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【千葉】

<土の記憶 成田空港閣議決定50年> (3)対話路線へ 

過激派に占拠、破壊された成田空港管制塔(1978年3月)

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 「成田闘争」の一つのシンボルが二〇一八年にも老朽化のため姿を消す。現在、航空機を駐機場から誘導する「ランプコントロールタワー」として利用されている旧管制塔。開港を四日後に控えた一九七八年三月二十六日、三里塚芝山連合空港反対同盟を支援する過激派は管制塔を占拠し、無線設備などを破壊。開港を二カ月遅らせた。

 管制塔占拠の成功により、元反対同盟の石毛博道さん(66)は「支援者の軍事力と同盟員を維持すれば、二期工事などできない」と確信。開港を迎えても「まったく悲観しなかった」という。

 一方、対話の動きも出始めた。同年内に一部同盟員と政府が秘密裏に交渉を開始。石毛さんは「軍事的に勝利しても、政治力への転化が必要だ。最後の勝負はテーブルだ」と、内心期待した。だが翌年、新聞報道で交渉が暴露され破談した。「国も同盟も対話路線を受け入れきれなかったのだろう。がっかりした」

 反対同盟は八三年、一坪共有地の扱いなどを巡り北原派と熱田派に分裂。八六年には二期工事が始まった。九〇年、当時の江藤隆美運輸相(故人)が現地で熱田派と会談。翌年、隅谷三喜男東京大学名誉教授(故人)ら学識経験者が主宰する「成田空港問題シンポジウム」が始まった。閣議決定から二十五年、ついに反対派と政府が同じテーブルに着いた。

 第一回の冒頭、石毛さんは「地元農民はこの公開シンポジウムがきょう、開催されることに無念を抱かざるを得ない」と演説した。なぜ建設場所を決める時に開かなかったのか。「丁寧な説明があっても混乱はあったと思う。だが死者が出るような事態は避けられたはずだ」との思いがあった。

 隅谷調査団は、政府の土地収用裁決に「社会正義の視点から、問題があると言わざるを得ない」との見解を示した。政府は最終的に謝罪。土地収用裁決の申請を取り下げ、二期工事の計画も白紙になった。

 シンポは、政府、新東京国際空港公団(現成田国際空港会社)、反対同盟、住民らを交えた「円卓会議」に発展。計二十七回の公開議論で、空港建設に強制的な手法は執らず、問題は話し合い解決をすることも確認した。

 シンポ・円卓に北原派は参加せず現在も闘争を続ける。だが石毛さんは「シンポ・円卓後、激しい衝突はない。流れは大きく変わったんだ」と強調する。

 自身も闘争を離れ、現在は「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」の事務局員を務める。

 「空港建設による犠牲に見合った、いい空港にしたい。考えは百八十度変わっちゃったな」。三本目の滑走路建設では、地元から合意形成を図り「一方的手法による悲劇を繰り返させない」と意識している。

 公団OBの板橋孝さん(72)はシンポ・円卓の結果に「ほっとした」という。二期工事の用地買収を命じられ「また農民を強制的に追い出すのか」と悩み続けていた。そのころには「強制的手段を取った国と公団が悪い」と考えるようになっていた。

 現在は闘争の歴史資料などを展示する「成田空港 空と大地の歴史館」(芝山町)で週一回、来館者に闘争の歴史を伝えている。「公共事業などで国の手法に苦しむ人は現在もいるかもしれない。『成田』はどこにでもある。当事者として伝え続けたい」と語る。(渡辺陽太郎)

 

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