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【千葉】

<土の記憶 成田空港閣議決定50年> (4)終わらぬ闘争 

空港用地内での農業を「充実している」と話す市東孝雄さん=成田市天神峰で

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 成田空港のB滑走路と駐機場を結ぶ誘導路に囲まれた農地など計一・三ヘクタールには約六十種類の野菜が育っている。祖父の代からこの地に住む市東(しとう)孝雄さん(66)は、三里塚芝山連合空港反対同盟北原派(北原鉱治事務局長)事務局員としても活動。「国と空港会社は強権的。何も変わっていない。私の農地を奪おうとしている」と闘争を続ける理由を話す。

 孝雄さんの父・東市さんは一九九九年に亡くなるまで三十年以上にわたり反対闘争を続けた。孝雄さんは中学卒業後、船橋市の飲食店で働いていたが、東市さんの死去に伴い古里で農業を継いだ。「新しいことを覚えるのは楽しく、苦労は感じなかった」。数年で専業農家として生きる自信も付いた。

 だが二〇〇三年、新東京国際空港公団(〇四年から成田国際空港会社=NAA)から突然「農地の所有者は公団」と告げられた。市東家は地主に地代を払い耕作をしていたが、公団は一九八八年、東市さんの同意を得ずに農地を買収していたのだ。市東家は知らされないまま、地代も払い続けていた。

 「だまし討ち」と感じた。補償として大金も提示されているが「金の問題じゃない。農地は私の命そのもの」と受け入れられなかった。二カ所の農地はB滑走路と並行する誘導路が「へ」の字に曲がる原因となっている。NAAは明け渡しを求め提訴。現在も係争中だ。

 市東さん側も西側誘導路などの許可処分の取り消しやB滑走路の使用禁止を求め、政府とNAAを訴えた。裁判で政府側は「自分の意思で自宅に戻った。騒音被害などは受忍すべきだ」と市東さんに原告資格がないと主張。市東さんは「私が戻ってからできた誘導路もある。一方的でふざけている」と怒る。

 政府とNAAは一九九一年以来、反対同盟熱田派を交えた会議で強制的な手法を謝罪。「話し合いによる問題解決」を目指してきたはずだが、市東さんは「強制的ではないか」と感じる。北原派事務局員で空港用地内に耕作地を持つ萩原富夫さん(48)は「戦わなければ、国のいいなりになるしかない、という雰囲気になってしまう」と話す。

 萩原さんは一九八八年に「先輩に誘われ成田の現場を見たい」と闘争に参加。農家の軒先で脅しのように進む工事を見て、権力への怒りが沸いた。闘争初期から活動する農民の話も聞き「道半ばで倒れた人たちの思いは受け継いだ。だから戦い続ける」と誓う。

 一方、「闘争が先鋭化しすぎた面もある。昔のようなことをしても理解されない」とも。米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の移転問題や原発被害に苦しむ市民と連携し、農地死守を全国に訴える。

 市東さんも「私の問題は沖縄や原発の問題とも直結している。自分だけでなく彼らのためにも頑張りたいんだ」と話す。

 厳しい裁判闘争が続くが「農業は楽しいし、野菜を待っている人もいる。充実しているよ」と笑顔で語る。「私の気持ちは決まっている。この地で生き続ける。そのために戦う」 (渡辺陽太郎)

 

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