1人本屋で過ごすのも素敵な時間
本命はこっちだったんだけど
今日は会社に車で行ってたので、帰り道にフラリとTSUTAYAに立ち寄り。本をネットで買うことも多いんだけど、やっぱりいろんなコーナーを歩き回りながら本を眺めるのは楽しい。
本当はこれを買いに行ったんですよ。文庫本化されたので。大きい方の本は1400円。ちょうど買おうと思った時に図書館で見つけて読んでしまったので。
いわゆる「やまめ乗り」とか「おじぎ乗り」とか言われるフォーム。エンゾ氏などがよくいう「骨盤を立ててうんぬん」とはまったく逆の考え方だし、まんま鵜呑みにするのもいけないとは思うんですが、荷重の仕方などで非常に納得出来る部分多し。
元アルペンスキーヤーでワールドカップの第一シードまで進んだ海和俊宏氏も言ってた。スポーツで大成できるかは「骨格で決まる」部分もあると。骨格とか筋肉のつきやすさ、体幹の強さとかすべては個人それぞれちがうもの。だから自転車の乗り方とか野球の素振りなど全部に言えるけど「人それぞれ最適なものは違う」んですよね。
僕にはこの堂城さんの説明で非常に理解できた部分が多かったということで。でもこの文庫本は見つからなかったので、明日京都をウロウロして見つからなかったらAmazonででも頼もうかな。
あっ!出てた!!
「自転車の教科書」の文庫本は諦めて他のコーナーをウロウロ。すると意外なものを発見。
五木寛之さんの「親鸞」3部作の完結編。ハードカバーの本が出てるのは知ってたんだけど、先の2作を文庫本で買っちゃったのでこっちも文庫本化を待ってたんですよ。こっちの2冊を買ってそそくさと帰りました(笑)
浄土真宗開祖のすごい人の事を書いたというよりも五木寛之さんが「悩み続ける1人の僧」を描き続けたまさに傑作。若い時は若い時の、結婚して子供が生まれて年齢を重ねる中、教えを広めようと活動する中でのそれぞれの苦しみや葛藤が深く描かれてるのです。でもそれらを知ったからこそ生まれるものもあるんですよね。
念仏なんて何の役に立つんだ、と聞かれたとき親鸞が比叡山に使いに出された時の話をするんですが、それがすごくいいんです。
親鸞が京都のお寺にいる9歳のとき、高僧から京都と滋賀県の県境にある比叡山延暦寺の一番奥の横川というところまで使いを頼まれました。頼まれたのがすでに夕方、到着するのはどうやっても深夜になるような役目で誰も引き受けなかったため若い親鸞に役目が回ってきたのです。
もともと比叡山に憧れてた親鸞はその使いを引受け比叡山に重い荷物を持って出かけていきます。あっという間に夜になり月の明かりをたよりに親鸞は暗い夜道を歩いていきます。月の光が雲で隠れると真っ暗で足元も見えず、重い荷物で肩紐は体に食い込み、草履は紐が切れてしまい裸足で血まみれになりながら歩いて行く事に。
そしてついに真っ暗で一歩先には崖があるかもしれない、何も見えない恐怖に歩けなくなり泣き出してしまう親鸞。目的地はどこにあるかもわかりません。しかしその時、月のあかりが暗い夜道をさっと照らしたことで親鸞は自分がいる場所や目的の方向などを知ることができ、目的地の横川の灯りを見つけることができました。するとさっきまでの泣いていた自分がウソのように足取りが軽くなって目的の場所までたどり着き、役目を果たすことができたわけです。
この一文は原文を引用します。
「月の光があたりを照らしたからといって、背負っている荷物が軽くなったわけではない。遠くに横川の灯が見えたからといって、そこまでの道のりが近くなったわけではない。荷の重さもかわらない。歩く道も近くはならない。だが、座り込んでいたわたしはたちあがり、歩き出すことができた」五木寛之『親鸞』激動編(下)170ページ
自分がここにいて、目的地があそこにある、それがわかっただけでも人は生きていけるんだ、私にとって念仏とはあの時の月の光のようなものだと言うシーンなんですが、何度読んでもこの部分が心に沁みるんですよね。
漠然と日々を過ごすより、どんな小さいものでも目的とか目標とか「こうありたい」というものを意識することで自分を励ますことってできますから。
特定の宗教だから、とか仏教は、とかでなくシリーズ物の小説を読むという気分で読んでもらってもめちゃくちゃオススメです。
ひゃっほー揃った!最初から読みなおそうかなあ。