サブタイトルは「ルソーからピケティまで」。ピケティの名前が入っているということで、ピケティの解説本のようなものを期待する人もいるかもしれませんが、内容は「ピケティにたどりつくまで」といったもので、経済学のどのような文脈の中からピケティの研究が出てきたかということを明らかにしようとした本です。
ご存知のようにピケティは、資本主義社会において「r(利子率)>g(成長率)」が一般的であり、格差が広がりつつあることを実証的な研究から明らかにしました。
このピケティの研究から、全世界的に格差への関心が高まったわけですが、そうした人間の不平等について考えた思想家にルソーがいます。ルソーは私有財産制の始まりこそが、人類の不幸の大きな原因と考えていました。
と、ここまで書くと、「なるほど、著者はルソーに立ち返ることで格差の問題を根源から考え直そうとしているのだな」と思う人もいるかもしれませんが(ある意味でそれをやろうとしたのが重田園江の『社会契約論』(ちくま新書))、この本はそうしたある意味でわかりやすい企みとも違います。
この本は徹底的に経済学の文脈を追いながら、格差という問題が初期の経済学によっていかに捉えられ、いかに忘れられ、いかに問題として浮上してきたかを論じた本です。
私有財産制度こそが不平等と公共の不幸の原因にほかならないと考えたルソーに対して、アダム・スミスは私有財産制の確立によって経済が発展し、それによって貧しい人の生活も改善されると説きました。
つまり平等が大事だといっても、「みんなで貧しくなる」のでは意味がないと考えたのです。
このスミスとルソーの間に、「成長か格差是正か」「成長と不平等緩和のトレードオフ」というべき議論の原型ができあがっているのですが(24p)、経済学はこの問題を単純に繰り返し論じてきたわけではありません。
スミスやリカードウといった古典派経済学者の間では、資本家、地主、労働者という階級は固定的で、その階級の間を移動することはほとんど考えられていませんでした。
スミスは、労働者の賃金が上がると労働者が子どもを増やすことで労働者人口が増加、それによって労働力の供給が増え賃金が下落するというメカニズムを考えており(32-33p)、労働者は基本的に低い所得しか得ることができまません。
この不平等の問題に正面から取り組んだのがマルクスでした。
マルクスは資本家が労働者を搾取していることが不平等の原因であり、また、技術革新によって常に生み出される失業者が労働者の賃金上昇を阻むと考えました。
一方、19世紀後半から20世紀はじめにかけて成立した新古典派経済学では、階級のちがいといったものは後景に退き、市場における最適な生産、最適な消費といったものが分析の基本に据えられるようになります。
特にアルフレッド・マーシャルは「人的資本」という概念を導入し、労働者も職業訓練などの投資によって賃金などが決まってくると考えました。
労働者も日々の生活に追われるだけではなく、自らの「人的資本」に投資をする資本家としての側面があるというのです。
さらに金融市場が整備されると、資本家と労働者を区別することの意味がますます薄れていきます。
株式市場の発展によって、誰でも株主になれる社会が到来しますが、これはつまり「誰もが資本家になりうる」社会でもあります。
格差の問題は、資本家と労働者の間の格差から、大企業と中小企業の間の格差に問題にシフトしていき、また正規雇用とパートタイマー、本工と期間工といった格差も浮上しました。
そんな中、1950年代になると再びマクロ経済学成長論において、不平等や成長と分配の関係についての関心が復活します。著者はこれを「不平等ルネサンス」と名づけています。
この関心のきっかけとなったのがクズネッツの提唱したクズネッツ曲線です。これは農業主体の経済から産業化が進むとそれに伴い格差は広がるが、一定以上産業化が進展すれば再び格差は縮小に向かうというものです。
これは日本の現実にも当てはまるため飲み込みやすい考えだと思います。江戸時代が終わり日本の産業化が始まるとそれに伴い格差は広がったが、高度成長期になるとその格差は縮小に向かい、一億総中流社会が実現したというのが日本経済のわかりやすいストーリーであり、これはクズネッツ曲線をなぞるような過程になっています。
しかし、1990年代になるとクズネッツ曲線の予測を外れる事態、つまり、先進国内で格差が拡大する傾向が観測されるようになるのです。
