誰も興味が無いことを書く

2016-06-04

ゼロ年代批評はレイシズムとどう向き合ってきたか?

本日(6月3日)ヘイトスピーチ法が施行された。本法が主に与党案を叩き台にして纏められた理念法であり具体的な罰則規定がないことや、表現の自由の問題、また刑訴法の改悪などの不安事項が重なったこともあってか、法制化の先頭に立った当事者とその関係者以外から、必ずしも広く支持を得られていないことはわかる。しかし、それまでネットやリアルを問わずに、野放し状態だったヘイトスピーチレイシズムを抑止する一歩として、まずは評価してよいと思う。

さてここで本題に入りたいと思うが、ネット上の局所的流行であった嫌韓嫌中ブームから、ヘイトスピーチマスメディアに注目されて社会問題化するまでに、はてなSNSなどでの反応、またネットの文学青年たちに多大な影響力を与えたゼロ年代批評は、どのようにレイシズムを見てきたのか探りたいと思う。「ゼロ年代批評」とだけいうと大雑把で曖昧な括りになってしまうが、ここではゼロ年代批評を牽引してきた東浩紀宇野常寛と彼らの仲良しグループを中心にした緩い繋がり、またそれに影響を受けたと思われる一般ブロガーや読者たちのことだと思ってもらえればいい。これは具体的に定義せずとも、ネット上である程度可視化された存在であることはご理解いただけるであろう。

まず、中国文学者の福嶋亮大はどう考えたか? 震災前の2010年のツイートであるが、在特会のメンバーによる京都朝鮮第一初級学校襲撃事件に関してこう述べている。また以下のスクショは、当該ツイートが削除済みであったので、福嶋のtwilogから在特会と検索して拾ってきたものである。

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当時は、今よりもネトウヨ在特会批判するリベラルへの風当たりが強かったいえ、在特会による朝鮮学校襲撃事件は、明らかに誰の目から見ても、マイノリティに対するいき過ぎた「暴力行為」にうつっていたと思われる。

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以上の動画を見てもらえば、福嶋がどのような文脈でいったにせよ(2010年当時からしても)無知蒙昧で不見識な発言だったか理解できるだろう。しかし、福嶋は後にこのように釈明している。

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福嶋は自著の『復興文化論』で、江戸時代以降の徹底的な宗教の締めつけによる結果、脱宗教化と世俗化が完成した日本の特徴の一つとして、(おそらく)日本人の他者や世界への無関心また政治的無関心を指して「冷たい個人主義*1と評していた。だが、まさに 京都朝鮮第一初級学校は(問題の公園も含めて)実際見たことがあるけれど、はっきり言ってボロいし小さいし、また公園そのものも凄く狭いものなのね。負担のかかる生徒も出てくるかもしれないけど、新校舎統合はむしろ現実的なんじゃない?在特会の脅し云々って話だけじゃないと思う。」 という発言一つとってみても、自分の内面にしか関心のない、いかにも日本のインテリらしい“冷たい個人主義”なナルシズムが開陳されちゃっていると思う。だけど、「僕は在特会が言っていることが100%間違っているとは思わないし」「それこそ語り口の「制御」次第では適切な問題提起になりえるかもしれないけど」 って、どこをどう制御すれば在特会の語り口が適切な問題提起になりえるのか知りたいものである。

いずれにせよ、2010年当時はまだこのレベルだったし、在特会の暴力性よりも、それを批判するリベラルの内なる暴力性こそが問われなきゃいけない、かのようなネットの奇妙な空気感に迎合した発言でしかなかったのである。この当時の福嶋の一連のツイートは。師匠筋にあたる東浩紀も、(もしかしたら未だに)リベラルを叩く棍棒として、ネトウヨに対して甘い発言を繰り返していたと思うし、荻上チキも、カルデロン一家追い出しデモを取り上げたブログの中では在特会ネトウヨ現象に対して、どこか歯切れの悪い遠慮がちな議論しかできていなかった。ネトウヨに対するカウンターデモが本格化する以前までは、直接的にネトウヨ批判すればするほど、かえって己に内在する過激な暴力性を発露することになりかねないし、いったんその(ネトウヨ批判者に)内在する暴力的な言質を相手にあげつられてしまえば、逆に不利になりかねないという、今から考えると自意識過剰な自制心にとらわれていたのである

例えば、東浩紀が主催した批評家育成リアリティー・ショーともいえる『ゼロアカ道場』の優勝者、村上裕一も、ネトウヨを分析した『ネトウヨ化する日本』の中でこう述べている。

「私は、人を助けるためだったら人を傷つけてもよいという立場には与さない。目的が手段を正当化するという発想こそが、他者への暴力そのものなのである。もちろんそれは、人を救うことを否定しているのではない。しかしながら、人を救うというのは軽々しいことではない。それはゼロサムゲーム産物ではないのだ。私たちはその営みがどのような意味を持つのか考え続けなければならない。それは終わらない逡巡を生きるということを意味している。決断をせずに生きることは難しいが、決断の前にも決断の後にも逡巡がなくてはならない。私が文学の復活を願うのは、そのような逡巡を体験するものこそが文学だと思っているからだ。」ネトウヨ化する日本』p.344

