第119回 菊地 哲榮 氏 (株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長

4. 新人セクションで天地真理を発掘〜全てはアーティストのため


−−新人セクションってどのような仕事をするんですか?

菊地:北は北海道、南は九州まで東京音楽学院という学校があって、そこに新人を溜めておくわけです。レッスンをさせてね。私が「この子は音程がフラット気味になるから修正して」「この子はリズム感が悪いから」とか指示して、半年に一回デビューさせてもいいかなという新人を集めて、東京で社長にプレゼンするという役目なんです。そこで出会ったのが天地真理です。まだデビュー前の18か19の頃でした。

−−菊地さんが天地さんを発掘されたんですね。

菊地:そうですね。可愛い子だなと思って、歌わせてみたら男のファルセットっぽい声を出すんですよね。「特徴的な声だし、これはいいかもしれない」と思いました。普通、新人セクションはデビューするまで担当して、デビューさせる段階になると、担当は制作セクションに移動するんですが、「ずっと天地のマネージャーをやろう」と考えました。

それでTBSドラマ「時間ですよ」のオーディションを受けさせたんです。オーディションの役は風呂屋のお手伝いさん役で、天地真理には全然合わないなと思いましたが、「まあいいや」と(笑)。するとオーディションに受かっちゃって、しかもそのお手伝いさん役ではなく、天地真理用に新たに役を作ると言うんです。一説には森光子さんが「真理ちゃんのために新たな役を」とおっしゃってくれたらしいんですが、ディレクターの久世光彦さんも「任せておけ」と言ってくれましてね。

−−すごいですね。それだけ天地さんに光るモノがあったんでしょうね。

菊地:でも、初回の台本を見ると天地真理の役が載っていないんですよ。思わず「あんまりじゃないですか」と久世さんに詰め寄りました(笑)。それでやっと出番と思ったら、2階に上がって、白いギターで「恋はみずいろ」を歌う天地真理、それを下から堺正章が見ているという5秒くらいのシーン(笑)。再度、久世さんに「1時間番組で5秒はないじゃないですか」と言ったら、「あれでいいんだよ。セリフなんて言ったってダメなんだから」「いやセリフくらいくださいよ」とお願いしたら、「ケンちゃーん」という一言だけ(笑)。

−−(笑)。

菊地:「何なんだよ、あれは」みたいな感じでした(笑)。そのうちマチャアキが天地真理をおぶったり、少しずつ出番が増えてきて、「あの子は誰だ」という投書もどんどん来るようになったんです。それで天地真理の人気が出てきて、昭和46年10月に「水色の恋」でデビュー、あれよあれよとベストテンに入りました。

−−結果的に仕掛けはバッチリだったんですね。

菊地:バッチリでしたね。当時、渡辺プロは会社を挙げて小柳ルミ子を売ろうとしたわけです。同時期にアイドルは2人も必要ないですし、こっちは全然ダークホース。向こうは大人数に対して、こちらは私とCBSソニーの中曾根さん、渡辺音楽出版の中島さんの3人でやっていました。もちろん全社挙げての小柳ルミ子はドーンと売れるわけですよ。こっちはこっちでギリギリベストテンに入ったくらいで、「これくらいがちょうどいいな」と思っていたんですが、2曲目の「ちいさな恋」で1位になっちゃうんですよね。

−−私はその頃、中学生くらいですからよく覚えていますが、圧倒的に天地真理派の方が多かったですね。同年代はみんな「天地真理が好き」って言っていました。

菊地:ブリヂストンが天地真理のスポンサーになって「真理ちゃん自転車」とか色んなものを作っていたんですよ。そこからお金を集めて、とにかく色んなイベントをやりました。例えば、応援部で培った人文字で “真理”と書いて、上からヘリコプターでその画を撮るとか、「恋する夏の日」のときは夏のリゾート地のテニスコートを全部借り切って、「テニスコートで真理ちゃんと遊ぼう」というイベントをやったり、天地真理のステータスを上げるのに懸命でした。

−−天地さんがそれだけ売れると、菊地さんも渡辺プロ内で一目置かれるようになったんじゃないですか?

菊地:いや、私は変人扱いされていたので。普通は上司が「この仕事をやれ」と言ったらやらなきゃいけないじゃないですか。でも、私はアーティストのためにならないと思ったら、全て拒否していました。例えば、営業部が「○○市のイベント」とか勝手にスケジュール帳に書くじゃないですか。私はそれをすぐ消すんですよ (笑)。

−−えらい強気ですね(笑)。

菊地:全てはアーティストを守るためです。

−−それはマネージャーの理想型ではあるんでしょうが、会社組織の中では許されなかったんじゃないですか?

菊地:会社組織には合わないですよ。結局、天地真理と私はケンカ別れするんですが、ケンカ別れをして喜ぶのは会社です。天地真理をやっと思い通りにできるわけですからね。その後、井上堯之バンドと沢田研二のマネージャーを担当するようになって、そこで井上堯之さんと出会うんです。

−−タイガース解散後ですね。

菊地:そうです。1974年8月4日に内田裕也さんが郡山ワンステップフェスティバルをやるんですよ。いわゆる日本版ウッドストックで、キャロル、クリエイション等、渋めのロックバンドがたくさん出ていて、そこに沢田研二&井上堯之バンドが出たんですよ。その同時期に「ジュリー・ロックンツアー’74」というのをやりました。これが私の記憶にある「初めての大型全国ツアー」なんですよ。それまでは地方の興行師の方達が「この日に来てくれ」と依頼されたスケジュールに従って行くだけだったんですが、「この日からこの時期まで全国ツアーで回るぞ」と連絡し会場を押さえて、沢田がデザインした11tトラックで全国を回るんです。それが今ある全国ツアーの原型ですね。

−−そこは全部自分で会場を仕切るわけですよね。

菊地:全部仕切ります。主導権はこちらにありますから。それで全国ツアーをやって、ツアー途中に地元の人たちとの野球大会をやったりね。こちらから主体的にエンターテイメントを持って行くという感じでしょうかね。

−−当時はそういう考え方はなかったんですか?

菊地:あんな大がかりなのはなかったですね。沢田研二のようなビッグアーティストがやるのは初めてだと思います。ツアーは大成功で、みんなキャッキャッ喜んでお祭り騒ぎのようでした。