大河ドラマ「真田丸」で、有名な小田原評定が行われていましたね。今回は、この小田原評定の解説や、どのような意味があったのか紹介していきたいと思います。
真田丸!小田原評定の始まり
天下をほぼ手中におさめていた豊臣秀吉に従おうとしていなかったのが、北条氏政・氏直親子でした。北条は、豊臣秀吉に従っていた真田昌幸の城を攻め落とした事によって、ついに豊臣秀吉は小田原征伐を行う事になりました。
この時、北条の本拠地である小田原城を包囲した豊臣軍は約22万と言われています。伊達政宗は北条と連携をするか模索していたという説もありますが、豊臣軍があまりにも大軍である事を知って、死装束で豊臣秀吉の前に現れて頭を下げたと言われています。
北条家では、豊臣秀吉に降伏をするか戦を続けるか評定をするようになりました。この評定こそ、小田原評定だったのです。
真田丸!小田原評定がことわざに?
この小田原評定は、実はことわざに使われていたのはご存知でしたか?どのような時に使われることわざかと言うと、長引くだけで決着がつかない相談の事を小田原評定と言うようになったのです。
北条家が小田原評定をしている時に、豊臣家の家臣達は北条家をあざけ笑っていたと伝えられています。それは降伏をする時期が遅くなればなるほど、待遇が悪くなるからです。実際の所、小田原征伐が始まる前に豊臣秀吉に降伏をしていれば、徳川家康や毛利輝元と並ぶ五大老に数えられていたと思います。
そして、徳川家康や上杉景勝が早々に、豊臣秀吉に従ったら本領安堵をされていた事を考えれば、北条家も本領安堵されていたでしょう。
しかし、北条家は降伏をするのが、あまりにも遅くて本領安堵されなかったのです。
そのため、人間は引き時が肝心という事を北条家が身をもって、私達に教えてくれています。北条家とは逆に、徳川家康という英雄は、進むべき時と引き時が日本の歴史上で最も上手かったと言えるでしょう(三方原の戦をのぞけば)。
価格:1,200円 |