dc-uk_cover

かつてイギリスに「DC-UK」というドリームキャストの専門誌がありました。2年ほどで終わってしまいましたが、イギリスではセガは根強い支持があったこともあり、なかなかの人気ぶりだったようです。
その雑誌に創刊時から参加し、2代目の編集長も務めたのが、今もゲームライターとして活躍されているキース・スチュアートという人物でした。そのスチュアート氏が最近、イギリスのゲームサイトに当時の思い出話を書かれており、これがなかなか興味深い内容なので、ここに紹介したいと思います。

* * *

それは1999年冬のことだった。当時、ゲームの世界は妙なことになっていた。初代プレイステーションはその劇的な生涯を閉じようとしており、早くも後継機をめぐる空騒ぎが始まっていた。マイクロソフトはXboxについてはっきりしない態度を示すばかりだった。誰もが次世代機を心待ちにしていた。

そこに登場したのが、ドリームキャストだった。

1999年の春、かつてあるゲーム雑誌で一緒に仕事をした、知り合いの編集者から連絡があった。なんでも、出版社のフューチャー・パブリッシングで新しくゲーム雑誌を始めるとかで、それに加わらないかという誘いだった。それはセガの新型ゲーム機を題材にしたもので、ただセガの公認ではないという。誌名もすでに「DC-UK」というものに決まっていた。ぼくにはそれが何を意味しているのかすら分からなかったのだが。

当時のぼくはフリーだったが、雑誌編集にフルタイムで関わる気はなかった。その数年前にぼくもフューチャーで雑誌編集に参加していたのだが、その内情ときたら無茶苦茶だった。雑誌づくりは確かに面白いし、ぼくたちはほとんど何でも好きなようにやらせてもらえた。だが、とにかく給料が安かったし、長時間労働の連続だったのだ。どんな雑誌も、深夜労働と深酒と二日酔いの末にようやく作り上げていた。ぼくとしては「ゴッドファーザー3」のアル・パチーノのような心境だった。つまり、あの世界に引き戻されるのはごめんだということだ。

だが今度ばかりは話が違った。なにしろセガなのだ。あのメガドライブを作ったセガだ。1989年、父はメガドライブを買ってきて、ぼくに使わせてくれた。そのメガドライブでぼくは「ソニック」や「ベアナックル」、「ファンタシースター」、「トージャム&アール」を知った。まさしく、ゲーム機のありかたを変えたゲーム機だった。その栄光のメガドライブを作ったセガなのだ。

だがそれからのセガは苦しい時期が続いた。メガCDは売れたが32Xは大失敗だった。サターンはすばらしいゲーム機だったが、時代と客層を見誤っていた。一方でそこにうまく適応していたのが初代プレイステーションだった。そんなわけで、当時のセガは負け犬だった。そしてこのぼくときたら、負け犬にはめっぽう弱いときている。

ぼくは誘いを受けた。


新雑誌創刊

それから2か月かけて、すばらしい雑誌が出来上がった。それは個性的で、新しさに満ちている雑誌だった。ゲーム雑誌といえばニュース、発売前の新作情報、特集記事、ゲームレビュー、攻略情報と並べていくのが普通だが、ぼくたちはそれを踏襲せず、一方で開発者と密接な関係を築き、独占情報を確保し、実に楽しい時間を過ごした。

当時のフューチャーは、プレイステーションの公式雑誌が売れていたため資金に余裕があった。おかげでぼくたちも、どうかというようなアイデアを実現できた。たとえば「ゲットバス」(バス釣りゲーム)の記事のために、編集部の皆でコーンウォールの海岸まで出かけたりしていた。そして会社も、別に何もいってこなかった。何でも好きなようにやれというわけだ。

ぼくを誘ってくれた編集者は7号目で別の雑誌に移り、ぼくが後任の編集長となった。雑誌の方は危ういわけではなかったが、その兆しはすでにあった。ドリームキャストは当初かなり好調だった。「ソウルキャリバー」や「クレイジータクシー」のような良作に恵まれたこともあり、日本やアメリカではしっかりとした支持層が出来ていた。問題は海外のゲーム会社からのサポートがなかったことだった。エレクトロニック・アーツはドリームキャスト向けのゲームを作るつもりはないことを公言していた。となると、FIFA公認のサッカーゲームのような、ヒット間違いなしの作品も期待できない。これに他のゲーム会社も続いた。誰もドリームキャストに関わろうとしなかったのだ。

雑誌の方は、創刊から8か月目にして、早くも部数にかげりが見えていた。悪い兆候だった。ぼくたちは誌面の構成をいじり、紙質を落とし、面白い特集記事をいくつか見送った。だが同時に、よく分かっていたこともあった。ぼくたちの雑誌は熱心なゲーマーからの支持を得ていたが、それはひとえに、日本ゲームの状況をたびたび取り上げていたからだった。そんな読者が知りたがっているものといえば「ギガウイング」であり、「マーズ・マトリックス」であり、「斑鳩」なのだ。彼らをつかまえておかなければならなかった。そうすれば、たとえドリームキャストの市場が落ち込んだとしても、雑誌としては生き残っていける。