そして、今までの新古典派経済学では、「自由な市場経済が存在しているところでは、人々の間における富や知識、能力の分配がどうであろうが、それらは最大限活用されるであろう」と考えられていましたが、「分配パターンが市場における生産と資本蓄積・経済成長に対して影響を与えることがある」(147p)と意識されるようになっていくのです。
このあと、この本では実際に経済成長と格差に関するモデルを構築し、それがどのような帰結を生むのかを見ています。
なかなか要約しにくい部分であるので、ここでは詳しい内容は紹介しませんが、非常に経済学的な議論がなされているので、経済学者がどんなふうに物事を見ているのかを理解する上でも参考になる部分だと思います。
また、その中で資本市場の重要性を指摘しつつも、人的資本を向上させるための教育ローンの分野に関しては情報の非対称性などからどうしても利子率が高くなりがちであり限界があると分析しています。
ここでいよいよピケティが登場します。
といっても登場するのは248pある本書の205pからであり、あくまでもピケティが今までの経済学者のどういった問題意識を受け継いで、どこが違うのか?というエッセンスの抽出のみを行っています。
ピケティは人的資本よりも物的資本に注目し、その物的資本が生み出す格差に焦点を当てました。
さらにクズネッツ曲線についても、それが背後にしっかりとした理論を持ったようなものではなく、2度の大戦やそれとともに進行した福祉国家的な政策によってもたらされたものだと分析しています。
また、著者はピケティがインフレーションにプラスの効果を認めているとします。別にピケティはアベノミクスのような同時代の政策を念頭に置いているわけではありませんが、インフレーションが格差に与える影響というのは確認しておくべきものでしょう。
このようにこの本は決して「ピケティ入門」のようなものではありませんし、単純に「不平等の歴史」を求めるのであれば、「貧困」の発見や社会政策の歴史などに紙幅をとった本のほうが良いのかもしれません。
けれでも、「不平等を経済学がいかに捉えてきたのか」という観点のもとにまとめられたこの本は、そうした入門書とは違った読み応えがあり、独自の視点から構成された「経済学史」としても楽しめる本だと思います。
不平等との闘い ルソーからピケティまで (文春新書)
稲葉 振一郎

ご存知のようにピケティは、資本主義社会において「r(利子率)>g(成長率)」が一般的であり、格差が広がりつつあることを実証的な研究から明らかにしました。
このピケティの研究から、全世界的に格差への関心が高まったわけですが、そうした人間の不平等について考えた思想家にルソーがいます。ルソーは私有財産制の始まりこそが、人類の不幸の大きな原因と考えていました。
と、ここまで書くと、「なるほど、著者はルソーに立ち返ることで格差の問題を根源から考え直そうとしているのだな」と思う人もいるかもしれませんが(ある意味でそれをやろうとしたのが重田園江の『社会契約論』(ちくま新書))、この本はそうしたある意味でわかりやすい企みとも違います。
この本は徹底的に経済学の文脈を追いながら、格差という問題が初期の経済学によっていかに捉えられ、いかに忘れられ、いかに問題として浮上してきたかを論じた本です。
私有財産制度こそが不平等と公共の不幸の原因にほかならないと考えたルソーに対して、アダム・スミスは私有財産制の確立によって経済が発展し、それによって貧しい人の生活も改善されると説きました。
つまり平等が大事だといっても、「みんなで貧しくなる」のでは意味がないと考えたのです。
このスミスとルソーの間に、「成長か格差是正か」「成長と不平等緩和のトレードオフ」というべき議論の原型ができあがっているのですが(24p)、経済学はこの問題を単純に繰り返し論じてきたわけではありません。
スミスやリカードウといった古典派経済学者の間では、資本家、地主、労働者という階級は固定的で、その階級の間を移動することはほとんど考えられていませんでした。
スミスは、労働者の賃金が上がると労働者が子どもを増やすことで労働者人口が増加、それによって労働力の供給が増え賃金が下落するというメカニズムを考えており(32-33p)、労働者は基本的に低い所得しか得ることができまません。
この不平等の問題に正面から取り組んだのがマルクスでした。
