第119回 菊地 哲榮 氏 (株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長

菊地 哲榮 氏
(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長
(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮 氏
 今回の「Musicman's RELAY」は、(株)キョードー東京 代表取締役社長 山崎芳人さんからのご紹介で、(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長 菊地哲榮さんのご登場です。早稲田大学在学中に応援部で活躍した菊地さんは、渡辺プロダクション入社後、ザ・タイガース、沢田研二、木の実ナナ、天地真理など多くのアーティストのマネージメントと新人発掘を担当。独立後、ハンズ(現 ハンズオン・エンタテインメント)代表取締役に就任され、松任谷由実、アリス、ミスチル、ケツメイシ、森山直太朗、KARAなど数多くのコンサートを手掛けられてきました。今回は渡辺プロ時代のお話から、菊地さんの考えるコンサート&エンターテイメントビジネスまで、たっぷり伺いました。
[2014年2月13日 / (株)ハンズオン・エンタテインメントにて]
プロフィール
菊地 哲榮(きくち・あきひで)
(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役社長

1946年1月9日北海道函館生まれ。
‘68年、早稲田大学理工学部電気通信学科及び早稲田大学体育局応援部卒業後、
渡辺プロダクションにて、ザ・タイガース、沢田研二、木の実ナナ、天地真理のマネージメントを担当。
‘78年独立後、松任谷由実、アリス、ミスチル、ケツメイシ、森山直太朗、KARAなどコンサートの企画制作会社ハンズ代表取締役(現ハンズオン・エンタテインメント)。他に2000年さいたまスーパーアリーナこけら落とし「NINAGAWA 火の鳥」、第19回福岡国民文化祭2004、2007年7月1日千葉市美浜文化ホールこけら落とし「美浜に吹く風」、2011年5月14日、東日本大震災支援チャリティコンサート等プロデュースを担当。
2010年04月子会社3社を吸収合併,現在、(株)ハンズオン・エンタテインメント代表取締役社長
趣味:スキューバダイビング、麻雀
現在、(社)日本音楽制作者連盟常務理事、千葉市美浜文化ホール芸術監督(初代館長),早稲田大学メディアネットワークセンター講師、 早稲田大学校歌研究会座長、早稲田大学応援部稲門会会長

1. 文武両道の少年時代


−−前回ご登場頂いたキュードー東京 山崎さんとはどういったご関係なんでしょうか?

菊地:山崎さんとは取引先という関係なんですが、ハンズ(現 ハンズオン・エンタテインメント)はもともとヤングジャパングループとキョードー東京グループが50%ずつ出資して作った会社なんですよ。

−−ハンズがヤングジャパン系列というのは存じ上げていましたが、キョードー東京も関係していたんですね。

菊地:ええ。ヤングジャパン50%、キョードー東京50%でスタートしたんです。それまで外国人アーティストしかやってこなかったキョードー東京グループが国内アーティストもやろうということで作った会社がハンズで、たぶん一発目はアリスだと思います。ハンズの初代社長はキョードー東京の内野二朗さん、私は2代目で、正式には昭和56年の1月からやっています。

−−ここから菊地さんご本人の話に移りたいんですが、ご出身はどちらですか?

菊地:北海道函館市堀川町で生まれ、会所町という町で大家族に囲まれて育ちました。今は名前が変わってしまったんですが、そこは函館山と函館港の中腹くらいにあって、よくソリに乗って遊んでいました。

−−函館って、すごくおしゃれな街ですよね。横浜とか神戸に通ずるような。

菊地:まず、食べ物が美味しいというイメージがありますね。あと函館山から見る夜景が素晴らしいです。香港に並ぶくらいの夜景ですね。函館は良い思い出ばっかりですね。

−−函館にはおいくつまでいらっしゃったんですか?