ゲーム雑誌にはふたつの大きなプレッシャーがある。発行部数と広告収入だ。雑誌は売れなければならないし、広告も取れなければならない。このふたつはいわば両輪の輪で、どちらが欠けてもいけない。すべてがうまくいっていれば、このふたつをすり合わせることは難しくないのだが、何か問題が生じると、いろいろと面倒なことになる。雑誌づくりは楽しいことではあるのだが、こういうプレッシャーは絶えずつきまとっているのだ。

これに加えて、特定のゲーム機に的を絞った雑誌となると、もうひとつ配慮の必要な要素がある。つまり、そのゲーム機を作っている会社とうまくやるということだ。


セガとの関係

セガは、組織としてはまったく統制が取れていなかった。少なくとも、外部からはそう見えた。日本とアメリカの両方にそれぞれ強い権限をもつ人間がいて、互いを打ち消すような判断を下すことも多かった。そしてヨーロッパにおけるドリームキャストの発売キャンペーンは、実に金のかかったお笑いぐさだった。セガは、本来のファンを置き去りにして、ロビー・ウイリアムスの曲を使ったCMを打ち、3つものサッカーチームのスポンサーについた。ぼくたち編集部にとってそれは、面白くもあり、不安の元でもあった。だが少なくとも、ぼくたちの雑誌はメーカー公認ではないため、何でも好きなように出来たはずだった。それこそ別に、相手企業を褒めたりする必要だってないのだ。

ぼくたちは個性的でなければならなかった。そして、尖った存在でなければならなかった。当時のぼくが強く影響されていたのが「アミーガ・パワー」だった。同じフューチャー社から出ていたこの雑誌は、その破天荒な姿勢によって象徴的な存在になっていた。ぼくたちはドリームキャスト版の「アミーガ・パワー」を目指していたのだ。


Amiga_Power_1991
(「アミーガ・パワー」。当時のイギリスで根強い支持を得ていた雑誌でした。2016年には歴代の編集者を招いての回顧イベントが開かれていますが、その司会進行を務めたのがスチュアート氏です)

ある号では、ドリームキャストのリージョン指定機能を迂回する方法を説明した記事を載せている。ディスクを差し替えることで、日本製の輸入ゲームが遊べてしまうのだ。ぼくとしては、ドリームキャストのユーザーの中でも、とりわけコアなゲーマーに喜んでもらえるだろうと思った。なにしろ、このやり方を使えば、ケイブやトレジャー、SNK、アークシステムワークスの諸作がプレイできるのだ。そして、そうした作品群こそ、彼らにふさわしいものだった。ぼくは日本に行き、秋葉原をうろついては、イギリスには絶対入ってこないような風変わりなゲームを買い集めた。列車ゲーム、恋愛シミュレーション、ビジュアルノベル。そうしたものを称賛したかったのだ。

だが、それを面白く思わなかったのがセガヨーロッパだった。あの記事にいたく立腹していた。というのも、彼らが雑誌に対して期待していたのは地元イギリスで発売されるゲームを推してくれることであり、海外からの輸入ゲームなど迷惑な存在でしかなかったのだ。そして、実にまずいことが起こった。


セガの不興を買う

ある時、デイテルから連絡があった。チートカートリッジなどのゲーム関連製品を専門に扱う、イギリスの老舗企業である。話の内容は、ドリームキャストにチート機能を実装する製品を作ったのだが、その機能限定版であるデモを用意したので、雑誌の付録にどうかというものだった。

当時のゲーム雑誌にとって、付録は重要だった。たとえば、プレイステーションの公式雑誌は、内容もよく出来ていたが、最盛期で30万部というその売れ行きに大きく貢献していたのが、毎号に付属していたデモディスクだった。当時は、新作ゲームのお試し版をネットで入手するようなことはできなかった。雑誌などのデモディスクに頼るしかなかったのだ。内容しだいではあるが、あの手の付録があれば、雑誌の売上げが2割は上昇したのである。もちろん断るはずがなかった。

話はとんとん拍子に進み、次の号にはデイテルのデモディスクを付録にできた。ぼくとしては大いに自信があった。かならず売行きに結びつくはずだった。ところが発売から数日すると、読者から妙なメールをもらうようになった。例の付録を使うと、ドリームキャストのリージョン規制を回避できるのだが、そのことを知っているのかというのだ。

ぼくは知らなかった。デイテルに聞くと、当惑しているようだった。果たして彼らが承知の上でやったのかどうか、今になっても分からない。ともかく、噂はたちまち広がっていった。手持ちのゲーム機をマルチリージョン対応にしてしまう製品が、じつに手軽に入手できてしまうのだから無理もない。

