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 朝日新聞の元那覇総局長で、現在論説委員の谷津憲郎記者が3月末から連日ツイッターで発信している【沖縄戦】を朝日新聞デジタルで再構成しました。1945年3~6月、米軍の上陸前後から「終結」まで1日ごとに何があったのかを、様々な資料から振り返ります。沖縄戦当時の写真やキャプションは、沖縄県公文書館の提供・許可をいただき、使用しています。各回の末尾には沖縄戦をより深く知るためのキーワードをつけました。

 沖縄慰霊の日(6月23日)まで全10回、毎日配信します。初回は3月29日~4月7日分です。

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■1945年3月29日@首里

 鉄血勤皇隊となった沖縄一中の約220人に、新品の軍服や軍靴などが支給された。当時3年生だった石川栄喜さんは「嬉(うれ)しさのあまり、用もないのに池端、当蔵通りを歩き回った。それだけでは物足りなくて、那覇の焼け跡まで足をのばした」

■3月30日@越来

 上陸にそなえて米軍は猛烈な艦砲射撃を加えていた。移民先のペルーから引き揚げてきた比嘉カマドさんはこの日、避難を決意。食料探しに行った家の裏手で悲惨な光景にぶつかった。「直撃弾に当たったのでしょう(略)誰かの足が木の枝にぶらさがっていました」

■3月31日@豊見城

 船舶工兵の連隊本部と中隊を結ぶ電話線が米軍の砲撃で切れた。野村正起・一等兵は夜、補修を命ぜられて高台へのぼった。北西の方角を見渡す。「はるかな海上には、こうこうと電灯に輝くアメリカ艦がひしめいて、さながら大都市の灯をのぞむようであった」。上陸前夜。

■4月1日@首里

 続々と押し寄せてくる米軍を、第32軍幹部は双眼鏡を手に観望していた。本土決戦を一日でも遅らせるための持久作戦。ほぼ無防備の海岸へ、そうとは知らずにありとあらゆる爆撃を加える米軍の姿に、八原博通高級参謀は「こんな痛快至極な眺めがあろうか」。微笑を浮かべた。

■4月2日@読谷

 約140人が潜んでいたチビチリガマという壕(ごう)に米兵が来た。観念した住民の手で集団自決が始まる。「お母さんの手で殺して」と懇願する娘。長男にまたがり包丁を振り下ろす母。「みんなどんどん死んでいく様子が真っ暗な中でもわかるのです」。約80人が亡くなった。

■4月3日@中城

 米兵に銃口を向けられ、元教師だった喜納昌盛さんは死も覚悟しながら「ユー、アメリカ、ゼントルマン」と呼びかけた。すると別の米兵が「ああ、喜納先生!」。かつての教え子だった。地元の学校を出てハワイへ。そして開戦。奇跡的な出会いが多くの命を救った。

■4月4日@本島中部

 占領地域を広げる米軍に問題が持ち上がった。次々と投降してくる民間人の取り扱いだ。この日までに保護した住民は6335人。ニューヨーク・タイムズはこう伝える。「沖縄人は、彼らを劣等民族として扱っていた日本人とはほとんど異質である」

■4月5日@読谷

 米軍政府が開設され、慶良間・本島上陸時に引き続き、南西諸島を本土から分離し占領することが宣言された。いわゆるニミッツ布告である。「米国軍占領下の南西諸島及其近海居住民に告ぐ(略)日本帝国政府の総ての行政権の行使を停止す」。ヤマト世からアメリカ世へ。

■4月6日@宜野湾

 2週間近く壕で過ごした宮城真英さんが捕虜になった。外へ出てみれば、いたるところ米兵だらけ。軍用車の音を聞いては首をはねる兵器だと目をつぶり、口笛の合図を聞けば銃殺かと観念した。「今私の頭上に爆弾が落ちて米兵もろとも吹きとばしてくれるよう」に祈った。

■4月7日@坊ノ岬沖

 沖縄特攻の命令を受けた戦艦大和が爆沈。昭和天皇は後にこう語る。「陸軍が決戦を延ばしてゐるのに、海軍では捨鉢(すてばち)の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった(略)私は之が最後の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦(また)已(や)むを得ぬと思った」(つづく)

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◆沖縄戦キーワード

 〈沖縄戦〉 米軍が1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸して始まった地上戦。日本軍は戦闘を長びかせて本土侵攻を遅らせる持久作戦をとり、軍民が入り乱れる戦闘が続いた。米軍の艦砲射撃や爆撃は、その激しさから「鉄の暴風」と形容される。日米両軍と民間人らを合わせた死者は約20万人。沖縄県民の4人に1人が死亡したとされる。

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 やつ・のりお 1971年生まれ。94年入社。2002~05年と11~14年の2度にわたって那覇総局に赴任。東京本社社会部で遊軍長をしたあと、現在は論説委員。ツイッターアカウントは@yatsu_n。(論説委員・谷津憲郎)