第119回 菊地 哲榮 氏 (株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長
2. 「エンターテイメントは素晴らしい!」〜早稲田大学応援部での日々
−−応援部というのはくわしく知らないんですが、やはり独特の世界なんですか?
菊地:他の運動部って当たり前ですが試合があるので、自分の体のこと大切にするんですよ。つまり、歩けなくなるようなしごき方は絶対しないんですね。
−−あまりやり過ぎると試合に出られなくなっちゃいますものね。
菊地:そうです。でも、応援部には晴れの舞台はあっても試合がないですから、すごいしごかれ方をするんですよ。20段も30段もある石段をウサギ跳びで上がるさまを想像してみて下さい(笑)。
−−私の知っている応援団に対する知識は、まさに漫画「花の応援団」の世界と言いますか、ああいう怖いところなのかなと思ってしまうんです。
菊地:もちろん、そういう雰囲気は多少あるかもしれませんが、早稲田大学応援部は「一般学生の模範たれ」というテーマがありました。部がかざしている言葉に「逞しい根に美しい花を」というのがあるんですが、人前で応援する、その花のような出来事もやはり日頃の地道な訓練あってこそですし、あくまでも選手たちが花であり、俺たちは根っこであると。
−−いわゆる硬派ですか?
菊地:硬派ですね。チンピラでは一般学生の模範にならないですから。とても真面目で硬派です。春と秋の6大学野球は必ず全部応援、それ以外に箱根駅伝、サッカー、バレーボール、アイスホッケー、空手、ボクシング、レガッタとあらゆるスポーツの応援に行きました。ちなみにラグビーはあの当時集団応援してはいけなかったんですよね。
あと、早稲田大学応援部吹奏楽団とニューオーリンズジャズクラブ、ハイソサィエティオーケストラ、ナレオハワイアンズ、あとタモリがいたダンモ(モダンジャズ研究会)。これらが集まって各地区のOB会に呼ばれて、演奏旅行という全国ツアーをするんですが、私はそこで司会をやったりしていました。
−−それも応援部の仕事なんですね。
菊地:そうです。毎年10カ所近く行っていました。また、応援部主催の稲穂祭という学園祭を大隈講堂でやるんですが、その当時のトップアーティストたちを呼ぶんですよ。それで「なんでこんなビックアーティストを早稲田大学応援部は呼べるんだろう?」と思って先輩に聞くと、応援部や剣道部、空手部の先輩たちが渡辺プロにいると。しかも渡辺社長も早稲田なんだよ、と言うんですね。
−−なるほど。
菊地:私が3年生のときに稲穂祭の責任者になるんですよ。それで渡辺プロへ行ってザ・ピーナッツとか森進一とかの契約をしてくるんです。
−−要するに今やっていることは学生時代から変わらないんですね(笑)。
菊地:全く同じです(笑)。それで3年のときにザ・ピーナッツを呼んで200万くらい利益が出たんですよ。その当時の200万って、今の2、3,000万ですからね。その200万円をアタッシュケースに詰めて、それを銀行に持っていって「貯金お願いします」って。学生服を着た男がね(笑)。
−−すごいですね。菊地さんはそういったお金を管理する役割だったと?
菊地:応援部には代表委員主務と代表委員主将という役職があって、主将がいわゆる団長で、私は代表委員主務、つまりマネージャーだったんですよ。ですから全運動部をまとめたり、予算管理をしていたんです。
その次の年の昭和42年、全世界の学生のオリンピック、ユニバーシアードが開催されたんですが、世界中の学生アスリートが集まるから、そのアスリートたちを早稲田に呼んで、日本の武道、文化を色々見てもらって文化交流しようと計画したんですね。それで計算したら予算が200万だったんですよ。去年の稲穂祭で200万利益を出した経験がありましたから「ショーをやって、その資金を稼ごう」とまた渡辺プロへ行って、今度は伊東ゆかりさんに出てもらえることになったんです。あのときの伊東ゆかりさんといったら、全盛期の宇多田ヒカル、安室奈美恵とか浜崎あゆみみたいなイメージですよ。
−−「小指の思い出」の頃ですか?
菊地:そうですね。それで1万人収容できる早稲田大学記念会堂でやろうと。切符は完売して超満員になりました。一部が早稲田の学生アスリートの集い、二部が早稲田のOBの集い、そして三部が伊東ゆかりショーという構成で、チャーリー石黒と東京パンチョスというバンドがバックを務めました。それでショーが始まって、バッと照明をたいた瞬間に停電。まあ、これはよくあることですし「そのうち復旧するだろう」と思っていたら、全然復旧しないんですよ。
−−それは冷や汗ものですね…。
菊地:5分でも長いのに10分経っても復旧しなかったので、出演者の皆さんに別棟へ移動してもらって、時間稼ぎをしたんですが、それでも復旧しないので客席がザワザワしているんです。私も「200万の利益が200万の借金になってしまうかもしれない…」とビクビクしていました。
それで伊東ゆかりさんのマネージャーに「すいませんけど、これで歌って下さい」と単一の電池が入った応援部で使っているメガホンを渡したら「いいかげんにしろ! 伊東ゆかりを何だと思っているんだ!」と怒られて…そりゃそうですよね(笑)。そうしたらチャーリー石黒さんが「2、3曲歌ってあげたら?」とそのマネージャーを説得してくれたんですよ。
−−助け船を出してくれたんですね。
菊地:そうです。電気楽器はエレキギターだけで、ピアノ、ウッド・ベース、サックス、トロンボーン、ドラムとみんな生でしたしね。それで伊東ゆかりさんがメガホンを持って歌ったんです。私は急いで客席の一番端へ行って確認したら、伊東さんの歌声がちゃんと聞こえるんです。一万人入る会場ですよ? なぜかといったらみんな事情が分かっていますから、物音一つ出さずにシーンとしているんですよ。そのときはものすごく感動して、涙が止まらなかったですね。
それで2曲メガホンで歌って、3曲目の1コーラスか2コーラス目で、電気が復旧したんです。こんなの、演出しようと思ったってできませんよ(笑)。照明が七色に光り、お客さんもすごく盛り上がって、当然歌声もマイクに代わりますし、バンドもフルボリュームで演奏するわけです。そりゃ、感動しますよ。まさに地獄から天国でしたね。
その瞬間に「やはりエンターテイメントは素晴らしいな」と思いました。こういった感動をみんなに観てもらいたい、聴いてもらいたい。こういう仕事はいいなと思ったんです。
−−そこで菊地さんの道が決まったんですね。
菊地:ええ。それから今まで、私の仕事は何も変わってないですからね。
−−結局、伊東ゆかりさんの公演も利益が出たんですか?
菊地:計画通り200万ほど利益が出て、それを資金にユニバーシアードのアスリートたちを大隈庭園に招いて、剣道や空手、お花をやったり茶道をやったりしました。それで、庭園に提灯をぶら下げたんですが、これは学生たちに全部持っていかれましたね (笑)。「やばいな! これ返さなくちゃいけないのに…」って(笑)。