いちおう断っておくが、僕は本書の全部がダメとは思わなかったし、ネットとレイシズムの関係について頷ける分析も多く含まれていると思う。しかし、ここで村上が問うているのは、日常に平然と蔓延るレイシズムや歪んだナショナリズム実態そのものではなく、それを目前にして自覚される村上自身の内なるネトウヨ性、また不可逆的な在特会的なるものの勢いの前で、ただ萎縮する村上のようなインテリの自意識の問題であると、自ら暴露している*2

それはつまるところ、村上の勝手なナルシズムでしかないのだが、しかしそれを、逡巡する文学の問題に偽装することで、例えばしばき隊よりも、一歩進んだ次元で問題を普遍化できているかのように見せかけているのである。村上がここで主張していることは、ヘイトスピーチレイシズム一般化した日常の中であっても、それに直接対抗したりはせずに、頑なにその状況下を見守り続ける、いわゆる「価値観の宙吊り」に耐えろということのように思う。むろん、それはネトウヨ側に一方的な暴力性の権利を与える、不公平な議論でしかないのだが。

しかし、福嶋や村上といったゼロ年代批評のフォロワーたちは、ヘイトを目前にした時に己の中で内発してしまう暴力性に怯え続け、むしろその内なる暴力性こそが、ネトウヨ的なものを生み出す根源であるとし、その自己批判他者にも押し付けて、ネトウヨヘイトを巡る議論のみならず、具体的な抑止策すらも抑圧しようとしてきたのである。

このようにゼロ年代批評やネットのインテリたちが、ヘイトレイシズムに関する議論を無駄に複雑化し、歪めてきたことは言うまでもないだろう。例えば、宇野常寛を中心に、萱野稔人與那覇潤らによる対談本『ナショナリズムの現在』の中で、萱野は「私は、「ネトウヨ」と言われている人たちには、真っ当なところがあると思っています。たとえば2014年の1月に神戸で不正に生活保護を受けながらポルシェに乗っていた在日韓国人万引きで逮捕されたというニュースがありました。「Yahoo!ニュース」上でのユーザーからの反応を見ていたら、トップに来ているコメントが「なんで日本人で生活保護をもらえない人がいるのに、外国人でもらえる人がいるんだ? おかしいじゃないか!」という内容でした。(中略)ここに今の日本のナショナリズムの一つの本質があると思います。要するに、今の日本は経済が不調で、財政赤字も増えていて、このままいくと社会保障も立ちゆかなくなる。つまり「日本人がこんなに苦しんでいるのに、なんで我々日本人自身でつくりあげた福祉のパイを外国人にまであげないといけないんだ」という心情があるわけです。」*3、とかなり飛ばした発言をしている。

もちろん、萱野のこの発言は単純にネトウヨを肯定したものではないし、この文脈の直後に萱野自身がオランダの事例を引き合いに出しているように*4福祉国家の機能不全が移民排撃とポピュリズム台頭の根拠になっているのは、西欧先進国共通した現象であり、特に現代日本ナショナリズムの本質というわけではない。むしろ、歴史的背景の全く違う在日韓国人と、ヨーロッパ移民世代を、同列の問題に扱っている無神経さこそ批判されていいぐらいである。

だが、繰り返しになるが、宇野自身があとがきで、(僕のような)リベラルから攻撃されることを予め予想して、「前後の文章から特定のフレーズを切り出し、悪意を以って脚色してあいつはヘイトスピーチを肯定したのだ、というまったく逆の意見を捏造して僕たちを血祭りに上げようとする動くが出てきてもまったく不思議ではない。」*5、とわざわざ釘をさしているように、本書も特にネトウヨ現象に親和的な内容となってはいない。

だけど、その宇野の発言を見ても、「そういうどうしようもない奴らがいる世の中は変わらないけど、その横で「彼らに負けないように俺たちは俺たちで頑張るよ」という集団をどれだけつくっていけるのかが大事なんじゃないか、と。(中略)しかし今「リベラルな人たち」って「現実と遊離した理想をソーシャルメディアに投稿している自分はロマンティストでカッコイイ」とか思っている人たちのことになってしまっている。これじゃあ、誰もついてこない。もう戦後民主主義的な、左翼的な物語は捨てて、もう少し脱物語化した、プラグマティック中間層を厚くしていくことが大事なんじゃないかというのが僕の考えなんですよ。(p.74-75)」、と現実的な認識を示しているように見えて、実際は上記で引用した福嶋や村上と似た内容の話をしている。

