今から112 年前の今日、すなわち明治37年(1904)6月15日の漱石は、東京帝国大学で、自身の受け持ちの講義「英文学概説」の試験会場で試験監督をしていた。
当時の学制で、新学期の始まりは9月。夏休み前の6月に学年末試験が実施されていた。最近、大学の秋入学のことが、時折、話題として取り上げられるが、漱石の時代にはそれが普通のこととして実施されていたのである。
この日の試験問題は6問。日頃の講義で教えられたものをそのまま答案として書くのではなく、自分の頭で考え、批評に及ぶことを求める問題ばかりだった。
試験は、朝の9時からという開始時間だけ決められていて、終了に規定はない。時間無制限だった。学生たちは、欲張って長い答案を書こうと試みる。3時間が経過した昼の12時になっても、答案提出者は2人だけ。全員が提出し終わったのは午後2時を回った頃だった。5時間もかけて、一体どれほどの分量の答案を書いたのか。
答案を書く方の学生も大変だが、それを監督し、あとで採点する先生の方も、かなりの労力が必要だった。
ちなみに、1年前(明治36年)のこの日も、「英文学概説」の試験日だった。問題は「四月以降口述せし講義の大要を述べ、かつこれが批評を試みよ」というもの。漱石は学生たちに対して、講義内容を受動的に聞くのでなく、つねに批評的な目をもって分析することを求めていたことがうかがえる。
漱石の大学の教え子にして門下生だった野上豊一郎は、こう証言している。
《先生の講義で吾々が第一に利益を与えられたのは、文学の研究または鑑賞の態度に色々な暗示を与えられた点にある。(略)西洋人の受売(うけうり)なぞは毫(ごう)もなく、しっかりと自分の態度を定めて、しかもそれを生徒に押しつけるような事がなかったのは、他に得られぬ貴重な教訓であった。それを除いて私には大学にいた価値はないとすら考えている》(『大学講師時代の夏目先生』)
英文学だからといって、西洋人の解釈を鵜呑みにせず、それらを紹介しながら、漱石の自説を展開する。といって、その自説を学生たちに強要するのでもない。それぞれが自分自身で考え、自分自身の意見を持つ姿勢をこそ、身につけさせていく。そういう講義だったという意味だろう。
漱石はこんな言葉も残している。
《学問は綱渡りや皿回しとは違う。芸を覚えるのは末のことである。人間が出来上がるのが目的である》(『野分』)
なお、東京帝国大学の英文科では、卒業論文の審査をパスした卒業予定者に対しては、英語による口頭試問も実施されていた。漱石先生も、同僚の上田敏、アーサー・ロイドとともに試験官としてこの口頭試問にも臨んでいる。
■今日の漱石「心の言葉」
これでよいと、自己で自己をきめる分別ありたきものなり(『書簡』明治41年12月20日より)
夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
