第119回 菊地 哲榮 氏 (株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長

5. 細川健さんに見込まれてハンズの代表に就任


(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮 氏
−−菊地さんは78年に渡辺プロを退社されていますが、渡辺プロでの最後の仕事というのは何だったんですか?

菊地:渡辺プロでの最後は再び新人セクションにいまして、そこで最後に知り合ったのが、松原みきというアーティストです。

−−「真夜中のドア」の松原みきさんですね。

菊地:そうです。私は「会社にいるのは10年くらいかな」と思っていて、その頃がちょうど10年目で、色々考えているときに子どもが病気にかかるんですね。女房から電話がかかってきて、泣きながら「再生不良性貧血」だと。これは白血病の一種だそうで、血小板ができない病気なんです。今だったら脊髄移植で治せるそうですが、当時はその治療できなくて。それで辞表を出したのが女房の誕生日の5月15日。1ヶ月後に受理。子供が亡くなったのが6月16日でした。

−−亡くなられてしまったんですか…。

菊地:ええ、会社に辞表を出してちょうど1ヶ月後です。3歳半で亡くなりました。子どもが病気になったのは会社を辞める1つの大きな理由でした。それで辞表を出した後は2〜3ヶ月、ポカーンとしつつ「何しようかな」と考えていて、選択肢は3つあったんですよ。1つは、行けたかどうか分かりませんが理工系の会社に入る。もう1つは、もちろん音楽の仕事。3つ目は代議士の秘書。

−−代議士の秘書ですか?

菊地:そうです。学生の頃、親父の友人の、政治家のパーティーに行って「フレー!フレー!」と応援エールをやっていたんですよ。「おじさん、頑張りましょう!」とか言って(笑)。それで、その人は私が退職したということを親父から聞いていたので、親父から「秘書に来いって言っているぞ」と。それで議員会館の近くでその人に会って話を聞いたんですが、「やっぱり違うな」と思ったんです。

−−でも、ちょっとは考えたんですか?

菊地:ちょっとは考えました。面白いかもしれないなと思って。もしかしたら今頃、代議士になっていたかもしれないですね(笑)。それで、私が先に渡辺プロを辞めたら、続いて辞めたのがいたんですよ。それは藤田君という渡辺プロの後輩で、一緒に天地真理の宣伝プロモーションをやっていた宣伝部の人で、彼から「音楽の仕事、一緒にやらない?」という話になりました。あと、細川健さんが「一緒にやろうよ」と誘ってきて、ポケットパークという会社を1978年11月に創ったんです。

−−細川健さんとはどういう繋がりだったんですか?

菊地:渡辺プロとヤングジャパンで一緒にやった「アトリエ」というアーティストがいたんです。女性ボーカル、男性二人のギター&コーラスのグループで、その担当を私がしていて、細川さんとはアリスのコンサートの前座を無理矢理お願いしたりしました。それもあって、細川さんから声がかかったので、藤田君と「じゃあ3人で100万円ずつ出し合って、300万円で株式会社を作ろう」ということになったんです。その時点では、所属アーティストはゼロでした。その後、松原みきのお父さんが「娘がどうしても菊地さんにマネージメントしてほしいと言っている」といらっしゃったんです。私は「カネもないし、力もないから、やめた方がいいですよ」と答えたんですけどね(笑)。

−− (笑)。

菊地:「渡辺プロでやった方がいいですよ」と。それで一旦帰ってもらったんですが、「娘が絶対に菊地さんのところでやりたい」とまた来られたんです。そこで諦めて貰うために「でしたら渡辺プロに行って、ちゃんと話をつけてきた方がいいですよ」と提案したんです。

−−自分で言ってきてくれと。

菊地:はい、私が話をするんじゃなくて、お父さんが行って下さいと。「うまく話が収まるんでしたら考えます」と伝えました。そうしたらお父さんが話をつけてきちゃったんです(笑)。「話をつけてきました」というので、ビックリしました。確認のために渡辺プロにいる応援部先輩の高橋さんに「いいんですか?」と聞いたら、「いいよ。もう社長も“うん”と言ったから」「じゃあ、分かりました」と。正直参ったなと思いましたね(笑)。

−−菊地さんは「絶対に話がつくわけない」と思っていたわけですよね。

菊地:もちろん。だって、渡辺プロがお金をかけてレッスンさせて全部面倒見ていた子ですから、絶対に手放すわけないと思ったんです(笑)。そうしたら、説得してきちゃったというから、参ったなと。それで松原みきのマネージメントをやることになるわけです。

ポケットパークを作ったときに、社員が私と藤田、もう1人渡辺プロを辞めた関根君がいたんですが、とにかく収入源がないので、エピックの丸さん(丸山茂雄氏)に「関根を出向させるから何かお金になる仕事あげてくれない?」と頼んだら「あーいいよ」と。藤田は藤田で、パルコ劇場に出向。私は私で、オフィス・トゥーワンで音楽番組の雇われプロデューサーになりました。

−−なんだか人材派遣会社みたいな感じですね。

菊地:自分も派遣しちゃうんですけどね(笑)。その出向料で会社を運営していたんです。

−−では、オフィス・トゥーワンの仕事もしつつ、松原みきさんのマネージメントもしていたんですか?

