はじめに
自閉スペクトラム症(ASD: autism spectrum disorder)は、従来、対人関係や言語コミュニケーションといった、社会的能力の障害と考えられてきました [1–3]。
しかし、近年の認知心理学研究や当事者研究(注)により、その原因が社会性以前の感覚・運動レベルにある可能性が指摘されています [4–7]。
(注)当事者研究 [6,7] とは、ASD などの障害を抱えた当事者による研究で、自己の体験を主体的に内省し分析することで、日常生活でのさまざまな困難とその要因を理解し、より良い自助の方法を探ることを目的としています。
一般に、人間の脳では感覚器から入力された信号を時空間的に統合することで環境認識や行動決定を行っていますが、ASDではその統合能力が定型発達者と異なることにより、高次の認知機能である社会的能力に問題を生じたり、知覚過敏や知覚鈍麻 [8] などの非定型な知覚症状を発生するという仮説です [9]。
ASD知覚体験シミュレータの開発
著者らの研究グループでは、当事者研究を推進する東京大学熊谷晋一郎准教授の研究グループと協働で、ASDの非定型な知覚と社会性の問題にどのような関係があるのかを探るため、ASD の知覚世界をリアルタイムで再現することのできる、ヘッドマウントディスプレイ型知覚体験シミュレータを開発しました(図 1 参照) [10、 11]。
図1:ASD知覚体験シミュレータ。カメラとマイクロフォンから入力された視聴覚信号を実時間で処理し、ヘッドマウントディスプレイ上にASDの視覚世界を再現します。本シミュレータを用いることで、ASDの特異な知覚が社会的行動に与える影響や、脳活動に与える影響を調べることが可能になります。
本シミュレータはヘッドマウントディスプレイ上に取り付けられた USB カメラから、装着者の視野に相当する画像と音声を取得し、有線でつなげられたコンピュータで ASD の視覚世界へと変換後、その結果をヘッドマウントディスプレイ上にリアルタイムで投影するという機能を持ちます。
これを用いることで、シミュレータの装着者は ASD の第一人称視点を見ることができるだけではなく、自己の運動が知覚にどのような影響を与えるのか、また、非定型な知覚が社会的行動にどう影響するのかも検証することができ、ASD 者の真の困りごとの理解に大きく貢献することが期待されます。
ASD の特異な知覚を評価するための実験
知覚体験シミュレータを開発するにあたり、まず、ASD の非定型な知覚が環境からのどのような視聴覚信号によって引き起こされるのかを、実験により調べました。
知覚という「主観的かつ定性的」な体験を「客観的かつ定量的」に評価するため、画像・音声処理技術を用いて様々な知覚過敏・鈍麻のパターンを、あらかじめ画像フィルタや音声フィルタとして用意し、ASD 者が過去の知覚体験を自ら再現し、評価することのできるシステムを開発しました。これは、自己の経験を内省することが苦手な ASD 者にとって、強力なツールとなります。
今回の実験では視覚に着目し、図 2 に示す 6 種類の画像フィルタを用意しました。図 2 (a) は無数の小さな点が現れる砂嵐状のノイズ、(b) はコントラストの強調、(c) は高輝度化、(d) はカラー画像をグレースケールに変換した無彩色化、(e) はぼかしフィルタを施した不鮮明化、そして (f) は物体の輪郭や模様といったエッジを強調したフィルタです。
図2:実験に用いたASDの非定型な視覚症状(6種類)。予備実験の結果から、より多くのASD者が体験したことのある視覚症状を選択しました。画像処理技術を用いて視覚症状をあらかじめ再現しておくことで、内省報告が困難なASD者の主観的体験を、客観的かつ定量的に評価することが可能になります。
フィルタの設計に際しては、従来研究で報告されている ASD の非定型な視覚症状だけではなく、工学的に画像処理技術を用いて表現しうる多様な画像フィルタ(全 12 種類)を用意し、予備実験の結果からより多くの ASD 者が体験したことのある 6 種類を採用しました。また、ASDの非定型な視覚症状には個人差や場面に応じて強度の違いがあることから、フィルタの強度も調整可能にしました。本手法により、ASD者は自らの体験を画像フィルタを用いて再現することが可能になります。【次ページにつづく】
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