今からちょうど2年前の2014年6月6日、ある一人の少年の尊き行いに世界中が涙する出来事がありました。
少年の命日からはや2年、この出来事をご存知の方もそうでない方にも、彼のことを覚えていてほしい…そんな思いから記事にさせて頂きました。よろしければお付き合いください。
中央にはわずか11歳にしてその生涯を閉じた少年がストレッチャーに乗せられており、奥で顔を覆っているのは少年のお母様です。
ここで何より目を引くのは、少年を囲うようにして深々と頭を下げている医師たちの姿です。
中華人民共和国広東省の深圳市に住むリャン・ヤオイー君。
彼は9歳の時の脳に悪性腫瘍が見つかり2年間に渡り闘病生活を続けてきました。しかし病気が根治することはなく、見守ってきた家族や医師たちも、彼の最期のときを見送る以外にもう出来ることはありませんでした。
そして己の死期を悟ったリャンくんは、自分の「最期の願い」を家族と医師たちに打ち明けたのです。
リャンくん:「世界には立派なことをしてる人がたくさんいるよね?ぼくも立派な子になりたいよ。
もうお医者さんにはなれないけれど…ぼくの臓器を誰かに分けてあげて。ぼくも誰かの助けになりたいんだ」
生前のリャンくんの夢は、自分と同じように病気と戦う人たちの命を救えるような立派なお医者さんになることでした。
担当医師やナースの皆さんが、自分の為にどれだけ力を尽くしてくれていたのかをリャンくんは知っていたのでしょう。それはいつしか憧れの対象となり、彼の将来の夢となっていたのです。
しかし、その未来は訪れることなく、2014年6月6日にリャンくんはわずか11歳にしてその生涯を終えたのです。
リャンくんが静かに息を引き取ってまもなく、彼の遺言であり願いを実行すべく、腎臓と肝臓を摘出(※1)するために手術室へ。
リャンくんの死を受け入れるだけでも必死の遺族たち、どんな気持ちで手術室へと向かう息子の姿を見つめていたのでしょうか…。
(※1)脳死後と心臓が停止した死後で提供できる臓器に違いが あるのは、血流が止まった状況から移植後に機能を発揮で きる能力の違いによります。
ちなみに脳死後の提供の場合でも、ドナーから臓器を摘出して、血流再開までに許される時間は、心臓で4時間、肝臓で12時間、肺で8時間、腎臓で24∼48時間といわれています。
脳腫瘍には、脳組織自体から発生する「原発性脳腫瘍」と、他の臓器のがんが脳へ転移してきた「転移性脳腫瘍」の2種類があります。癌患者は基本、臓器の提供はできませんが、前者の場合は提供可能です。
無事に臓器摘出を終えると、医師たちはリャンくんに衣服を着させます。
そこには医師と患者としての関係を超越したものがあったのではないでしょうか。自らの命、肉体を捧げて医療技術の発展に貢献しようとする“仲間”への敬意が。
そして手術室から出てきたリャンくんの遺体に向かい、その場にいた医師たちは誰からともなく深々と頭を下げ、最上の敬意を表したのです。
Cancer boy donates organs
出典 YouTube
本記事の出典は「Cancer boy donates organs」(がんに冒された少年が臓器を寄付)というタイトルでCCTV NEWSで放送されたこちらのニュース動画です。
臓器の寄贈後、中国紅十字会(日本でいう赤十字社)は、リャンくんの尊き行為に深い感謝の意を込めて、名誉証明書を母親の李さんに渡しました。息子さんの願いを尊重したお母様の英断にも頭が下がりますね…。
もしも自分がリャンくんと同じ立場、あるいは我が子がその状況に立たされた時、彼やご遺族のような決断を下せるかどうかはわかりません。
臓器を提供したいという故人の意志を尊重したいと頭では理解していても、実際に受け入れるということは決して容易いことではないからです。
ですが、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの著書『曙光』に、こんな一文があります。
“人を喜ばせると自分も喜べる。誰かを喜ばせることは、自分をも喜びでいっぱいにする。
どんなに小さな事柄でも人を喜ばせることができると、わたしたちの両手も心も喜びでいっぱいになるのだ”
出典フリードリヒ・ニーチェ『曙光』より
自分の命が誰かの助け、喜びになれるのなら、それは自分にとっても喜びになる。
「立派なお医者さんになる」というリャンくんの夢が叶えられることはありませんでした。でも彼の優しくて純粋な想いは、確実に医療技術の発展に貢献し、病気と戦うたくさんの人たちの喜び、夢に繋がっていったことは間違いありません。
さいごに…
2年前、報道でこのニュースを知ったとき、筆者は涙を抑えることができませんでした。ですが、自分の死後に臓器を提供することが美徳だと強調したいのではありません。
当たり前のことですが、私たちは自分の為に日々を生きています。それでも何かのきっかけやタイミングで、自分が誰かの役に、笑顔になれていると感じられると、とても嬉しくなれるもの。
なのに私たちは、そんな気持ちを時々忘れ、失っているときがあります。リャンくんの尊き行為はそれを思い出させてくれました。だからそれを忘れないようにしなきゃなって、そんな風に感じるわけです。
いまこうして生きている私たちも、誰かの喜びを自分の喜びとして受け入れるリャンくんのような、心やさしき人でありたいものですね。