まず、ネトウヨ現象を半ばリベラルのせいにしている(これ自体ネット知識人の間で儀礼化された作法であるが)時点であざといし、「そういうどうしようもない奴らがいる世の中は変わらないけど、その横で「彼らに負けないように俺たちは俺たちで頑張るよ」という集団をどれだけつくっていけるのかが大事なんじゃないか、と。」、という発言は、不可避的なネトウヨの勢いと自分の問題を切断処理するしかない、という宣言に他ならない。しかし、それは村上がいったん文学の問題に置き換えて、ネトウヨと自分を再接続しているかのようにみせて、実際は分断しているのと同じようなことである。

その後の議論を追ってみても、宇野が仮想するところの、「リベラル的な大きな物語」に固執するリベラル市民批判を繰り返しているのだが、しかしヘイトスピーチに直接対抗して成果を上げてきたのは、宇野や本書の対談にも参加している小林よしのり仮想敵にしている、一般リベラル市民だったことは、今更いうまでもない。また本書から読み取れる宇野の意図は、もはや機能しなくなった戦後的な大きな物語に代わる、文化やグローバル資本主義を動員した新しいプラクティカルな物語に更新するべき、というゼロ年代批評の間で流行したアーキテクチャ論の延長線上の話であるように思われる。ただし、宇野の話は漠然としていて、それがどういうものなのかよくわからないが。

例えば「戦後的な中流文化から労働環境的にも、家族構成的にもメディア的にも離れた層が、都市部の若いリベラル層を中心に結集することが大事だと思います。圧力団体として機能するものをつくりたいんですよね。具体的にはウェブ共済のようなものを主軸に……。(p.176)」 という発言にしても、それを実現しているのは、成功しているかは別に、3.11以降の反原発運動の流れから、反秘密保護法デモやSEALDS、またAEQUITASといった労働運動にせよ、これらは全て宇野や、また東浩紀のような無党派リベラルアンチ知識人らが、もっとも嫌っている社会層から出現したものなのではなかろうか?

その間にゼロ年代批評の知識人らがやったことといえば、SEALDSポピュリズムだと批判した口で、朝生にて橋下徹を弁護していた東浩紀や、他方、宇野常寛といえば、家入一真の「インターネッ党」みたいなバカ騒ぎに喜々として賛同していたのである。むろん、彼らのリベラル批判にも耳を傾けるべきことは多くあるが、しかし戦後的な空間が消滅して、リベラルが瓦解したのと共に、単なる左翼リベラルに対する逆張り理論でしかない、ゼロ年代批評のような日本的ポストモダン思想も、また賞味期限切れになったのだ(もちろんゼロ年代批評以前の数多のサブカル思想も)。

少し言いすぎたが、ゼロ年代批評がレイシズムに対して有効な処方箋を示せていたとは、とても思えない。福嶋亮大や村上裕一にせよ、ネトウヨという暴力の出現の前で卑屈に怯え続け、その暴力を目にした時に目覚める、己の中の暴力性についてひたすら禅問答し続け、その「安全に痛い」自己反省パフォーマンスを、他者にも要求してきたのである。しかし、まだ本格的な衝突すら起こっていない段階で、(ネトウヨのそれは見逃し続けたくせに)リベラル側の暴力を執拗に批判する、日本のインテリ知識人は異常だと思う。以下、youtubeの動画を貼っていくが、先進国を見渡しても路上での暴力などありふれたものである。

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もちろん、目的化された物理的暴力を肯定するつもりはない。だがリベラル(だけに限らないが)の暴力性を忖度し、それをドヤ顔で牽制していい気になっている、日本のリベラルアンチの腐れインテリの根性には、見下げた思いがある。これは別に有名人だけの話ではなく、ネットに巣食う一般人読書インテリたちも、反レイシズム側の議論を不利にするために、ネトウヨ的なものに寄り添っていたのだ。少なくとも、多くの人文系青年や、難解なフランス現代思想を囓っているような哲学・思想ワナビーたちが、日々ネット上で、間接的な形であるにせよネトウヨ的なものに援護射撃を送り続けていたといっても過言ではない。

だからこれは、ゼロ年代批評だけの問題ではなく、東浩紀に一年中粘着しているような、ツイッターのアンチ・ゼロ年代クラスタにもいえることだと思うし、特に最近の彼らといえば、しばき隊の不祥事をそれみたことかと、得意気に粘着して叩いているようであるが、その態度こそが、東が提唱した「動物的存在」であることを自覚しているのか知りたいものである。むろん今更、既にこわばってしまった日本の冷笑的な知性主義を、どうこうすることは出来ないだろうし、期待することはなにもない。ただ、その腐った林檎は箱ごと捨てなければならない、とは思うが。

ネトウヨ化する日本 (角川EPUB選書)

ネトウヨ化する日本 (角川EPUB選書)

復興文化論 日本的創造の系譜

復興文化論 日本的創造の系譜

*1:『復興文化論』p.294

*2:「ゆえに本書は、本質的な意味で他人ごとではなく、私の問題を扱っている。本書は、社会を観察しつつ、私の中のネトウヨを暴き出すために書かれている」ネトウヨ化する日本』p.342

*3:『ナショナリズムの現在』p.13-14

*4:同上 p.14

*5:同上 p.185-186

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