谷崎潤一郎の恋文 ~文豪が貫いた意志~
谷崎潤一郎 恋文に秘めた思い
谷崎の代表作、「細雪」。
妻・松子と、その姉妹がモデルとなった物語です。
四季折々の行事や上方文化の華やかな世界。
次女・幸子として描かれているのが、松子です。
大阪の裕福な家に生まれた松子。
谷崎と出会ったのは昭和2年、24歳のとき。
関西随一の豪商に嫁ぎ、御寮人様(若奥様)と呼ばれていました。
谷崎は当時40歳。
大阪に講演に来ていたときに松子と知り合い、次第にひかれ合っていきます。
以来、2人が交わした大量の手紙。
遺族が大切に保管していました。
谷崎研究の第一人者も、松子が谷崎に宛てた手紙を目にするのは初めてだといいます。
早稲田大学 千葉俊二教授
「谷崎と松子との恋愛劇を、臨場感を持って、そのドキュメントが大量な書簡を通して現れてきたということは、1つの事件と言っていいほどの大きな出来事。」
出会って翌年の松子の手紙。
谷崎への思いがつづられています。
昭和3年(推定) 松子
“あなた様の夢を、あけ方覚めるまで見つづけました。
いろいろ御話が御座います。”
2人が出会う前、九州の炭鉱王の妻・白蓮が学生と駆け落ちした事件が世間を騒がせていました。
豪商の若妻の道ならぬ恋も、決して許されるものではありませんでした。
谷崎にも当時、妻・丁未子(とみこ)がいました。
しかし華やかで気品のある松子にひかれる思いを、止めることはできませんでした。
昭和7年 潤一郎
“私には崇拝する高貴の女性がなければ、思うように創作が出来ないのでございますが、それがようよう今日になって初めて、そういう御方様にめぐり合うことが出来たのでございます。”
ジャーナリストの田原総一朗さん。
学生のころから谷崎文学を愛読しています。
自分の思いを貫き通そうとする谷崎の生き方がそのまま手紙に表れているといいます。
ジャーナリスト 田原総一朗さん
「あるがままの人間、あるがままに生きようとしたんじゃないか。
変な道徳や変な倫理意識で抑えるのは良くないと、むしろそういうことを抑えていたら自分の作品もだめになる。
むしろ抑えないと。
そこを生きていく。
そうすると世の中のひんしゅくも浴びる、批判もされるだろう、軽蔑もされるだろうということが、谷崎にとっては必死の生き方だった。」
一方、谷崎文学を熱心に読んでいるという壇蜜さん。
松子は谷崎に、危うい魅力を感じていたのではないかといいます。
タレント 壇蜜さん
「配偶者の事を気遣いながらも、熱烈なラブレターを書いているのは心配でしかないですよね。
自分に対して、もしそれをされたとしたら。
悪いなと思いつつも、お互いに家族を壊してまで一緒にいるという事に罪を感じながらも、共犯者として罪深いけど甘美であるというのを(谷崎は)伝える人。」
当時、谷崎と松子を取り巻く環境は大きく変わろうとしていました。
昭和4年に始まった世界恐慌。
松子の夫の事業も急速に傾いていきます。
松子の醸し出す気品や華やかさも、いずれ消えてしまうのではないか。
谷崎は作品の中に、その美しさをとどめたいと思うようになっていきます。
昭和7年 潤一郎
“もし幸いに私の芸術が後世まで残るものならば、それはあなた様というものを伝えるためとおぼし召して下さいまし。”
さらに、自分の愛は永遠で松子にすべてをささげるという誓約書まで書いていました。
“御寮人様の忠僕として、もちろん私の生命、身体、家族、兄弟の収入などすべて御寮人様のご所有となし、おそばにお仕えさせていただきたくお願い申し上げます。”
谷崎が理想とする愛の形は作品に反映されます。
「春琴抄(しゅんきんしょう)」です。
美しき盲目の琴の師匠・春琴と弟子の佐助。
顔に大やけどを負った春琴は、佐助に顔を見られることを嫌がります。
佐助はみずから両目を針で刺し、愛する人に一生をささげることを誓います。
谷崎の作品の中で最も「春琴抄」が好きだというタレントの太田光さん、光代さん夫妻です。
谷崎が追い求める美意識に改めて魅せられたといいます。
タレント 太田光さん
「言ってみればリアリティーじゃなくて、本当に美しいものって何かっていうのを本当は書きたかったんだろう。
『春琴抄』は最高傑作。」
太田光代さん
「女性が憧れる愛され方、そういうのはある。」