菊地:ええ。松原みきは、ポニーキャニオンの金子ディレクターが手を挙げてくれて、ポニーキャニオンから1979年11月5日にファーストシングル「真夜中のドア~Stay with me」でデビューが決まるんですよ。それで私もどんどんお金をつぎ込んでいくんですが、そうこうしているうちに会社のお金がなくなってしまって、もうダメかなと思ったときに「POCKET PARK」という会社名と同名のアルバムが約20万枚売れるんです。「これで会社が続けられる…」と思いましたね(笑)。

−−まさに綱渡りですね(笑)。

菊地:あと渡辺プロの頃から知り合いの、フジテレビプロデューサーの疋田拓さんが「夜のヒットスタジオ」に月一回も松原みきを出してくれたんですよ。これは助かりましたね。もう何の力もないですし、お金も全然なかったのに、疋田拓さんは「松原みきが個性もあって面白いから」といって出してくれたんです。それで「夜のヒットスタジオ」出演の影響もあって売れていくんです。

それで松原みきが売れたので、「菊地は渡辺プロから独立してもアーティストを売り込む力がある」と細川さんに見込まれて、「ハンズに来て社長をやってくれ」と声がかかるわけです。でも、私にはポケットパークがありましたし、ずっと断っていたんですよ。それが何回と口説かれて、ポケットパークを続けることを条件に、昭和56年1月からハンズの社長をやり始めました。細川さんは結構気前が良くて、びっくりするくらい給料をくれたんですよ。「こんなにくれるんだったら一所懸命に頑張らなきゃいけないな」と思いました(笑)。

−−(笑)。

菊地:「これ、もらい過ぎなんじゃないの?」と言ったら、「いや、社員にもこれくらい出しているから」と(笑)。「分かった。じゃあ、給料分ちゃんと働くよ」と働き始めて、初めにしたのは地方のイベンターさんに会いに行くことでした。それはなぜかというと、イベンターさんたちは「アリスは自分たちが売った」と自負していたんですよ。それがハンズを作ったことによりキョードー東京グループへ移行しちゃったから、イベンターさんたちは怒っていたんですね。

−−キョードー東京に横取りにされたと。

菊地:それで「今度、ハンズの社長になった菊地です」と挨拶に地方をまわったら総スカンですよ(笑)。「俺たちがアリスを売ったのに、なんでキョードー東京なんだよ。ひどいじゃないか」とブツブツ言われてね。それは私がやったわけではありませんが、「ごめんなさい。また何かあったら一緒に仕事しましょう」ととにかく謝りました。「嫌だよ」とか言われましたが(笑)。

それで1980年に、佐野元春君がデビューするんですね。私は佐野君の曲を聴いて「面白い、これはいける」と思って、主にイベンターさんのネットワークに佐野君を紹介したら、皆さん是非、やりたいと返事が返ってきました。レコードもヒットしコンサートも全会場ソールドアウト、わーっと売れました。これでキョードー東京グループとイベンターさんの2つのネットワークができました。

−−なるほど。

菊地:ウチとしては複数のネットワークがあった方がいいじゃないですか。各地区のイベンターさんも必ず複数と取引しているんですよ。ウチのニューアーティストが出たとき全てのネットワークに紹介することで、より熱い担当者、よりいい条件で話が進められるんですね。

ウチの会社ってニュートラルなんです。どこと付き合ったらいけないというのがない。私は社員に「ここと付き合え」とか「ここと付き合うな」とか強制しないです。もちろん未収金があったり、チョンボがあったら駄目ですが、それ以外は好きにやれと言っています。自分が付き合って気持ちいい人と仕事やるのがいいよと。だからプロモーター・イベンターさんとの付き合いは多ければ多いほどいいと思います。選択肢が多くなりますし、アーティストに一番合った担当者、条件だって一番良いところとやれますからね。それは、プレイガイドさんも同様です。ぴあさんもローソンチケットさんもイープラスさんもCNさんも同じです。