マルクスは資本家が労働者を搾取していることが不平等の原因であり、また、技術革新によって常に生み出される失業者が労働者の賃金上昇を阻むと考えました。
一方、19世紀後半から20世紀はじめにかけて成立した新古典派経済学では、階級のちがいといったものは後景に退き、市場における最適な生産、最適な消費といったものが分析の基本に据えられるようになります。
特にアルフレッド・マーシャルは「人的資本」という概念を導入し、労働者も職業訓練などの投資によって賃金などが決まってくると考えました。
労働者も日々の生活に追われるだけではなく、自らの「人的資本」に投資をする資本家としての側面があるというのです。
さらに金融市場が整備されると、資本家と労働者を区別することの意味がますます薄れていきます。
株式市場の発展によって、誰でも株主になれる社会が到来しますが、これはつまり「誰もが資本家になりうる」社会でもあります。
格差の問題は、資本家と労働者の間の格差から、大企業と中小企業の間の格差に問題にシフトしていき、また正規雇用とパートタイマー、本工と期間工といった格差も浮上しました。
そんな中、1950年代になると再びマクロ経済学成長論において、不平等や成長と分配の関係についての関心が復活します。著者はこれを「不平等ルネサンス」と名づけています。
この関心のきっかけとなったのがクズネッツの提唱したクズネッツ曲線です。これは農業主体の経済から産業化が進むとそれに伴い格差は広がるが、一定以上産業化が進展すれば再び格差は縮小に向かうというものです。
これは日本の現実にも当てはまるため飲み込みやすい考えだと思います。江戸時代が終わり日本の産業化が始まるとそれに伴い格差は広がったが、高度成長期になるとその格差は縮小に向かい、一億総中流社会が実現したというのが日本経済のわかりやすいストーリーであり、これはクズネッツ曲線をなぞるような過程になっています。
しかし、1990年代になるとクズネッツ曲線の予測を外れる事態、つまり、先進国内で格差が拡大する傾向が観測されるようになるのです。
そして、今までの新古典派経済学では、「自由な市場経済が存在しているところでは、人々の間における富や知識、能力の分配がどうであろうが、それらは最大限活用されるであろう」と考えられていましたが、「分配パターンが市場における生産と資本蓄積・経済成長に対して影響を与えることがある」(147p)と意識されるようになっていくのです。
このあと、この本では実際に経済成長と格差に関するモデルを構築し、それがどのような帰結を生むのかを見ています。
なかなか要約しにくい部分であるので、ここでは詳しい内容は紹介しませんが、非常に経済学的な議論がなされているので、経済学者がどんなふうに物事を見ているのかを理解する上でも参考になる部分だと思います。
また、その中で資本市場の重要性を指摘しつつも、人的資本を向上させるための教育ローンの分野に関しては情報の非対称性などからどうしても利子率が高くなりがちであり限界があると分析しています。
ここでいよいよピケティが登場します。
といっても登場するのは248pある本書の205pからであり、あくまでもピケティが今までの経済学者のどういった問題意識を受け継いで、どこが違うのか?というエッセンスの抽出のみを行っています。
ピケティは人的資本よりも物的資本に注目し、その物的資本が生み出す格差に焦点を当てました。
さらにクズネッツ曲線についても、それが背後にしっかりとした理論を持ったようなものではなく、2度の大戦やそれとともに進行した福祉国家的な政策によってもたらされたものだと分析しています。
また、著者はピケティがインフレーションにプラスの効果を認めているとします。別にピケティはアベノミクスのような同時代の政策を念頭に置いているわけではありませんが、インフレーションが格差に与える影響というのは確認しておくべきものでしょう。
このようにこの本は決して「ピケティ入門」のようなものではありませんし、単純に「不平等の歴史」を求めるのであれば、「貧困」の発見や社会政策の歴史などに紙幅をとった本のほうが良いのかもしれません。
けれでも、「不平等を経済学がいかに捉えてきたのか」という観点のもとにまとめられたこの本は、そうした入門書とは違った読み応えがあり、独自の視点から構成された「経済学史」としても楽しめる本だと思います。
不平等との闘い ルソーからピケティまで (文春新書)
稲葉 振一郎