や大義名分を決定づける要因としても、関わってくる。「家族の問題や職場の問題だから(あるいはヘイトクライムだから)宗教の問題ではない」という議論は、家族の問題や職場の権力関係、あるいはヘイトクライムが宗教と無関係であるという、宗教を個人の内面に限定したかなり極端な世俗主義・政教分離の思想、そしてリベラルな価値規範に依拠した議論だろう。しかしこれが西欧や米国では支配的であり、多数派によって無自覚に、それが先進的で他の地域でも当然追随するべき普遍的な真理と思い込まれている。リベラルな価値規範からは、宗教の教義はあくまでも人間が自由に選び、捨て、改変することができるとみなされ、であるがゆえに「原因」とみなされない。しかしイスラーム教の場合、依然として、ジハードや勧善懲悪といった規範は教義の根幹にあり、教義の根幹は神の啓示によって支えられている強固に認識されているため、人間の側で都合が悪いから変更するということは不可能と信じられる。ここにリベラルな価値規範との根本的な断絶がある。

 移民社会であり、グローバル化の影響を強く受けるアメリカ社会の中には、異なる価値規範が混在してきている。しかし、世俗主義的でリベラルな価値規範が支配的であることを普遍的と感じる多数派からは、宗教に強く影響を受けた規範の存在を認識しにくい。米国のイスラーム教徒も公的には世俗的・リベラルな価値規範に合わせて発言するため、水面下の実態が見えにくい。そこから、一部のイスラーム教徒が抱えた摩擦の存在も覆い隠されてしまう。

 イスラーム教の価値規範が米国の支配的な価値規範との間にもたらす対立や摩擦が個々人にどのような葛藤をもたらすか、それが犯罪的・反社会的な暴力の暴発にどのような場合に結びつくのか、ひとつひとつ検討する必要がある。差別や偏見を恐れて「イスラームは無関係」と反射的に唱え、「教義」とその価値規範がもたらす影響を検討すること自体を論難して目を逸らす風潮が米国では(西欧や日本でも)非常に強いが、個人の人権を上位に置く社会では、「教義」のもたらす心理的・社会・政治的影響は、検討の対象とされるべきだろう。少なくともリベラリズムを基本原則とする社会では、守られるべきは「教義」の不可侵・無謬・優越性ではなく「イスラーム教徒」個々人の人権なはずである。

 しかし米国の支配的価値観と異なる価値観が存在しているということ自体を、支配的なリベラルな価値規範を信奉する側は認識し難く、ましてや受け入れがたい。逆にイスラーム教を信奉する側は、不可侵で優越した「教義」を批判的に検討することこそがイスラーム教徒に対する人権侵害である、と強く反発するため、正面から適切に議論することは困難でなる。このこと自体が異なる価値規範の間に存在する摩擦の一部である。解決できない問題には、解決できない根深い根拠がある。

銃撃事件翌日の6月13日、ろうそくを掲げ、乱射事件の犠牲者を追悼する人々(米フロリダ州オーランド)(C)EPA=時事
執筆者プロフィール
池内恵
池内恵 東京大学先端科学技術研究センター准教授。1973年生れ。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授を経て、2008年10月より現職。著書に『現代アラブの社会思想』(講談社現代新書、2002年大佛次郎論壇賞)、『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2009年サントリー学芸賞)、『イスラーム国の衝撃』(文春新書)、本誌連載をまとめた『中東 危機の震源を読む』などがある。個人ブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝」(http://ikeuchisatoshi.com/)。
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