菊地:小学校2年までいたんですが、親父が関わっている事業が失敗したらしくて、逃げるように東京へ引っ越しました。今だったら飛行機でひとっ飛びですが、当時は青函連絡船で行くわけですよ。それで船の上からどんよりした津軽海峡を見て、見送りの紙テープが舞う中「もう帰ってこられないな、じいちゃん、ばあちゃんにも一生会えないな」と思いました。もちろん金がないですから自由席の汽車を乗り継いで、上野駅に到着しまして、千代田区立神田小学校に通うようになるんです。

−−またずいぶん都心に引っ越されたんですね。

菊地:神田小学校はオシャレな小学校でした。運動会のときに紅組と白組に分かれるじゃないですか。それで紅組、白組のどちらかが早稲田大学校歌「都の西北」を替え歌にして歌っているんですよ。もう片方は慶應の応援歌「若き血」で。

−−それはみんな早稲田か慶應のどちらかへ行くということですか?

菊地:いや、よく分からないんですけどね。でも、当時、神田小学校から千代田区立一橋中学校、それから日比谷高校、東大というのが、貧乏な公立通いにとっての出世コースだったんですよ。

−−いきなり函館から来て、ギャップがあったんじゃないですか?

菊地:雰囲気が全然違いますから、もうわけわかんないですよ。でも、神田小学校の先生たちのおかげで中学校は一橋中学校に行ったんですが、通うのが大変だったんです。というのも小学校5年の途中で、船橋の山奥に親父が家を建てちゃったんですよ。そこから学校が遠くて、弟をかばいながら総武線の超満員電車に乗って通学していました。

−−いきなり遠距離通学になっちゃったんですね…。

菊地:ひどい遠距離ですよね。1時間以上通学にかかりました。それで親父とお袋に「自転車で5分か10分のところに中学校があるのに、なんであんなとこまで通学しなくちゃならないんだ」と言ったんです。どうやら親父は一橋中学校、日比谷高校、東大という例の出世ルートを歩ませたいと思っていたらしいんです。

−−で、船橋の中学に転校したんですか?

菊地:そうです。そしたら、なんにも勉強しなくても学年1番か2番なんですよね。

−−船橋の中学はそんなにレベルが低かったんですか?

菊地:レベルが全然違うんですよ。私は一橋中学校では真ん中くらいの成績だったんですが、転校した中学校ではいつも1番か2番で、そうなると人間おかしいもので、それを保つために勉強するんですよね。その中学校は地元の悪ガキがたくさんいて、とにかく荒れた学校でした。

−−ちなみに中学時代は何か部活をしていたんですか?

菊地:器械体操部と卓球部の両方に入っていました。それで高校は県立千葉一高に進んだんですが、そこでは器械体操部に入っていました。当時、千葉で国体があって、国体がある県は3位ぐらいまでが出場できて、国体に出場した記憶があります。

−−まさに文武両道ですね。

菊地:そうですね(笑)。器械体操部では高校3年生のときキャプテンになったんですが、運動部のキャプテンが集まって、夏の甲子園の千葉大会の応援をするために応援団を作ったんですよ。そのときに応援の指導をして頂いたのが早稲田大学応援部の先輩で、応援以外にも学校や親父が教えてくれないようなことを色々教えてくれたんです。例えば、恋愛のこととか、夢を持つこととか、友達は大事とか、いろいろな話をしてくれました。それまでそんなことを考えたこともなかったので目から鱗で、「やっぱり大学は早稲田だな」と思ったんです。でも親父もお袋もそんなにお金を持っていないですから、国立大学へ行って欲しいじゃないですか。それで国立も受けたんですが落ちて、受かったのは早稲田の理工学部だけだったんです。それで「まあ、いいか」と通わせてくれました。

−−それでも早稲田の理工ってすごくレベルが高いんじゃないですか?

菊地:私は国語とか地理とか全然駄目で、理系教科で受験できるところといったら、当時、早稲田の理工くらいしかなかったんです。あと東京商船大学の二期も受けて「商船大学もいいな」と思ったんですが、そのまま早稲田大学 理工学部の電気通信学科に入って大型コンピューターのフォートランという言語を勉強しました。

−−ちなみに大学でも器械体操をされたんですか?

菊地:いや、さっき話した先輩が応援部だったから、すぐ応援部に入っちゃったんですよ。