セガと取引のある広告代理店が連絡してきた。セガヨーロッパは大いに立腹し、当惑しているという。その頃はまだドリームキャスト陣営も、プレイステーション2に対抗できる可能性は十分にあると考えており、製品の売れ行きを注視していた。そんな状況で、本体のリージョン規制をリセットするような製品が大量に出回ってしまったのだから、彼らとしてはたまったものではなかった。

ぼくはセガに対して、事態を釈明しつつ、その一方では関係部署に雑誌の増刷を打診したりしていた。だが、そうするうちに明らかになったのは、セガはもうぼくの雑誌に一切の協力をしなくなったということだった。いわゆる、ブラックリストである。

これはゲームに限らず、音楽でも映画でも自動車でも、あらゆる分野の雑誌で起こり得ることである。誌面で何かをけなしたりして、誰かを怒らせた結果、編集部への協力を断られたり、広告を引き上げられたりするのだ。そしてぼくは、セガのゲーム機に関する雑誌を作っていたというのに、よりによってそのセガを怒らせてしまった。

セガは、表向きにはぼくといっさい話してくれなくなった。だがぼくは、毎月100ページを埋めなければならないし、制作チームも抱えていた。そして2万5千の読者がいた。


逆境が人間をつくる

人は、とりわけ厳しい状況に置かれた時にこそ、かけがえのない教訓を得ることがある。どうやら人間の頭脳というものは、そんな感じで鍛えられるらしい。この時期にぼくはゲーム業界にしっかりとしたつながりを築くようになった。海外の開発者やゲーム雑誌にコネを作り、その人脈を通じて業界の情報を入手していたのだ。そのおかげで、雑誌を続けることができた。

それはブラックリストというほど厳しいものではなかったかもしれない。だが、いずれにしても、初めて編集長として雑誌を任された若手編集者にとっては心労の元ではあった。1年もしないうちに、ぼくは編集部を辞め、それからまもなくして、DC-UK誌そのものが終わってしまった。もっともその頃にはすでに、ドリームキャスト自体が終わっていたのだが。

それから2年後、ぼくは再びセガと組むようになった。「フットボール・マネージャ」(セガのスポーツゲーム)の公式雑誌で仕事する機会を得たのだ。そもそも、かつてぼくに怒りを向けた人々にしても、彼らが支えていたゲーム機を守るためにそうしたのだ。ぼくとしては、彼らを責めるつもりは全くない。

この一件でぼくが学んだのは、ゲーム雑誌が考える対象読者と、ゲーム機のメーカーが想定する消費者像との間に、大きなズレが生じている場合があるということだった。専門誌に関わる者は、読者に対する責任と、その業界で生き残っていくための保身との兼ね合いで、しんどい思いをすることがある。だが結局のところ、編集者がもっとも大切にしなければならないのは、お金を払って雑誌を買ってくれる人たち、つまり読者なのだ。そのことはぼく自身、よくわかっているつもりだ。なにしろこのぼくも、ゲーム雑誌に熱中した子供時代を過ごした人間なのだから。

確かに、付録の件ではぼくは間違いをしでかした。だがそれは致命的なものではなかったし、ぼくとしてはたくさんの教訓を得た。すなわち、ゲーム業界では時として自滅行為が起こるということ。場合によっては冷静になるよう努め、事態の収拾を第一に考えなければならないこと。常に新しい人脈づくりに励むこと。そういったことだ。

今でもときどきこんなことを考える。もし、例のディスクの正体を事前に知っていたとして、それでもぼくはあれを付録にしただろうか。その答は決まっているし、今も昔もぼくの考えは変わらない。ただ、あえて言うと、世の中には読者に伏せておいた方がいいことだってあるのだ。

* * *

この記事は好評だったようで、たくさんのコメントが付いています。記事自体の感想を別にすると、主な反応は3つありました。すなわち、「DC-UK」は愛読していた、ドリームキャストはすばらしいゲーム機だった、そして当時のセガの広告戦略は最悪だった、というものです。その中から以下にいくつか挙げてみましょう。

「今でもドリームキャストを3台確保してある。バンガイオーのない人生なんて考えられないから」

「ドリームキャストはすばらしいゲーム機だった。しかるべき成果を得られなかったのは本当に残念だ。あの宣伝キャンペーンを決めた連中は万死に値する」

「当時、輸入ソフトの専門店で働いていた。ドリームキャストの日本ゲームはもともとよく売れていたけど、あの付録が出た後は、売り上げが爆発的に伸びたのを覚えている。シェンムーなんて大変な売れ行きだった。たとえストーリーが分からなくても、気にする者なんていなかった。誰もが未来を手にしたいと思っていたんだ」



(イギリスでのドリームキャストCM集。何の宣伝なのかさっぱり分からない、意味不明のCMとさんざんな評判でした。後になってようやく実際のゲーム画面が登場します)