全く読書が関係ない話になるが、あるきっかけがあってどうしても主張したいことなので書いておく。
私が出た私大はそこそこ高学歴の部類に入るが、本当に「そこそこ」の域を出ない。
一般受験組の多数が他の第一志望(旧帝大、上位国立など)を落ちて来た人だ。
かつて私もそうだったけれど、彼らの中には挫折感から学歴コンプレックスをこじらせてしまったり、歪んだ学歴観の中で育ってきて性格をこじらせてしまった人が少なくない。
自虐に走るか、偏差値がより低い大学を見下すか、無気力になるか。
まあ私も国立は狙えないにしても第一志望失敗組だから、その中でいろいろ挫折とか学歴への執着とか、学歴に異常に執着する親とか周囲とかと戦ってきてやっと冷静になれたわけだ。
そして今、やっと気づいたのは
学歴なんて、幸せを得るための一手段に過ぎないということ。
by Silvia Sala
もうあと半年と少しもしたら、今年もまた志望大学に落ちて自ら命を絶ってしまう人が出たりするんだろうか。痛ましいことだ。
親も子も、「このレベルの大学に入れなかったからもうお終いだ」なんて思うのだろうか。私に彼らの心情を正確に推しはかることなどできはしないけれど。
学歴は何のために手に入れるんだろう。一流のいい会社に入るためだろうか。
いい会社には何のために入るんだろう。人それぞれだろうけれど、安泰な人生と保証された給料とか、周囲に称賛されるキャリアとかを得るためだろうか。
じゃあそういうものはなんで欲しいんだろう。
生活の保証=安泰な人生だったり、安泰な人生=幸せ、なんて思っているからだったりするんじゃないのか。
「いい会社」っていうのにくっついてくる、いろんなもの。世間の称賛とか自分のプライドとか、給料に福利厚生に、それら、そのいくつかを手に入れた先が「幸せな人生」になっていないか。
よく考えてほしい。
別に、「いい会社」にくっついてくるであろうそれらを手に入れる手段は、いい会社に入る以外にも無数にある。
いい会社に入ったらもれなくついてくる可能性は上がるけれど、やりたくも向いてもないことに死ぬほどの苦労をしてまで「学歴」という一つの手段にこだわる必要はあるのだろうか。
そもそも、それらを幸せだと感じない人間だって普通にいるはずなのだ。
私がこの記事で最も伝えたいことは、
学歴は幸せを得るための一手段だ。その幸せになるための手段で不幸になるなんて、おかしい。
これが私の持論だ。
異論はあると思うけれど、
勉強が好きでも得意でもなく、明確に将来の目標もないのに「いい大学に入る」ことに捕らわれている人は、一度考えてみてほしいと思う。
※サブブログの方に投稿してしまっていたのでそのままにしようかとも思いましたが、そちらを消してこっちに移しました。すみません。